てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

書評― 道教史の研究 大淵 忍爾

道教史の研究〈其の1〉初期の道教 (創文社東洋学叢書)/大淵 忍爾

¥9,975 Amazon.co.jp

―を読んだので、メモがてらに、一回メモった後、書き起こしなんで、ページ数とか結構いい加減です。例のごとく。自分で書いた文字が汚くて読めないのは日常茶飯事ですね(笑)。

 なんかWikiの太平経のところみたら澤章敏(1999)ってのが中心になって書かれていますね。大淵さんが全く参考にされていないのだが…。大淵さんのこれは1964年のやつの書きなおしっつーことはないでしょうし、一応1991年出版なんだから、ちょっとはこちらから書かれてもよさそうなもんなんですけどね。大淵さんが一番道教のはじめの研究、五斗とか太平教の権威だと思うんですが…。澤さんの読まなきゃいけないかなぁ?なんかもう正直論文読んでいてこれ以上得られそうなものがあるとは思えないような…。何か新発見は書いてあるのでしょうか?

 序、道教概念規定の難しさ(P5)。道教=宗教である。仏教の影響を強く受けており、中国人・漢民族の宗教。

 (1)道教定義の難しさ(p6)道教とは~という時空間を超えて人間論・独自の哲学がない。人間存在の根源的真実性に基づいた教説がない=基本がない。教義・経典・教祖なし。例えばユダヤ・キリスト・イスラムをまとめて同じ宗教とは扱わないだろう。一神教とカテゴライズするくらいで。セム的一神教としてその根幹をみなすべきか。そして道教も同じく宗教としてひとつの括りにするよりかは、中国的土着宗教・民間信仰、道教群のような感じでおおまかなつながりがあるものとして考えなければ、その本質を見落としてしまうだろう。そもそも「道教」という連続したそれが各王朝にわたって存続し得たものがあったか?あたかも仏教の諸派がその時代に隆盛するモノが変わっていくように、展望を遂げていくと思う。

 まあアジア的というかセム的一神教以外の宗教の特徴ですね。神道道教ヒンズー教のように、土着のそれが啓典・啓示宗教のような一神教形態を取らずに発展・展開した典型。信仰・教義がないゆえに良い加減・可変性が強い。ただしその逆で一貫性に乏しい。強大な宗教社会は、宗教が何よりも先んじる。そうでない社会では当然宗教が優先されない。ただし社会の一大危機・転機で啓典宗教の役割を要求される。そこに注目すべし。

 氏はこれを基本的枠組みの薄さという言葉で表現していますね。中国人の一般的な心情、現世福利・功利が宗教の形式をとった(ウェーバーの言う呪術)。富・名声・地位・富貴・健康など。肉体・物質からの超越がなくもないが、現実的生を離れるものではない。そこに解脱がない。解脱がないゆえに仏教=永遠の死が中国に土着・吸収されずに済んだ所以だろう。神仙術思想も仏教から言わせれば六道の中で上に行こうとする愚かなステップに過ぎないもんなぁ

 神仙・道士の信仰と一般のそれは分けることができる(p8)。神仙思想は道教教義にあまり関係がない(同)。つまり神仙を望むような社会上層が中心ではなく、中層から下層が思想・教義の主体なのだろう。神仙は上にあるもの、社会上層へのおまけというかニーズを満たす特別なものという感じだろう

 (1)「民族的宗教」、他の「民族宗教」と分けるため。中国的民族宗教じゃあダメなのだろうか?どちらかと言うとそんな感じがするのだが。神仙~・道家~と諸要素を列挙してあわせても道教を説明した事にはならない。東アジアのどこにでも似たようなのはあるから。二、始原―民間・自然宗教ではない。団体・組織ではなく、対象は個人(同)。宗教の個人化・個人をターゲットとするというのがポイント。成立は東晋末・四~五世紀に道教者としての一体感・自意識が生まれる(p9)。しかし教法・実修・組織という点ではすでに二世紀にその端緒がある。張角太平道張魯五斗米道。宗教と言うよりは政治運動(宗教として重要なのは集団→個人化。集団救済の儒教はそこに「士」という観念がある。丁度君主と民の中間にある。上の中から下といった階層が主眼となる。全体の秩序と各身分の役割に主眼があり、這い上がれない社会に変化してその集団救済に疑問符がつくようになる。結果下層の団結・反逆こそが道教の端初であろう。民族宗教といっても社会的要請。筆者の政治運動という言葉を借りれば、教団=宗教として必要とされた、確定していったのはむしろ北朝・turkeyに於いてであり、このことを重要なステップとして見落とすべきではない)。

 前者が政治、後者が思想・宗教なら道教思想というか集団のコントロールは五斗米道において完成か。張魯の教団の冀州への拠点移動は、青州兵に対し各拠点として機能しそうな中心の冀州から連絡網・ネットワークを断つためか。どの程度張魯などによって管理しようという考えがあっただろうか?青州に対しては同盟といって良い待遇。それを屈服させるというのはかなり大きな意味があったはず道教という性質から完全なる始原という断定はできない(p10)。あたかも大河のごとくバラバラ。バラバラであるそれが全ての一つにまとまっていくこと共通の宗教であるという自覚をもたらした作用に注目すべきではないか?原始道教は原始仏教を、全真教の宗教改革キリスト教のそれを、連想させるのでこの用語を使うべきではない。氏には西洋の学問を視点として比較の思想がある。今言ったことは丁寧であり好感が持てる。しかし比較宗教のそれがない。残念だ。社会との関連の重要性(p10)。

 一章A反乱の背景、(1)高柔伝の戒めを上げて荒淫を夭逝の要因にしている。がこれは違うのではないか?そもそも礼を過ぎているからーという私的であって、荒淫とは関係がない。そして宮中・私室に値する情報はまず漏れないと言える。平安時代のそれと違って簡単にそういう話は漏れたりしないだろう。もちろん予測に過ぎないから実際はどうだかわからないが根本的な外戚・宦官論についての認識の誤り。政治勢力に善悪などない。

 2、内地侵入(p16)、安帝の羌侵入から情勢が変わる。吏人・豪家に使役され苦しい生活。107西域都護を罷め一行を護送のための徴発の負担から大反乱。まともな武器はなかったが、中央兵もないから広がる。さらに黄河下流の氾濫、水害旱が深刻なダメージを与えた。108黄河中流まで侵入。これに大敗することで従来の方針から武装化へ転換。涼州放棄論があり、118までに240億銭を費やす。順帝末に羌の乱で80億銭、霊帝初44億銭と出費が止まらなくなる。元帝の頃、国に40億・皇帝に43億あまりの収入と記録され、漢末と後漢初の収入は123億ほどとあって、いかにこれらの負担が深刻だったかの目安になろう。この乱で荒廃と豪族化が進む(p18)

 3,反乱は梁氏・宦官時代に増える。―増えるというか増えたからこそ、この政治となったのという面があり、どちらが始めではなく、むしろ相互連環的に捉えるべきだろう。両方共因果であり、連鎖反応する。反乱地域は関東→淮南・揚子江下流→宦官時代となり更に南という順で多発地域が広がっていく。梁氏で西を重視した結果、関東にその負担・しわ寄せが行き反乱が増えたということなのだろうか?全体では張角・鉅鹿と泰山・淮水と揚子江の中・下流が多い。とすると呉の場合はこれまで虐げられたそれが政権を支えてきたと見ることができるのだろうか?もう一方の蜀は地域的孤立が作用したと見るべきか?安帝・順帝までは将軍を自称する例が多かったが、質帝から皇帝を自称するようになった。

 後漢紀だと弟は良と宝(p20)。後漢紀巻四十二大医事善道とあり、称号は全て賢・良あるいは黄天。そこに王朝や皇帝感はない。治病や師、宗教的理念の強さ。黄天當立は太平教にない。大医もそこまで尊重されない。大医・大賢・天地人=共同体制?つまり太平道というのは宗教の中でも治病をメインとし、天下国家に直結するそれという観念はそこまで強くなかった。また仮にそうであったとしても張角が採用した世直し、革命の理論は太平道に依拠していないことに注目。しからば黄天の論理は一体どこから来たかに注目すべきであろう

 p25、通常の巫祝と異なり、教を持って信者を得たことが異なる。普通に豪族など、そういった巫祝のような勢力も組み込んでいったと思われるが…?特に後者の巫祝というのが混在するのはもう少し後の道教なのであろうか?その勢力との対立・融合などは極めて重要な観念だと思うのだが…?誰か研究している人はいないのか(いつか書くと思いますが増淵さんが書いています…)?坊=方=教会堂を指す(p26)。教会堂というものは新しく作ったりするものではなく、既存地方社会に存在するそれだろう。ということだからやっぱり既存のそれ、社の延長上にあると見ていいと思う。後漢書孔融伝にあるように、黄巾四万の棄教の例があり、熱心とは程遠い。

 (融、郡に到るや、士民を収合して兵を起して武を講じ、檄を馳せ物を飛ばして謀を州郡より引く。賊の張饒等の群輩二十万衆、冀州従り還るや、融は逆え撃つも、饒の敗る所と為り、乃ち散兵を収めて朱虚県に保す。和く復た吏民にして黄巾の誤まる所と為る者男女四万余人を鳩集し、更めて城邑を置き、学校を立て、儒術を表顕し、賢良の鄭玄、彭璆、邴原等を薦挙す。郡人の甑子然、臨孝存、知名にして早く卒す。融之に及ばざりしことを恨みとし、乃ち命じて県の社に配食す。其の余、一介の善と雖も礼を加えざるは莫し。郡人に後無く及び四方の游士にして死亡する者有れば、皆な棺具を為りて之を斂葬す。時に黄巾復た来りて侵暴す。融乃ち出でて都昌に屯せしも、賊の管亥の囲む所と為る。融逼らるること急、乃ち東茉の大史慈を遣わして救いを平原相の劉備に求めしむ。備驚きて日わく、「孔北海乃ち復た天下に劉備有ることを知る邪」。即ちに兵三千を遣わして之を救わしめ、賊乃ち散じ走る。

 のところの話だと思われるが、この黄巾四万とは黄巾集団に参加していたと言うよりかは、カオスになって溢れでた流民を再集合させただけではないか?という気がする。まあ確かに熱心な教義によって結び付けられていた集団とは言えないのだが、むしろ賊となって各地を練り歩くそれに注目すべきではないか?全国で放棄した黄巾の裏切り・帰参を見るに、徐州にあるそれらというのはいち早く戦線を離脱して、帰参した。行方をなくした青州系の人間は追い詰められて混乱した。最終的に曹操帰順で落ち着いたが、虐殺は青州兵となった彼らの復讐という面もあったのではないか?)

 p28、宦官と黄巾内応。そして郎中張鈞の宦官斬って謝すべきという話。彼は獄死に。当事黄巾とつながるものもいても100%ではない。むしろかなり低い。宦官止めろとか全く関係ない話、殺されて当然。内応してもどうするのだ?後宮・朝廷を抑えるにしてもその軍事力などなかろうに。むしろスパイとして使ったほうがいい気がするが

 p29、張角の客による書疎。別に内応でも何でもなく、講和。黄巾という組織とその後どうするかという話し合いだろう。皆殺しにするわけにもいかないのだから。いわば曹操青州黄巾への対応の前段階とも言える後漢書陳思伝から百姓逃げて隠しても地方官は報告しないのが普通とわかる。劉陶伝には情報交換のみで報告せず。飲酒(三人)と夜行を統制とか監視というのはどうかな?治安の常識と思うが、酒はともかく。宴会監視をしても毎回取り締まるわけじゃなかっただろうし。桃園じゃなかったらいいんだから。劉陶は赦は無意味。流人をコントロールしてから討てば容易いと。結局混乱期がもたらした一時の大膨張に過ぎないかな。反乱も急激に増えて管理できずに外に不満を吐き出さずに入れなかったというところか霊帝は連年大赦している。張角の党もある程度取り締まられていた。後の黒山とかのように多すぎて絞れなかったのだろう。むしろ雑多・バラバラなそれが連携する構造はどんなものか解き明かすべきではないか?劉陶・劉寛・楊賜・張済らが上聞。陶と賜とかはともかく、あとはどうだろ?霊帝が悟らずというより、こういう初めての宗教組織に何がいったいできたというのか?かなり疑問。それを実行する国力もなかっただろうし。せいぜい上の提言くらい。むしろそれをほったらかしにするとしたら、一体何に政治パワーを注いでいたのか?政治課題を何として捉えていたのかを論じるべきだろう。バカで酒色に溺れていたは論外。結局政争としてまともに取り上げられなかったという派閥対立の要素が大きいと見るべきかな?この時代宦官と三公とかがうまく連携できていた感がないし

 馬元義鄴に荊州豫州数万人移す計画だった。金、富裕層の支援がなければできない。馬は連絡役。京を抑える人間ではない(p33)。鄴から京入りか。馬が死んで宛に拠点が移ったのではないか?四散したのか?連絡役の彼がどこに駐屯するプランだったかは重要な気がする。記録にないとしているが、統一行動出来なかったのはこの馬元義の死ゆえ。即位と出陣には天を祀る。人を殺し~というのは役人を血祭りに上げて犠牲にして祀った。劉盆子は天子=常勝軍で自称。反乱・祭祀・将軍=現実的な対応。宗教・政治のみ文化を表す。成功の号は不明であり残念(p35)としているが先の例のとおり、建国などはありえないだろう。なら国と百官を置くだろうし、将軍ということは君側の奸どおり、各個撃破。もし党人・指導できる人間がいくらか参加すれば成功したろうか?盧植が更迭されて董卓皇甫嵩が当てられたのはやはり西重視だからか?呉・蜀を南とすれば、西→東→南のサイクルでの大乱になるな。十倍で記すのは国淵伝からわかる。続漢書の百官志に胡兵の略奪・群賊化が記されている。毛玠伝に奴婢黥面とあるし、夷民もあって黄巾じゃないから中黄太乙も同じく平等な人間としての太一ではなかろうか?黄巾を治めるための屯田という性格があった。暴れる青州兵、28年立っているから少なくとも世代は経って二世代目。

 B、137順帝の頃に張陵が漢中へ入ったのは、西・羌乱ゆえでもあろう。教化の容易さ。つまり関東や淮南では広められなかった。特に出自の沛から離れたのが象徴的。西の漢中と冀州=最前線で異民族が多かった・下層に身を落とした人間が多かったというのがポイントだろう張角に前伝がないのが教団の急速な普及を裏付ける。「治」―五斗での会堂。厨―慶事・祈願で一定の人々に食事を供する食事という宗教儀礼の重視か?→祭酒という官名もそれ。先を祀る長老の務め。食事=社会福祉を通じて結社化を図った象徴であろう。酒脯(ほしじし、干し肉)・醢?やはり肉を食べるのは貴重だったということか?周礼に明神に祀り、盟約を破ったものに罰をなす。神と誓約して酒脯の共食。春秋の会盟で会の初めと盟の終わりに「享」という共食儀礼。公的にはともかく後漢でも民間儀礼は斯様な土地契約に仲介・売買人の三者が酒で杯を交わす。契約に神が関わる(p43)。つまり道教は民間の延長。厨・祭酒というところから考えるに契約・取り決めなど行政を広範囲に司ったのでは?裁判長のような膨大な判例を持っていたかも。もしくは一律管理か?漢が水を避けるのと逆の道教の水の崇拝。これは関係があるのだろうか?太清玄元が張陵の自称、これから見てまあ新王朝はともかく浄化の意味はあったろう。呪鬼の法。鬼卒・鬼兵・天老、また祭酒に、治頭・治頭祭酒。三階級

 二、督義司馬張魯と別部司馬張脩。劉焉指揮下で漢中蘇固をせめる。で張魯が張脩を殺して一気に掌握。五斗として羌に反乱を起こし黄巾の時に劉焉に帰属。刺史が従事祭酒に僻すると「臥して地にあり」(p48)。事務所・集会所を厨といい、全て公式行事・制度の延長。特に西域へと連なる点と線の要素が強い隴西あたりは機能が重要だったか。意味の重さが違った。既存行政・巫などを取り込んだ発展・延長上にあるのだろう。そもそも西羌の乱から布教の需要は高く、張陵の布教もこれと無関係ではなかろう。巴夷が張魯に就いたこと。巴人が背く。張脩の例もあり、巴に影響力強かったのだろう馬超に応じたのと劉備の侵攻の際の留守を狙って葭萌城への共闘を申し出た二つ以外は静観している。閻圃のすすめで竇融に習う(p53)。漢中の大きさ?二万戸(p55)。それだけではなかろう。集解に何焯が曹操の死は漢中失陥のショックとかあるが関係ない気がする。徙民について、楽しんで洛・鄴・長安とある。楽しんでという部分に疑問を呈しているが、移ることで何か特典があると見ていいのではないか?五年は無税とか、待遇が良くなったから楽しんでではないのか?大都市は言語が違う。一般民管理はフツーなのか?p57、関中を捨てるわけではないが、万余家・余人を関隴・鄴へ。どちらが五斗の本流だったのか?治などを考えると西だが、トップの張魯が鄴、ブレーンの閻圃雒陽の西、で彼らが関隴でばらばらに解体されたか。閻圃に教団的地位はない(p66)。

 二章一、道教教団の誕生・登場は偶然か?農村社会事情から検討してみる。

 個人を支配する国家で横の紐帯を生む宗教は禁止。氏はタテのそれも宗教に見ている。祀典にない諸廟を毀した=巫など割と自由に作っていたことがわかる。黄老はもちろん漢初の無為+神仏としてのそれ。武・宣帝が方士・巫に加えて、祠廟を作ったのと真逆の性格が成帝頃に見られだす。老子を祭っても諸廟を設けなかったのか?桓帝霊帝などは?武帝・宣帝のそれがどうだか比較する必要があるな。成帝の時、丞相匡衡は奏して、禮に合わない祠廟を毀すべき事を言い、國家奉祀の祠廟六八三所の中、二〇八して他は毀し、七十餘人の侯耐の方士等を免職にしたという。尤も翌年衡が免官になると、その半ばは復活されたが。上の廢止すべき廟の中には武帝や宣帝の時の黄帝祠も入っていた(漢書郊祀志)。前漢で方士が作り、儒生が粛清す。結局儒の秩序下に入った。桓帝の黄老道はその逆に近い形。方士的な黄老道ではなく、信仰に基づき、教義的なものを備えていたと見られる。青州黄巾の手紙で曹操が景王祀他の淫祠否定をその道・中黄太一と同じとすることからもわかる。後漢でも増えたりしているのはカバーしきれていないためだろう。どうなっても私的なそれの性格を出ない。※祭祀の統一の念頭=太一からしてそう。全て一つ。太一は五帝のうえにくる天神泰一、それが三一=天一・地一・泰一で、太一としてまとめられたもの。民間信仰でありながら祭祀法の統一があったはず。ベクトルは違えど、その統一は皇帝側、桓帝と黄巾も同じだったろう。尚古的・伝統主義だし。これまでの神が祭って効果がなければポイ捨てするというのは呪術的宗教によくあることだから、より先祖回帰、原点回帰、強力な神を探しだしてその神像が形成されつつあった過渡期であろう。

 そもそも淫祠・淫祠といっているが、では淫祠とは一体なんなのか?この時代淫祠でないものなどない。その考察をさしおいて淫祠とは論を進める上でかなり、片手落ちの面を免れない気がする。

 (ママ引用)漢初の天の祭祀は儒家の影響を受ける事なく、高祖の時、秦の四天帝(白・青・黄・赤帝)に黒帝を加えて五天帝とし、西安の西にある秦の故都ヨウの五時に祀ったが(ああそうか、五帝によって秦のタタリを封じ込めるための祭りがヨウの祭祀なのか。そして秦の時代の祭祀をあまり考えることなくそのまま引き継いだと。ということはその秦の祭祀自体が当時の中国人の祭祀感覚から離れていない、極めて自然なものだったわけだ。とすると祭祀の中国人的、原点回帰といえるな)、それら天帝は「上帝」と呼ばれていたのであって、高租の言に「秦の時の上帝祠」。「今の上帝の祭り」等と見える。その後、武帝の時に至り、宅の人謬忌が「祠泰一方」を奏し、「天神の貴き者は泰一にして、泰一の佐は五帝なり。古者、天子は春秋を以て泰一を祭る云々」と。泰一は五帝の上に位する最高の天紳とされ、その言が容れられて長安の東南郊に祠が立てられた。又、三一(天一・泰一・地一)をいう者があり、それも謬忌の大一壇上において祀られた。その後、天子が病んだ時、上郡の巫が紳降しをなし、その紳君のいうに「天子、病を憂うる事なかれ。病少しく癒えなば、強いて我と甘泉に會せん」と。帝の病癒え、長安の北西の甘泉官に幸した。紳君の言に、「神君の最も貴き者を大一と曰い、その佐は大禁・司命の属」と。その後、武帝は甘泉官のある雲陽に泰一の為の泰時壇を作り、五帝壇をその下に環居せしめ、天子は三年に一郊見する事とした。かくて太一は正式に漢の上一帝となったわけである。爾後の諸帝も概ねこの例に倣って甘泉に泰一を郊祠した。史記天官書や漢書郊祀志に「中官天極星、そのもっとも明らかなる者は太乙の常居なり」とするのは、かかる太一をいうものである。

 前漢儒学の浸透、丞相の匡衡・儒家的合理主義から泰一壇を北の甘泉から都の南郊に遷すべしとし、天子はこれに従った。そして更に、泰時には紫壇の偽飾がある外、女樂や鸞路。辟駒・龍馬等があるが、天を祭るは至誠のみ、としてこれらを廃止した。漢以前は漢初の上帝(五天帝)等も人格紳であったが、右によれば、武帝以来の上帝太一も純然たる人格紳であった事が知られる。武一帝は泰時を営む前、文成(少翁に開してであるが、甘泉官に臺室をつくり、天地泰一諸鬼耐をかかしめたともある。儒家の考える蒼々たる天の神格化である上帝とは大いにその趣を異にするが、中國人の一般的心情における上帝と、さ程遠からぬものであろう。

 その後王莽の時期になって、平帝の末年に奏言して天紳を「皇天上帝泰一」としょうする事とし、ついに泰一は儒家の組典に見える皇天上帝(書経召詰)又は昊天上帝(詩経の大雅雲漢)と合体せしめられる事となる。漢代を過ぎると泰一の地位は次第に低下し、太一の下に。

 p81、黄老ではなく老子と書かれるのは老子だと信じられたから。違うと思う。旧来の理念否定、また改訂をするのだから、また房があって、これは黄老を主体とする前のワンステップであるかと思う。また黄老でなく、老子仏陀という枠なら、これまでのそれとは違うのか?それとも黄老を包括した上でのものなのか

 p86、楊寬いわく、桓帝曹操の統治階級の道教と黄巾・一般大衆のそれは異なる(p207封建統治階級と農民階級のそれ。太平経の中に淫祠否定の「祀他鬼而興陰、事鬼神而害生民」なる語が見える。)。具体的にどう異なるのか記して欲しかったなぁ。淫祠否定では共通。曹参からして黄老。曹操は当然、曹参以来の黄老を奉じていただろう。少なくとも家の中でその最低限の継承・知識はあったはず。官憲から逃れるため仮託。ではない。蒼天・黄天と明確な理念があるのにそのためにわざわざ結びつけたりしない。もともと親和性が高かった。あってもそれは二次的要因でしかない

 p88、70すぎると国家から五杖が与えられ特権が付与される。于吉も杖。p89、権力の杖、が符咒に。言葉のマジックパワーだろう。秦の符氏はこれに基づくか?p94、一般は昊天上帝、王莽はこれに泰一を加える。黄巾は太一。p同、天帝に訴えると、天帝はそれを聞いて配下の群鬼を差し向ける。訴えを聞いて罰するものだというのが霊帝の夢からわかる。王充の論衡に天は鬼神を媒介するとある。北斗は人の延命。かまども天神の配下。p123、三悪の赦し。勅に従えない。故意ではない過失の罪・貧窮により父祖を祀れないの三つ。貧で祀りができないというのが道教流行のターニングポイントなのだろう。また先祖代々の土地を離れることでそのホーリーパワーも失われるわけだから。長命も祀りによるものと考えられている。疾病・治病これが主眼。どうも岸本宗教学というものを宗教分析の主体においているようだ…。うーん聞いたことないし、そういう哲学的な観念から攻めて行っても宗教を分析する上で、社会学的に重要なことはまずわからないと思う

 p135、真人・徳君としての張角。黄天も大尉も太平教に尊ばれるものではない。大劫の終。世が滅んで新しい世に変わる。天師は神の称号で自称しなかった。五斗はそうしたから太平教の影響が薄いか?p148、新出太上老君をいうものに道蔵・三洞珠嚢に引く張天師二十四治図讖がある。それによると、漢安元年に蜀の赤石城中で張道陵が静思している所へ千乗萬騎を従えて五人の神人が降った。一人は自ら「周時の桂下史」、一人は「新出太上老君」、一人は「太上高皇帝中黄具君」、一人は「漢師張良子房」、一人は「佐漢子淵天師外祀」と名乗り、國師の号と正一盟威之道を授けたとする。

 p149、張衡の手によって「正一盟威」という観念が確立された。然るに張衡の行跡は史上に留められる所がない。裴松之が典略の張脩は張衡の誤りと主張したについては、以上の如き事情までを考慮したか否か甚だ疑わしいが、張衡はもっと重要硯さるべき人物であるには相違ない。

 張角の教法に刺激され、符水呪説の呪術性を後方にもっていき、道徳性を強調し、宗教的に整えた。つまりは新出せる唯一の真正なる道である所以であろう。否、抑も「正一盟威」なる語そのものが、「中黄太一」と甚だ相似た構想の上に立つ造語であり、「正一」は「中黄」を、「明威」は「太一」を意識しての命名と見て最も自然なるを覺える。中黄を正一という観念に替えたというところに、黄家=革命ではなく、漢王朝や次代の新王朝、政治と妥協できる宗教としての理念に特化したと見ていいだろう。漢の祭酒はもと學官の名であって、秦に博士僕射といわれたものが、後漢に博士祭酒と称されたという(続漢書)。

 p150、祭酒=長老の別名。尊称・特に地方で一般的。p157、住民の義務。道路修理を自発的にやらせる。p162、論語述而篇。病=自責、水旱=壽で何とかならない。p163、義舎=亭・駅逓のための設備。官吏は符持ちで無料になる。流民対策、食・宿を提供。p178、劉陶伝に、民多くして食うところなしとあるから、やっぱり人口流出はあっても、大量の死者という現象はなかったか?、平帝の元始二年の戸は一、二一一萬、口は五七六七萬で、それに対して、後漢中期過ぎの順帝永和五年(一四〇)のそれは戸が九七〇萬で、口が四九一五萬(績漢書郡國志)、大約戸二四〇萬、口八五〇萬の減少を示している。そして郡國志注其他に見える戸口統計によれば、後漢初より中期の和一帝永興二年(一〇五)に至るまでは戸口増加し、それ以後桓帝に至るまでの約五〇年間は人口五○○○萬を上下して停滞している。漢代の國家収入は、算賦・人頭税に大きく依存していたので、戸口調査は厳密に行われ、信頼できると見ていい。とすると、あえて引き連れ戻さなかった民の分の税収はそのまま損失となるわけだが、地方官がごまかして報告しなかったのならそれは、空計上だからその分の補填をしなくてはならないはずなのだが、地方財政で処理する分には関係がないのか?それともあえて本郡に帰さずとあるから、それはそれで追徴しないという国家方針があり、良しとされたのか?どっちだろ

 p179、殤帝紀延平元年(106)の詔に豊穣の誉れを得ようとして、墾田・戸口を偽るとある。戸口の停滞は実際の減少を偽っていたと見るべき。これは後漢においてもはや人口増大の諸条件が限界に来たことを意味するとともに、流浪農民が増えていったことを意味する。北方・西北方の戸口の減少、遊牧民の侵入によるもの、そして次いで中原地方の減少、当然移住先である南方は増大。人口減少地域での一戸あたりの人口の増大に、逆に増加地域では減少している。黄河の中・下流域が寛大の中心であり、人口密度の高い地域だったが、ここに貧富の差が広がっていったことを推測させる。豪族の跋扈で有名なのは河内・南陽・趙・魏・太山(p180、)三輔・蜀・鉅鹿。特に鉅鹿=劇、章帝時代から変わらない。富あれば分家し、豪族が拡充する。その真逆が単家・貧家・孤族。一般農民の中心がこの状態。里に土壁・城門があり、監視人がいた。

 p186、秦は漢の制度を継承しており、一里=百戸基準。間隔が開いた場合は満たなくても立てる。自ら立つ、社を禁ずとあって、旧制では25家=1社、10や5で社を立てる。非公認もあった。少なくても社を作ることにメリットがあることがわかる。里の方は、勝手に小さいそれを作れば税負担が大きくなってしまうはず、里自体にかかる税役はないのか?里が公式に認められれば、恩恵をうけると考えるべきかな?特に長老とか

 p188、社―共同祭祀・共餐で神は強引に自然発生。地縁社会神。父老に官からの指令要素が強まる。少家族主義の欲求。前漢の話かこれ?庶民にとっては少家族の方が生活は苦しくなるはずだしなぁ…

 p196、礼の及ばない庶に父祖祭祀の義務はない。上層のそれとは異なるわけか。治病・呪術侵攻は古くからあった。急に治病教団が発生した。赤眉とは構造が違う。治病に公的機関が対応出来なかったからだろう。赤眉は景王祀を中心としている。それが破壊対象になっている。完全なる逆転現象。漢家に対する回帰願望、栄光あるあの頃の時代に戻りたいというそれは完全に消失している。景王祀の変質はどのくらいあったか

 p200、荀子は理性でも個人宗教ではない。荘子・楊朱・個人中心。客という浮動層・任侠という個人結合。人間主義個人主義後漢後期~三国に再び台頭したか。仏教の隆盛もこの個人主義によると。民主・資本が強かった前漢だけで後漢になれば儒・社会主義・管理統制でどっかいってしまう。新しい制度・思想の健策にすぎない。両方対立して発展していくから片方だけ見てもダメ。黄帝老君・中央黄老・黄神とかあやふやすぎる。祀る・唱える神がわからないとかありえない。黄家=黄色ではなく、皇帝・太一=神の国のことだろう。いや、神の国とまでなる強い観念はないかな。多分地上における神の国の再現というのは南北朝くらいまで行かないとなかったはず

 p206、遡れば王莽の五方五霊帝――漢書郊祀志下の天神を皇天上帝泰一と稀する事とした記事に績いて、中央(黄)帝黄霊・東方帝太昊青霊・南方炎帝赤霊・西方帝少曝(?漢字がわからん)自霊・北方帝頴頂黒霊と、五帝を五方に配してグループ別けしたものに繋がる

 しかし後漢の末頃に五霊天帝が五霊老君とされていたか否か徴すべき史料がない。叉、五天一帝の一つであれば、王も特に赦される事は難しかったであろう。祭祀志は桓帝老子を祠るのに華蓋の座を設け、郊天の樂を用いたと博える。郊天の樂とは上帝を郊祀する際に用いる樂である。三牲を用いたという東観漢記の語も同様である。一方、華蓋は後に見る如く、霊帝が中平五年に無上将軍と称して軍事訓練に親臨した時、大壇の上に十二重の五采華蓋を建ててその下に居り、外戚の大路軍何進には九重の華蓋を建ててその下に居らしめたとあれば、(後漢書霊帝紀。同何進博)厭勝の為とはいえ、臣下もその下に坐すべきものであるから、天帝扱いとはいえない。要するに天神的にして且つ人神的、中途半端な扱いで、まさしく「老君」的扱いというべきかも知れない。然し黄帝老子であるなら、数年前まで天子も祀っていたのであるから、誅死という厳しい処罰の対象とするわけには行かぬであろう。結局、黄老君という特別な紳格が存していて(それは黄帝老子を混一したものであった可能性がある)、非真を希幸したという嫌疑は完全には晴れなかったのであろう。なお、直接の関係は考え難いが、黄紳なるものもあった。この外に、安帝の時臨朝していた大后(和熹鄧皇后)の「鬼紳難徴、淫祀無福」という合理主義的観貼から、典禮に合はない祠官、従って恐らく祠廟を罷廢した事がある(後漢書皇后紀)。合理主義なんていうものは当時に存在するはずがない、わかっているのだろうか?そういう意味で用いていないかもしれないのだが…。言葉の使い方が怖いなぁ

 p207、國家が祀る泰一祠も複敷に存したのであって、匡衡が奏して多くの祠を罷めたが、その中には武帝の薄忌太一・三一・泰一(泰時を指すのであろう)の名が見える。王莽は紫閣固なる讖書を引いて「太一・黄帝、皆僊して上天し、樂を崑崙山の上に張る」などといって(漢書王莽博下、大鳳六年條)、太一を神僊としている。この太一は勿論皇天上帝泰一とは別なものに相違ないが、そこから王莽にあっても純人格神的泰一がその名残りを止めている様を窺い得られよう。神仙博の中黄太乙はこの系統であろう。

 曹操の上書妖冠死を恐れず、多少怪しいが、朱儁南陽黄巾の降伏を許さなかったそれと応じて南は笮融など狂信性が強かったのではないか桓帝期の人口について、梁冀とか宦官のそれが考えられるが、根本は二重計上、流民を減らさずそのまま新たにカウントした結果だろう。このようないい加減なやり方は最早戸口数が税収に関係なくなっていたのだろう。そこからほとんど税収を得られなかった、徴収できなかったのではないか?p230、流民は現地申籍で強制帰還させていないし。

 p233、城市で里、田野で盧という耕作小屋がある。p242、社と似る京王祀。祭りに商人・俳優(?)。琅邪・青州六郡・渤海郡・済南が最も盛ん。琅邪・青州にあるのは社と同じ。p243、社の変質の可能性。官吏・軍人化。共同より下部組織。この点も黄巾の相似か

 p336、老子想爾注、老子は神ではなく教師。p377、道教張魯の一族の子孫とする世襲宗教―檀家的関係か?と筆者は推測しているが、首長・部族を取り込んだものであろうから、部族・宗族を取り込んだ人格的個人紐帯だから世襲するのが最も自然だったのだろう。p389、胡昭伝貧民・老人に日に五斗を給付=老人を通じた支配策、老人が若者とかに分けて紐帯を作るのだろう。老人に対する社会保障の記述は初期の本紀に目につくように、郷里秩序に対する老人の力の大きさといったところかな、多分危機の際には老人はまっさきに見捨てられるだろうし、治安維持という点でも非常に重要な施策なのだろう。p394、宗教組織は「信」が高い、統治コストが安上がりになる。p400、五斗の宗教組織のスタイルは小国のみ可能。張角にしろ、五斗米道にしろ、宗教特有の狂信に基づく戦死による天国へ行けるという概念がない。戦闘には不向きだろう。南北朝道教や仏教にはこの狂信、天国行きがあったっけか?特に五斗は戦備・安保コストを極力下げたかったはず、不戦・消極的態度もそのため。張脩殺しも体外積極政策ではなく、消極政策の選択のためだろう

 p446、僊人は人よりも神の性格がある。p472、襄楷は実践的祭祀でも老子の徒でもない。老子・浮屠同體説、併尊。同じものと自然に考えられていた。もち仏教の影響もあったろうし。仏教の伝統ある東海・斉・楚。葛洪の僊人観は聖人に対するそれ。聖人になれないから僊人になろうというそれだろう。五斗にしろ、張角にしろ教義・法が全く出てこない。連綿性は薄い。その都度その都度民間習俗・経典持ちだして歴史に関与か?刹那的傾向が強いのかもしれない。