てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

書評― 漢代官吏登用制度の研究/福井 重雅

漢代官吏登用制度の研究 (創文社東洋学叢書)/福井 重雅

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中国文明と官僚制 (1971年)/エチアヌ・バラーシュ

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エティエンヌ・バラーシュの恒久的官僚制という概念がでていましたのでメモ。次チェックしておこう。

例によって、拙感想黒字、ページ数はいい加減。

目次

第1章 漢代官吏登用制度の概観

(察挙と辟召 孝廉による察挙の諸相 孝廉による察挙の運営と廉吏 ほか)

第2章 賢良・方正の成立

(賢良・方正の形成 察挙の有資格者と被察挙者 察挙とその辞退 ほか)

第3章 賢良・方正の運営

(察挙制度の諸相 官僚制度と官秩 察挙による昇進の規準 ほか)

第4章 漢代の察挙制度と政治体制

(賢良・方正による察挙の性格 前漢における賢良・方正の特色 後漢における辟召の形成 ほか)

察挙と辟召

 宣帝は賛に中興と讃えられる人物(p4)。その彼によって二つの制度が制定されている。郷挙里選前漢には存在しない。漢代固有のそれはない(p8)。僅か一・二例しか見えず、固有名詞・制度ではない(p9)。よくあるのは察挙(p10)。九品・科挙と比べて、公卿・郡国の自由裁量が特色。上位下達の性格がある(むしろ逆ではないか?トップダウンよりボトムアップ型の後漢においては真逆のはずだが…九品はともかく、科挙は人材が上がっていくというルート的には上位下達の逆だとしても、性格をなくした官僚=部品化されたそれにすぎない)。

 p14、常科と制科

 何進・梁冀に皇帝が使う辟召を意味する「徴」の字が使われている(p19)。強力な人事権が委ねられたことの象徴だろう。察挙という言葉自体は前漢元帝から、盛んになったのは成帝から(p17)。後漢光武帝になってから頻出する=制度化された。名声がなければ声がかかることはない。名声が不可欠、事実上の推薦人事制度。

 p72、孝廉という資格は郡国というポストに与えられる資格ではなく、個人自体にその資格が求められたと推測。順帝の125/12の条に官に就いて一年未満でも孝廉あげよというものがある=孝廉を上げる資格は一年。その地位に一年就いた結果、正式に与えられるもの。それまでは仮となる。一時的といっても服喪で孝廉をあげる資格が停止されたことから、ポストの権限ではなく、個人の資格・資質のものと考えるべき。仮というのはテストを意味する。仮→のち真~というポストになる。ならば仮節も同じテスト期間か?(p71)。太常の孝廉推挙(p72)。景帝BC144以後、諸陵が太常の管轄下に入る。→BC40元帝でそれが三輔に移る。三輔行政の特殊性。ただ太常がこれを吸収したから原則は不変と。太常&三輔の関係性はとても面白い、諸学を司る太常が陵墓の中心というのはどういう意味があったのか?やはり武帝以来の伝統的中国宗教観に基づく葬式形態だったのか?いつ頃から儒学的なそれが大勢を占めるようになったのか?元帝ころには博士の中心は儒学主体化されたか?(p73)。

 濱口氏の結論の中に示されているように、被察拳者は郡國縣などの地方官吏の下級官吏もしくは在野無官の人に限られていた。多くの場合、その下級官吏は郡の功曹によって占められ、またその在野無官の人は、主として諸生を指していたらしい(p74)。ある地方の人物がこの郡功曹の地位に任命される以前は、諸曹掾史―→督郵(もしくは主簿)―→主簿(もしくは督郵)―→五官掾―→功曹(p75)。 順帝の条に132、諸生には家法を試み文吏には牋奏を許す。前者はテストか?後者は功曹へのテスト。前者は行政文章のフォーマットと儒学の章句の知識のテスト。また処士・逸民について巻二十五劉寛伝、学官祭酒と処士・逸民をひき経を取りて、対講。処士・逸民=県が舞台の諸生の下の身分なのか?功曹・諸生が察挙対象であり、その対象外が処士・逸民ではないか?(p77)。では諸生と処士・逸民を分けるものは?学校に通えなかったもの下層を意味するのだろうか

 廉吏・文帝以前によく散見される。人事表彰制度と深い関係。廉吏の察挙「察廉」は武人と推測される(p79)。宣帝の時、廉吏六百石以上禁止。四百石以下に制限された(p81)。孝廉が光禄勲・郎中であるのに対し、廉吏は郡県の長吏という違い。法家の勧善懲悪の観念。孝=儒の徳目+廉=法術を意味する。前漢の廉吏は法術的実務官僚の登用を目指したもの。後漢になり廉吏は消えていき、ほぼ孝廉のみになり、三国にはゼロになる。南朝で完全に消失する(p82)。唐代の両税あたりで経済官僚が重要になるはずだが、彼らはどうやって選ばれたのだろうか?実務オンリーで選び上げたのか?それとも事前にそういうコネがあるものを選択したのか?南朝だと経済官僚の重要性が増して廉吏が再び登場してきそうなものだけどそうではない。公的な制度で経済権力を確立するよりかは、個人の権力として私的なそれに君主や軍府が取り込んで行ったからか

 人事表彰制度、すなわち帝国運営の官僚という要素より先に、徳治というか徳のある人物を選ぶという性質が強い。他と比較してその性質が強い・重いでもよい。ポスト・地位に権限が与えられるという発想以上に、それにふさわしい人であるという認定があってはじめて、それにふさわしい権限が付与される・行使できるという性格があったと思う。前述の「徴」もその性格を備えたというふうに理解すべきではなかろうか

 孝廉と並んで重要な茂才(p90)。そもそも不定期な制科と定期的な常科の両面の性格を併せ持つ。直言・賢良など同様(やはり人格・性格に基づく人物を選ぶというそれを裏付ける)。

 刺史主体の茂才は元帝末で秩六百石→成帝のBC8年に秩二千石。州挙茂才の制は成帝末(p94)。三公(太尉・司徒・司空)=茂才一人、廉吏二人。光禄勲=茂才四行一人(歳挙)、廉吏三人。九卿[廷尉・大司農]=廉吏一人(歳挙)〔二人〕。将兵将軍=廉吏二人(歳察)。監察御史・司隷・州牧=茂才一人(歳挙) 辟召→掾属→茂才→県令という出世パターン。三公・大将軍などの資格は制挙的性格を裏付ける。光禄四行・四つ全部を満たす人物か?ひとつ優れていればいいのか(p103)?光禄茂才は王堂・呉祐・范滂・劉寵のわずか四名。光禄勲の3つの部署=三署郎から挙げられる。孝廉→郎中→三署郎→光禄茂才(p104)。光禄茂才は四名が記録にあるだけで滅多にない。実権となり得たのか?というかこの四名は何を期待されていたかが問題か。まあ茂才→県令の時の編成を担当するということであれば、それだけで巨大な権限なんだろうけども

  76初めて郎中から県郡国の長相に(p106)。―とすると茂才というより郎中の選官の影響力が大か。県令ではなく、県長(p107)。令と長の違いは何だ?茂才は秩千~六百の大県の令。寛博―不定期多数を推薦。四百~三百の小県の長。つまりほとんどが振るい落とされて県長で終わる(p108)。上で書いたようにこれを選定するがゆえの光禄勲の権力と。孝廉→茂才がほとんど(p110)。どうして孝廉明記なしを省いたと判断できるのだろうか?まあ他に出世ルートがないのだからなんだろうけれども。エリートコースのイキナリ茂才のそれと判別つかなくなってしまわないのか

 察挙と考課の二面性、三国志にテストの記述はない。晋書でまた出てくる。武帝が初めてテスト。以後一般化(p112)。門閥イメージが強かったが、その代償により実力制を付与しようという意味合いか前漢後半から賢良より方正が目立ってくる。後漢に至ってその傾向は増して行く。賢良9人に対して、方正19人(p121)。能力より人格が重視されるようになったということだろう。また中央においては茂才>孝廉であるのに、地方では賢良<方正となっているというのがポイントなのだろう。地方においては徳>才だが、中央においては逆。帝国を運営する以上才のほうが重くなるということだろう。魏では方正は出てこないで、賢良。世説新語だとこれが方正として出てくる一遍がある(p126)。能力重視の曹魏と、後世方正の方がいいという価値観があったことを示すのだろう。そもそも賢良・方正をあまり分ける必要がなかった。後漢で方正の重要性が増したことの裏付けだろう

 二章 人材を上げることは君主の義務。メンタリティがまるで違う。何とかして雇ってもらおうという科挙に見られるそれではなく、人材を探し出せない君主こそがクズ野郎ということになる。感覚が全く違う(p129)。賢良・方正は昭帝・宣帝とそれ以後では全く違う(p139)。武帝の時には長安で直接上書でそのまま抜擢ということがあった。天地災異・陰陽の乱れ、三公の責。宣帝時に顕在化する。被察挙資格が賢良・方正などに固定化されていく。方正の重視に定員化。成帝になって、濫りに上奏する禁。武帝のように直接上書、もちろん抜擢ということもありえなくなっていく(p140)。方正=人格なら周囲が認めればいいだけ、実際の能力なら、基準に満たずということが起こって人材が優秀な地域にかたよることがあり得る。そういった偏らせないボトムアップという所が重要かな

 宣帝期に天地災異・陰陽の乱れが三公の責とされたが、実際に起ったのは成帝のとき。丞相薛宣の辞任に、翟方進は災異を防ごうと自殺した!後漢になって災異罷免は制度化した(p152)。107条に日食を機縁に賢良方正・道術を有するの士の選挙が見える。道家・道教の端初はこの天人相関・災異からだろう。賢良方正以外の有道などの名目が増える。察挙資格者が特進候・校尉に拡大したことに注目。後漢でこの2つが重要性を増した。制科の員数の明確化、システムの完成を意味する(p153)。

 前漢では慶事の求賢。それが段々災異の対応ができる「非常の人を待つ」という性格に変わる。皇帝・丞相の中央集権から、中央は内朝つまり外戚・宦官・尚書が権力を占めるようになり、地方は郡政主体の行政に移る。良二千石の久任、郡国吏としての循吏の輩出。豪族化とそれらの官職の独占と中央での立身(p155)。天変地異は人事に対する徴しという思想。吉凶を判断する易家讖緯・天文暦数・陰陽五行が流行る。郊祀・宗廟・明堂・封禅らは?(解読不明メモの字が汚くて読めなかった…(´-ω-`))、宣帝以後。元帝・成帝以後から儒家の説に叶うように修正されていく。五経の確立、今文・古文、図讖、他の諸経典などからも対応していく。宣帝が諸儒を集め異同を評定させた石渠閣会議も同一線上にある。当然賢良・方正という人事制度から人はいかにして災異を沈める人間になるかということに注目して励むようになるから、当然その学を修めるようになる(p156)。天人相関儒学とでも言おうか?それが主となった。思想の変化がなにゆえ生まれたか?をテーマにしているが、そりゃもちろん閉鎖国家となって帝国の限界が来たからだろう

 二章(あれ?二節の間違いかな?わかんないや(> <))、p181

 秩二千石度遼将軍、大長秋、太子少傅、将作大匠、司隷校尉、州牧、京兆尹、郡太守、皇子封王国傅相、皇太子封王国御史大夫及び諸卿。後漢になると郡国の守将も察挙資格を持つようになった。文書に見られる限りでは城門校尉と司隷校尉だけに察挙資格があったのかもしれない。でも校尉すべてにあったと見て良いだろう。比二千石!と名指しではなく常に「三公・将軍・卿・校尉」としている。校尉の特別!

 前漢は秩百石まで在野なし。後漢は逆に在野一般庶民から制科、檀敷は孝廉・辟召を断り立精舍教授。中央からの招きを断るというのは隠遁をのぞけば、その郷里に奉仕することか。そもそも孝廉・辟召にかかるような人物なら、いくらでもかかる。その人とい塢より名簿の一人にすきない。招くほうにとっては断られたらあ、そ、じゃあ次くらいの感覚でなかろうか?むしろ重要なのは茂才である気がする。茂才という出世コースを断るという方に注目したいなぁ。孝廉・辟召というのは地方政治の中央への取り込みという性質があるから、取り込めなかったという点では注目すべきかな

 徐穉・李固が茂才を断っている。姜肱・賀純は公車・皇帝のそれまで拒否=中央に招聘されると、地方がいいようにやられてしまうとかそういう危惧があったのだろうか?本来これは大不敬。しかし罰せられない、することはできないという共通理解・通念がある。これは一体何に基づくものか?(p196)。

 三節p202

 実際に官に就かなくても就任扱いになる(p同)。本人が来ない時、州郡・郡県が「切責」される。本人ではなく、担当官が責められる。主権者の意向の無視など本来有り得ないから就かなくても本人の意向と関係なく就いたことにされる。しかし実際任官してない以上国家権力の貫徹という問題が出る。だから君主でなく責任は担当官が負うことになると。だから「不就」ではなく、「不至」「未至」と表現される(p204)。任官拒否に地方政治の現状に対する不満の表明というものはないのだろうか?未就官が続けば、その地方官は統治能力なしとされるのだから、このようにして地方政治に対する不満を中央に伝えるシステム・性質があったんじゃないか?末期の任官拒否ではなく、初期・中期のそれを見ればそういう性質が有りそうな気がする

 張奐の息子は有道で官に就かなくても張有道と言われる(p209)。→こっから個人的考察長い。しかもそんなに関係ない。興味ない人は飛ばしてください。むしろここにおいて我々はもうひとつの側面を指摘することができる。帝国の肥大化で中央ポストのだぶつきを考えれば郎中→県令の僅かなポストより、何度も辞退して名を売ること。または在外で実務的な能力・地方でのコネ・政治力を築くほうが良い。中央での余剰人員状態で、待っているのは党錮の禁のきっかけになった座り込み&暴動くらい。なるほどこれで任官拒否と3000人の暴動という事件が点と線でつながった。また袁紹の人脈とはその時の地方の集団ではないか?名はあっても実際官に就いていない集団ではなかったか?名だけでいい集団もいたろうが、多くは中央へのつながりを求めただろうから。名と実ではないが、中央のコネが十分すぎるほどある彼が地方に帰って名を実に転換しようという勢力を諸地方においてまとめ上げた。中央としてのそれは低くとも地方においては名声が高い人物を取りまとめた。だからこその宦官虐殺。非主流派による主流派抹殺のクーデターということになるのだろう。何進もこの関係か?いきなり大将軍だから違うか。

 董卓でも本来変わらない。問題があるとすれば、袁紹蜂起で全国的人事をできなくなったこと。そしてそれが全て。袁紹のように諸地方の人脈・官僚的人事昇進のルールを知らないことが董卓失敗の第一の要因か。この点は梁冀と比較して、それがないゆえの失敗だといえよう。帝国の人事権でなく、関中だけの人事権しか持たない董卓に価値はない。本来董卓はまっさきに袁紹などを叩いて、地方を支配下においてそういった勢力の声を実際に組み上げていかなくてはならなかったんだよなぁ。なんで討って出なかったのか。長期的に勝ち目はなかったのに、割拠政権狙いと見るべきかな?帝国全体より、西・地元重視という。袁術の三輔のそれとあわせて、董卓袁術劉備という図式は描けるのだろうか?まあつまりは前漢のような長安主体の帝国・王朝という。袁紹曹操の東、洛陽以上に鄴も価値が増す。袁紹の政権プランに劉表皇帝(仮)として、鄴に袁紹の公国みたいな独立所領まで行かなくとも、袁家の影響力を残すようなシステム構想はなかったのかなぁ?

 董卓自体はうまく折り合えると見ていたから袁家に対しても妥協的な態度、元々故吏だし。袁家抹殺はその路線の断絶宣言と見るべきか?そういえば袁紹董卓会談で王朝交替を訴えているんだよなぁ、董卓は。そうか董卓皇帝、董氏王朝に重臣としての袁家っていうのが実は非常にまともなプランなんだよなぁ。宦官虐殺も二人の手柄ってことで筋が通るし。袁紹が袁家王朝を建てるというプランがないっていうことから、この本来最も妥当なプランがノーとなったのか。袁紹王朝の思い込みがあったから気づかなかったなぁ。劉氏を残すまでもないという董卓の言葉と、袁紹のその革命の拒絶は漢王朝継続路線を主張した上での決別と見るべきか。

 三公九卿クラスが党錮の禁に関わっていなかったことからわかるように、梁冀以後人事ルート・昇進過程が整備された。故に将来三公九卿につくような人物は別に逆らう必要はない。しかしそうなるかどうかすれすれの人物三公九卿以下のそこそこのポストに就くかどうか微妙な人たちは不安定な立場。さらには官自体に就けないものも多い。3000人暴動は今で言う就活ぶっ壊せデモだろう。そうしないと生きていけないところに追い詰められている。それ故の「未至」。しかしどうなのだろう。三公九卿クラスが安定しているってことはこの下層の者たちの訴えをほっといても、彼らを苦しい立場のまま見捨ててもそこまで問題にならなかったのかな?西の軍事的問題から行動を起こした董卓に、中下層の官に就けない官僚予備軍のために行動を起こした袁紹、この関係もっと注目されるべきかな?前者は革命、後者は改革路線での衝突、後ついでに余計なことを言えば帝国全体を保つためにその両方につらい立場を置かせ続ける霊帝・宦官などの内朝と。

 孝廉・茂才より賢良・方正のほうが有利?趙咨・爰延・劉瑜・李固・劉淑・尹勳・檀敷・李育などから常科<制科。むしろ彼らの不安定さを示しているような気がする。常科での道が開けていないからこそ、出世・ポストが約束されるまで赴かなかったということではないか?末期になるほど、制科の比重が増して行ったってことなのかなぁ?賢良・方正<徴、鄭均・趙典・楊原・賀純・陳蕃・向栩・樊英・董扶らは公車を辞退している。時局・政局上の理由か?誰に招かれるかが重要、派閥関係上か?(p210)。公車・徴には常科・辟召・賢良・方正の辞退が暗黙の前提となっていた。より良い待遇で招かれるための辞退という点で公車以外の辞退は説明できると、しかしそれでは100%説明できないことに注意ってところかな(p214)。徐穉は辞退した後、初任官がいきなり太原太守・二千石という普通ではありえないケース(p215)。郎中がだぶついていたわけではなく、ある時から孝廉・茂才が絶対でなくなって辞退ケースが増えていったはず。その転換点を抑えねばならないだろう

 四節p218 賢良・方正は「上親策」、上がみずから策す。直轄という重要性がある。まず「策」という皇帝の諮問を受ける(p同)。経典を論拠とする災異対策、對策の對は応答という意味。對策それ自体が皇帝の諮問、応答を意味する。武帝儒教導入自体がはじめからこの災害対策の一貫として始まっていたのか?全てを災害対策だけに求められなくても、この要素はかなり大きかっただろう。文章フォーマットなどの話。重要と思えなかったのでパス(p223)。

 被察挙者は自らの論を好き勝手に陳述できない制約が存在する。また下問された問題の背景などもある。策=神明の記載のための文字の一つ(p238)。まあ邪を払い聖を呼ぶってところか?→策とは上が災いを退け、福を呼ぶために下に問うものとしていいだろう。当然このような制約、儒の限界が桓帝霊帝を道術・新儒教・思想に取り組ませたと見るべきだろう

 五節p242

 賢良・方正の評価として優秀なものに高第・上第・第一などという成績・評価が称号として与えられる(p同)。前漢では三輔の長官・九卿になるといった性質があったが、後漢ではそれに値する三河=河南・河内・河東への抜擢などもない。中央集権的な人事のやり方としてのそれ。ただし名誉はあっても、最初にそれに選ばれたからといって実積・実情に過剰評価・プラスアルファされることはない(p247)。 後漢では高第六名みな議郎に就いている!しかしまた高第なくとも議郎になる例が五名(p253)。前漢だと光禄大夫・諌大夫になっていたのが、後漢では議郎に!また梁冀が不合・下第としためずらしい二例を残している。おそらく議郎になれなかったので郎中にされた(p256)。本来招く人間の政策は事前にわかっている。それを却下するというのは異常。しからば自己の人事権の強調のためか?まあ、梁冀の権威を否定するためにわざわざ面前で批判して議郎に就けなかった、覚悟の上のそれなのだろうけど。「高第」が軽く扱われる(p258)。賢良・方正がそれほど重要でなかった証左ではないか

 三章p261

 推挙されたという事実こそが重要。中身は問われない(p同)。不的確な健策をするとしても武帝が春秋で答えろ、縦横で論じるなといったように、辞めさせるという選択肢はなかった。一度選ばれればその資格はずっとついて回る!また当然フォーマットの話(p265)。 陳思伝に有道の士を上げよ。そして以前から察挙でその資格が付与されたものたちに対策を聞いて来いと命じる。テストをして試したりするのではない。国家公認の師といったところだろうか(p266)。故吏だけではなく、察挙の時点で特別な人的紐帯が生まれている。士は己を知るもののためよろしく、評価基準の中心は人そのものにある。能力ではない(p271)。

 漢のそれは長官の推薦絶対で唐の貢挙はテストがあっても自ら受けに行くという違いがある。コネ・門閥打破としての賢良・方正。賢良・方正は初めから、孝廉は後漢後半から、茂才は西晋初期に考課制になる。=茂才の非能力制という性質があった!?(p274)。

  二節p286

 後漢に秩二千石と千石に固定的差別はない。列候・諸侯王の妻子は檀(ほしいまま)に徴捕されない特権を持つ。秩二千石が官僚の念願、六朝まで秩二千石願望を見出すことが出来る(p同)。六百石という線引き(p290)。六百石以上に被察挙権はない(つまりここに至るまでに察挙を受けなくてはならない)。朝議・葬祭参加の義務(p291)。二千・六百の差なし。対照的に六百と四百の差があった(p293)。車の人数で身分が分かる。韓信が自分は郎中に過ぎないという感覚が後漢にも引き継がれる(p295)。六百石以上から官の処遇を考えるというのが秦の時代からすでにあった。(p298郎中止まりは恥だから行かないということなのかな?) 公府辟→御史大夫属→侍御史。六百石からというルートがステップになっている。孝廉・茂才が県令に固定化されているのに対し、掾属・侍御史と幅広い(p323)。郎中が下級であるようにむしろ保証がないということだと思うが。賢良・方正が人事制度の集大成と捉えているが、だぶつきによる裏ルートのようなもので結果論に過ぎないと思われるが…。もちろん時代が経つに連れて地方の声を組み上げようとその比重は高まったのだろうが

 

 四節p330

 六百石罪の場合枷でなく軟禁で良い。70以上で王杖が下される。先請(?解読不明)法吏の前に朝廷が裁く、かような待遇が六百石以上にあった(p同)。六百石以上の免税特権、父母妻子家族同居「復除」一部軽役のみかそれとも全てか?おそらく初期にはそれほど大きな特権ではなかったが、豪族化が進むに連れポストに付随する特権も解釈が段々拡大されて言っただろう。質帝で六百石までの子が太学に(p332)。そういや梁冀の太学方針と桓帝の「道」は間逆の方針なんだなぁ。これはやっぱり関係してくるのか。梁冀の太学は豪族子弟に学を身につけさせ、出世ルートシステムの整備の一環だから

 賢良・方正などとならんだ賜爵、災害対策、民への恩恵(p347)。やはり賢良・方正がそれらの経済・治安・地方対策に組み込まれていることがわかる

 五節p356

 至孝―桓帝が導入した項目。このように政治上の主導権変革のために道や宦官を導入しても儒学儒教自体の否定はなかろう。むしろ孝のマジックパワーに期待したといっていい。儒を包括する上での道道教・道術も災害対策のそれ出あって、それほど差異があるとは考えられてはいなかっただろう。根本的な儒学否定はない。普通道教という新宗教の登場なら、前宗教である儒教を抹殺に考える。そうならない所が中国的な表れであって、ポイントだろう。中国史には一神教に見られる前宗教・古代宗教抹殺がない。つまり「異端」「異教」に対するそれが、インド以東で全く異なる。一神教的な思想抹殺・イデオロギー闘争がない。あるのは歴史的にその人物を貶めること、前政権の皇帝につながるものの否定にとどまる。根本的にジャヒリーヤのような宗教的抹殺はない。まあ抹殺というか黒歴史扱いで、興味も何も湧かなくなるってことなんだけど。歴史的に見られたのは批林批孔くらいだろう桓帝献帝で僅か三例のみ。同じく有道も三例(p同)。

 有道術―108・111の条、道術を有す~が有道の士になった(p358)。道術は史記漢書にもよくある。後漢書になっても頻発(p359)。安帝の121有道文士が初出。孔僖伝に道術の士。沖帝紀に修道之士、霊帝紀では有道之士となって出てくる(p360)。有道の31命中23名が官に就いていない(p363)。霊帝献帝、安帝のそれをあわせて、おそらくやはり危機・変事を沈めるため(p366)。

 孝廉は賢良・方正の中間、初任郎中と同じ。孝廉より出世に有利。登用ルートの拡充としての意味合い(p370)。というがやはり治安上災害としてのマジックパワーを見るべきだろう出世は結果に過ぎない。失敗したらそのまま消えていき記されないし

 察挙の資格者は「公卿」、そして校尉というところ。校尉=戦乱からかやはり城門が気になる。んで被察挙者は「士」という表現に、「大夫」と呼ばれる(p377)。 月朔と歳首に大朝。官に応じていけにえ(p386)。士、四百~比二百を→大夫、千~比六百にする意味合いがある。賢良・方正など周の理念を基にした制度(p388)。

 二節p392

 周文の尚賢に対して過秦論。天下の士の忠告・諫言無視(p同)。劉邦項羽の納言とその逆(p394)。漢初まであった遊侠の囲い。旧国の士大夫層の吸収を目的とした賢良・方正(p399)。おそらく呉楚七国はこれによるものだろう。賢が現れない場合、郡が罰せられる。担当官の評価でもあった(p401)。文・武帝時代によって登場=中央集権の性格が分かる(p404)。また言論統制としてのそれ(p405)。交客養士、諸侯王・高官賓客当たり前。晁錯父が彼に諸侯王削減をやめるように質すと、天子尊からずは宗廟安からじとこたえたのもそれ、遊侠対策が帝国基盤に重要だったから。即位初期の武帝は田蚡に甘んじて人事権行使できなかった。またその田蚡が外戚王皇后、同母弟武安の権勢を伝えるように、初期の武帝の権力基盤というのは脆かった(p406)。衛青・霍去病もこのことを慮って人士を優遇せず=武帝に遠慮をした。ちょうど君の君は君ならずといったところか(p408)。賢良・方正で文武帝による貴族制の打破。よって晁錯も公孫弘も出自不明と小吏からのし上がった人物(p411)。  

 三節p422

 大将軍辟召の意味合いとは?袁紹劉表・辺譲と辟召仲間か。つながりはあったか(p同)?三公以外で辟をしているのは竇氏の三例のみ。少府でなく列候の資格で行っている(p426)。大将軍および徴という形をとった後の例とどうかな?そのまま延長・拡大か?竇氏の方には呂氏みたいな性格があったりするかな武帝による十三州設置→BC8成帝六百が二千を監視する矛盾を解消するために州牧を真二千に改める(p428)。前漢だけでなく後漢でも同じことをしている。危機になれば監察機構が強化される。後漢は初めから二千以上にしておけばいいものをそうしないのは治まっていたことと、むやみにこの機能を地方において強化してしまえば中央集権の意味合いが強まってしまうからだろう。三公また五府と十三州で多くても年十八人しかいない。辟召は一般ではなく特殊・変則?辟召が重要な意味合いを持つのは乱世、漢末に限定されるのかなやはり。初期の州推挙の人材はそこまで出世ルートってわけでもなかったかな?辟召は583郡と共に全廃。595九品中正も廃止。このあたりの旧制の廃止に隋の崩壊の要因が見いだせそうだ

 四節p438

 三公九卿は概念・理念が先行。先にその数字の官が求められてそれに合わせて作った。実際のポストをまとめた結果ではない(p同)。p445内容重複か?論文集だもんな。五府辟召掾属→高第→侍御史→二千石。そういや六百石の辟召というのは本来ありえないな。袁紹のルート侍御史→司隷校尉ってどういうことなのだろう?これ本当に何進の辟召なのか?後述曹操の徴の例のように、二千石経験者だから、皇帝の徴名目で辟召したから、何進の徴は六百石関係無かったってことかな?同じ劉表が六百か二千かでまた袁紹を招いた意味合いが分かりそうだ。劉表と並んだ監察のスペシャリストって感じかな?刺史の辟召にはそれほど重要な意味がなく、三公のみ栄転コース。刺史の辟召から中央高官出世というのはやはり初期ではそんなに見られないだろうな。周代の理念と三公将軍が合致するから。P448御史大夫前漢末に三公となりのち自立。外は刺史が扱い、内は19名の侍御史が監察する。監察機関は外=刺史・内=侍御史で、御史大夫がそれを統括すると。公卿・郡吏の奏事を受け、郊廟の祭祀の過失を弾劾・劾奏する。辟召が周代のそれに則りながら侍御史をルートとする。=漢的法術主義の現れ。単純二極は危険だが概ね法・儒=漢・周の流れと見て良い。漢の法は秦のそれほど強行ではなかったし、それほどゴリゴリ法というイメージが無いので危うい表現で嫌だなこれ

 五節p464  地方の人事評価をそのまま用いた曹操(p同)。忠臣を辟召するのは不当(p466)。慣例的になっていた?もはや死文化したのを引っ張り出してきて再利用したか?武帝とかその時代のそれを引っ張り出してきたのかな?三公あたりが相互に子弟を辟召しあって門閥家するのを否定する意味合いで作られたのかな

 九品中正法の宮崎説―反魏・親漢の排除説についての反論(p469)。氏はこれ一つを以って九品中正法の全てを説明しようとしてはいないと思うのだが。少なくとも当初人事制度を変更するにあたってその意図はあっただろう。長期的に見てそれはあまり重要ではないのは確かだが曹操の人材登用は孝廉・茂才は2名、対して辟召は59名、賢良・方正はゼロ。(p472)。太守経験者賈詡・華歆・王朗は辟召ができない。よって徴、皇帝名目で部下にする。三人とも魏で三公に(p475)。後ろ二人は対孫呉上の要人ってところかな?そういや孫策の北上はフツーに徐で袁術討ちで勢力範囲の足場がためだろう。袁紹優位で曹操の背後をつくなどありえない。矢野氏いわく辟召はそれほど重要ではない。しかし三公以下大半は辟召で占められている。魏革命で地方取り込みのための九品。孝廉や、賢良・方正では不十分(p478)。王朝基盤を確立するための人事制度の広範化、よりシステム化して安定させるという事を言いたいがための宮崎否定かな?王朝基盤の確立という点ではベクトル同じだから別に否定する必要もない気がするが。それほど強い意味で否定ではなかったのかな?普通にその要素だけではなく、またこういった要素もあったと、補完ですといえばいいのにね。地方一任から中央介入の転換という性格。人事権確保で革命の完成。強ければ上の意図通りで、弱ければ下の思惑が通る。当初から妥協的でそのまま流れていったのでは?宮崎説と異なる。当時の国力考えて中央の意向を地方に協力に貫徹できたとは思えない。またそうする必要もないだろうし、結局のところなあなあだったのでは?中央強いとも、地方強いともどうとでも言えるような気がする。九品がなかったら…、あまり変わらないだろう。革命のための便宜的な処置で前のほうが合理的なら、普がもとに戻すはずだしであるからして自然の流れ、中品に対する下からの反発もないし(p483)。