てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

書評― 古代中国 天命と青銅器―諸文明の起源〈5/小南 一郎

前回のと一括するつもりでしたが、ちょっと長すぎるので分けました。しかし、分けたら短すぎるという、ジレンマ…。

項羽と劉邦の時代 秦漢帝国興亡史 (講談社選書メチエ)/講談社

 ついでにこんなのも読みましたが、イマイチ。いわゆる史記の物語形式では歴史学的な考察は成り立たない。そこから、ああなるほど!そういうことだったか!というような発見は感じられませんでしたね。そういや陰陽の名が付く地名について、洛陽など、やはり周などようやく中原に入ってここが要地だ!という意識があるから名前に陽を入れたのか?なら逆の斉陰のような地名はどうなんだろ?当時未開拓だったとか?湿地が多かったとか?

 

古代中国 天命と青銅器―諸文明の起源〈5〉 (学術選書)/京都大学学術出版会

 当時の人間が青銅器に一体どんな思い入れを抱いていいたか、ちょっと時間が経つともうわからなくなってしまう。弥生時代非常に重要な意味合いを持っていた銅鐸がちょっと時間がたって、古代日本人にも意味がわからなかった。不可解なものとして受け取られた。青銅器がひとりでに動きまわったという言葉から当時の人間の思いを読み取ることができる。儀礼と参加者、及び提供する物品で社会の規範がわかる。青銅器を中心とした規範は儒家思想となって後世に受け継がれた。

 

 一章

 p17、詩経、周にとって禹は自分たちの文化生活に結びついた文化英雄。社会の基礎を作ったのが、そして受け継がれているのが徳。直接の祖先でないにしろ、周は禹を祖先の一人として扱った(p21)。農耕の始めとしての禹、死後社の神となったのも自然な流れ(p22)。禹が大地を踏み固めた範囲が王朝の範囲となった(p24)。これは巡遊や実際に農耕地の整備をしたってことじゃないかな?んで、儀式・呪術として最後に神の化身である王自ら踏み固めたという

 鼎の軽重を問う話、天下の支配権を意味する九鼎をその都に移そうという話だが、このころまだ九鼎=九州の支配を意味する九つの鼎という観念がなかったように思われる。禹の鼎というそれも実際にあったかどうか不明、それぞれ神や土地の精霊が描かれているという。後世後付の概念化(p25)。支配者への支配を示すアイテムとしての鼎。他にその土地の貢納品が決められている。支配者の徳が曇れば、鼎はひとりでに動いて君主の元を去ると考えられている(p32)。キン(興+西+分)、祭祀で先祖に祀る祭器を豚の血で聖別する(p35)。

 九鼎の他に三巫が殷から周に移されている。おそらく宝玉のこと(p36)。九鼎に関する物語は戦国時代末期になると盛んに作られた(p41)。漢に仕えた方士集団によるもの?史記封禅書に二説みえる、一説は周を滅ぼして秦が手に入れた。もう一つは宋の社にあり、滅んだ時泗水に沈んだ。それが漢に伝わったという説を方士集団はつくりあげた。方術士新垣平は汾陰に金玉の気があるとして、祭祀を行い、九鼎が巫に発見された。武帝と有司との会話でどうして九鼎が出てきたかという話がある。泰帝は一つ=万物、黄帝は三つ=天地人、禹は九つ=天帝・鬼神を祀るため。聖王の出現に合わせて登場する。甘泉宮に現れたのを天命を受けたものだけが、徳を合致させることができる。宗廟に報告し、天帝の祭場にこれを祀るべし(p44~6)。龍が鼎を持ってくる=精霊の加護。

 武則天も九鼎を鋳造して、洛陽の明堂の庭前で九鼎・十二神像を配置。フラカッソ氏いわく、円型に並べた。が、大地に対応する九鼎は方状だろう。九鼎には山川・物産が描かれた。そういえば武則天のこの祭祀は長安→洛陽への国家の構造転換を意味するな。武周革命とは西→東への転換そのものか徽宗皇帝は実際に九鼎にその土と水を入れたとある。洪水の際には対応するその土地の九鼎を派遣すれば治まるという相関関係(p50~3)。リサリサ先生がジョジョが怪我した時、グラスに入れた水の反応で察知した奴と通じるものがありますね。なんというか箱庭があって、実際の大地とシンクロしていると考えるようなもんですね。それが鼎というアイテム形態をとっているだけで

 

 二章

 九鼎の伝説を見るに、地に属する神々や精霊たちの把握が肝要だという、宗教的な支配体制の観念が読み取れる。「礼記」曲礼下篇↓

 おおよそ大夫の位の者が、主君から家を持つことを認められたあと、まずやるべきは、祖先神を祀るための祭器を作ることが第一、祭礼の際に犠牲とする動物の飼育をその領民に課することがその次、人に食事をふるまう際に用いる食器をそろえるのは、最後のことである。主君から与えられた田祿がない者は、祭器を持たない。田祿を持った者は、まず祭服を作る。君子は、たとえ貧しくとも、祭器は売らない。寒くても祭服を着たりはしない。宮室を作るために、墓地の樹木を伐って建築資材とはしない。

 というような士大夫にとっての儀礼・常識がある。「史記」で諸侯国を「世家」としてまとめているように、諸侯の世襲される領地=家という観念があった。さらには、周の王権=王家だった。家を単位とする領地を所有していて始めて、祭祀のための容器=青銅祭器を作ることが許されたのであり、逆に田祿を受けていない者は、祭器を作ることができなかった(p56)。

 犠象、動物をかたどった酒器。郷飲酒礼など、飲酒儀礼が中心となって始まる(p58)。

 「礼記」曲礼篇、大夫や士の身分の者が国を離れる際に行なう儀礼↓

 大夫や士の身分の者が国を離れることになったとき、かれらがこれまで用いて来た祭器は、国境を越えて持ち出すことができない。そのため士大夫はその祭器を、同じ身分の者に託す。

 大夫や士の身分の者が故国を去って国境を越えるときには、土で壇を築き、みやこの方角を向いて哭の礼を行なう。白い衣と白い裳と白い冠の縁飾りをはずしたものを着用し、飾りのない履物を履き、自い手すりの付いた馬車で、たてがみを切りそろえぬ馬に牽かれた車に乗り、爪は切らず、頭髪はくしけらず、食事のときに食物の一部を神に捧げることをせず,仙人に自分は無罪だと説くことはせず、婦人を近づけることもしない。三ヶ月間、そのようにしたあと、普段の服装にもどる。

 ここに大夫や士の身分の者が国を離れると記されているのは、唐の賣公彦の「礼記注疏」の説明によれば、主君の悪事に対して、臣下が、三度まで諌言をしても聴かれないときに、その主君のもとを去り、半永久的に故国を離れる場合のことを言った。この礼は、素衣・素裳・素冠などで、葬礼に準じた衣冠を身に着ける。さらにみやこの方向を向いて哭の礼を行なう=葬礼に準じたレベルである。これは、彼らの社会的存在の基盤で、宗教的存在の基礎となって来た領地(家)を失うから。

 p62、精霊としての物。

 元来特定の牛の種類を意味する物が犠牲として捧げられるうちにそういう意味合いを持ち、祀られる神自体を指すようになった。方術・神仙術で、物を招くことにより黄金も、不老不死も可能になる。竈の祭祀対象はこの物。火・竈・黄金そして春の祭祀の関係性について注目すべき。太史公は留候世家の最後で鬼神はともかく、この物・精霊の存在は多くの人が認めるという。龍も物であり、精霊の一種(p65)。

 古代祭祀は犠牲動物を通じて神々と交信することが目的。盟約文章を背中に乗せてそのまま埋める。世代ごとに十干に分類して集団を作っていた。

 死者の棺の前に置かれる物。宗廟に納められて位牌が依代になるまで霊魂の依代になった。周礼で軍事訓練を兼ねた狩猟で旗・物をもってくる。ここには集団のシンボルマーク・精霊などが描かれていただろう。中国古代には家紋のようなそれがあった。血縁・氏族・部族などで分かれていた(p72)。死んですぐの人は鬼神として祟ることが多い。しかし死んで時間が経つと、神と集合して危険が減る。非個性化して祖先神になる。物には自然神、祖先神がある。特に土地神・祖霊との関係が密接だった。俗信で土地神が神々に死を報告し、社に魂を引き渡すというものがある。青銅器祭祀は自然神と集合した祖先神を媒介して領土・土地と結びついたものだといえる。西周の領域国家は領主と領民が同じ物を奉じる祭祀共同体によって成り立っていた(p78)。死穢と、精霊の恩恵を結びつける話。人間のそれが最もパワーがあるということだろう。自然神と祖先神=人が集合することは可能だが、土地神は別だというのが興味深い発想だ。やはり農作物を育むところからかな?そしてこの土地神信仰は遊牧民に追いやられるときに相当祭祀に変化を与えた、一大ショックだったはず

 青銅器と土地が不可分という話、行器という形で領土の外へ持ちだしていて祀っていた。西周都落ちする際に、青銅器が埋蔵されたのは土地と不可分であるから、あるいは普段は地下に埋蔵しておいて祭祀の時に取り出したのかもしれない(p83)。

 

三章

 開学儀礼・籍田儀礼に丁亥の日が当てられていた。学校は地域共同体の集会所。南斉のとき権威ある経典や記録に見えないため、農耕儀礼をこの日に行うか議論になっている。祖先祭祀と並んで、祖霊・穀霊の習合に丁亥はふさわしい日(p91)。土地神が祖=道祖神として表現されるのなら、祖とは祖先を意味する言葉というより、大いなる始まりといったところであろうか?人としての祖、道・土地にある祖、2つ繋がって力となすというところかな?大地に種まいて繁殖するなんていうパワーは先例・そもそも備わった力としか捉えられなかったんだろうな、きっと。それが凶作だったり、豊作だったりする所が又祭祀の重要性を感じさせるわな西周時代の後半から春秋時代に初吉丁亥の字が見えるようになる。月相、新月から上限を意味する初吉。漢代・三国時代の青銅鏡に五月丙午とあるようなもの。架空の干支を設定して用いて鏡の効用を引き出そうとしていた(p94)。

 儀礼で祖先神が尸(し)を介して主人に祝福を授ける。天に上った祖先は天帝の機能を代行して雨を降らせる事ができるという考え(p106)。中国古代に婚礼を昏礼と書いたのは本質的に後ろめたいから夜中に行ったという説があるが、そうではなく儀礼は祖先を招くために夜に行うものだから。日暮れになると鼎を置いておく=祖先を招く。鼎は祖先の依代、正月の門松みたいな感覚。雉が鼎に止まったとあり、鳥が神霊を運んでくるといった感覚もまたある。物、もののけは中空なるものにやどる。柳田国男は仏がなまったホトケではなくホトギなどの中空の器から来た言葉だという。(p120~)。

 

四章 冊命儀礼、ココらへんからあんまりメモるところはなくなりました。

 冊命儀礼にかぎらず、儀礼は早朝に行われる(p136)。周に冊命された者たちは、物品を献上することで忠誠を示した(p142)。天子の強調は西周中期冊命儀礼成立後、政治性を帯びるようになった。祖先神を享する・孝するという表現があるように本来同じ意味で、祖先神をもてなすという意味だった。官職世襲の儀式、授ける方は祖先神を代表して南を向いて、受ける方は北を向く(太陽の象徴かな)。冊命文章と青銅器を授ける。そしてそれを家廟に奉納する(p148)。そういや文章を授けるって、卒業証書授与とかまんまそれだな。周の史官にはこの文章が保存されていたはず。書記もこの筆法に熟達していただろう(p151)。周の体制ってどうも全国的なそれという気がしない。殷を倒した初期には各地に国を作ってちょっとは影響力があっただろうが、殷にせよ周辺諸国を従えたというよりかは殆ど対等。任命という形をとっても既存秩序の追認にすぎないような気がする。なんか殷の東征こそがその時代転換、真の帝国づくりの始まりであり、周は異民族の東征で、殷を倒した旧構造の反動のように見える。中心にある帝国であるがゆえに拡張しなくてはならないというような性質かな?殷の東征は。斉・山東に至るまで政治的一体性が整うのが大きな時代の転換点という気がする。ココらへんあんまりいい解説書がないから基本的なこともよくわかんないんだよな

 殷は神を帝と呼び、周は天と呼んだ。天の意志を執行したのが革命であり、その後は統一された最高神のもとに平等に諸部族が扱われるようになった(p198)。殷の帝の発想には殷が優越して諸部族はその下に置かれるとでもいうような不平等な観念がどこかにあったのだろうか?中央にあった殷の優位性は疑うべくもないしなぁ。春の祭り=地上世界の生命力の復活。地下の女神がもたらすという観念もあったみたいだが、中国では天がもたらすと考える。天を祀る事ができるのは天子だけであり、その恵みを受けとった天子が周囲にそれを与える。徳とはその恩恵そのもので、それができなくなれば天子の資格は失われる(p214)。徳はぎょうにんべんであるように、軍事的意味を持つ。恩恵と同時に強制的な秩序という意味があった(p216)。周王の二面性、

 王=軍事権(戎)・土地の支配=武王・召公奭=刑・罰、徳の刑罰的要素=封建儀礼・歴史的=地(禹・社)・四方の領有=青銅器

 天子=祭祀権(祀)・天命の鷹受=文王・周公旦=徳・徳の恩恵的要素=冊命儀礼・反復継承=天(天・帝)天地の結合=玉器(p219)―とすると現実的な力・支配力を喪失するに連れて徳・倫理面は強調されるようになっていったのだろう

各々独自の徳があるとされていたように、本来は倫理的色彩は薄かった。それが西周を通じて倫理性に高められていった(p226)。