てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

中国古代の社会と国家/増淵 竜夫

中国古代の社会と国家―秦漢帝国成立過程の社会史的研究 (1960年)/増淵 竜夫

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中国古代の社会と国家/増淵 竜夫

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 新刊がもう取り扱い中止になっておる…。この名著から、こりゃすごい。この人はできるな~と思ったポイントを。メモ起こし、めんどいんでね。あんまり有意義でもないですし。増淵さんは60年代にこんな大事なことを発表されていたのか…。いろんな本に資料として引かれているとしても、どうして的確・端的にこの重要事実を書いておかないのか!

 こんな重要なロジックは一般書・概説書を出す人は必ず触れておくべきだろうに…。一般書的な読み物で、結構な大家が書いている本でもこういうスルーが非常に多いですよねぇ…。なんでですかねぇ?スルーがひどすぎる気がするなぁ。そういや西嶋定生でググって13番目くらいに拙ページがくるのはどうなんだろ?結構有名な人かと思うのだが、あんまりWeb上に書かれないのかね~。

【西嶋モデルについて】

 西嶋の家内奴隷制マルクスの影響の上に成り立っているのか?西嶋の個別人身モデルは論理モデルであって、現実の社会のありようを示したものではないと思っていたが、前提が東洋的・アジア的専制論または停滞論のそれに立つのであろうか?それなら誤りというしかない。そもそも古代社会において絶対的な支配だったり、個人を統制・管理できるわけなどない。近代的なテクノロジーがあるならともかく。遊侠のそれ一つとっても国家外の社会では権力が及ばない空間・私的領域がいくらでも見いだせる事を見ても明らかだろう。

 あくまで国家がどんな基本理念でその国力・権力を貫徹しようとしたのかという点においてのみ西嶋説は成立する。帝国の強さと言うより、何とかして中央権力を確立しようと模索したのが西嶋的個別人身支配モデルであって、むしろ国家権力の弱さを示すものであると思っていたのだが。

 だいたい宣帝期に国家モデルが閉鎖型にシフトしたのだから、まあ本格的には光武帝以後で宣帝は過渡期だけども、それでも秦漢のかなり早い時期に性格が変わった。早々にそのモデルが通用しない社会に変化したのに、それをもってこの時代の国家性質・社会性格を説明しようというのは無理があるとしか言えない。それ以降の生活基盤が悪化して、社会環境が低下していく中で、民衆を国家の奴隷みたいなもんだ!と言いたいのだろうか?まあ現代一つ前の清をみて単純にdespotismと言い切るのもどうかなと思う。西嶋論・西嶋説というのは帝国の基本ロジック・原理だけを説明したのではなかったのかなぁ?中国社会をこれで説明しようとしたのなら、牽強付会に過ぎるなぁ。

【遊侠・任侠について】

 社会の一般的空気・構造として「遊侠」なるものを理解しておかなくてはならない。イメージとして遊侠といえば、ヤクザもの・任侠を想像するけれども、春秋・戦国をみると儒の徒に限らず、墨家だろうがなんだろうが、弟子・学徒を数百人連れて諸国を渡り歩くということが常識であった。自己の信じる学説・信念に命をかけるさまは侠とまったく変わらない。

 つまり漢代から想像つかないが、社会上層における儒の士大夫も社会下層の遊民である任侠も根本は一緒だった。秦漢以前の社会では同じ遊民・フリーランスで自己の理想とする社会・主君・価値観に奉仕をする人間であったわけだ。この辺は宮崎御大も述べていたことで、自由な風土、多様な就職機会がなくなり、時代がくだって儒は上層に、侠は下層にと枝分かれし階層が固定化し確立したんだと。そう宮崎産はおっしゃっていた。

 懐王が劉邦に首都攻略させた理由が「寛大な長者」=任侠的規範意識があった。そもそも漢という国家が興る大本が、秦の遊侠・遊民対策の失敗であることからするとそれも当然に思える。彼らを取り込むことに秦は失敗し、漢は彼らの対策に血道を挙げたことはもっと注目されてしかるべきことだと思う。項羽など任侠的人物がリーダーとなって反秦運動が全国的に広がっていった。これに元貴族、旧六国の支配者が加わった形が楚漢戦争の基本図式であったし。

 潜夫論に「会任の家」という秘密結社的な暗殺団が出てくる。郭解になると狭い社会での仇討ちギルドどころか、その仲介を行っている。仲介というところから他県になると縄張りが変わり、好き勝手にできない=容易に手を出せなくなることがわかる。この例を以てしても縄張りというものがあることがわかり、また任侠のネットワークの存在も伺える。

 郡県の丞・尉は中央から、掾以下卿亭の吏は地元から採用して、地方統治の融合を図った。酷吏の治績はうまくいった僅かな例で、地方に公的権力を超えて私的な権力をのさばらせる豪族・豪侠の状況は根本的に克服されなかった。この遊侠と豪族が一体化した、地方に勢力を持った「豪侠」は何度も散見される。秦は言うまでもなく漢にいたっても、その基本原理に変化は見られないこと。社会紐帯に、社会の構造に「豪侠」というロジックがある

【劉秀後の任侠について】

 劉秀の与党は郡県の吏が多く占めている。劉秀=侠なのか?闘鶏・走馬は遊侠のそれであり、亡命者を匿う。この行動様式は遊侠のそれを連想させる。しかし劉邦とちょっと質が異なる気がする。なにより儒学的な教養も備えている点で、社会上層のきっかけである学を有するという点で決定的に異なるといえる。ちょうどその狭間、士大夫と豪侠の間にあったと見るべきか。

 かなり地方に影響力を持つ「豪侠」という捉え方でいいのか?劉邦→劉秀→曹操と時代に連れ、歴史の中心人物の権力基盤にその侠の比重が薄れていくように思えるのだが、どうだろうか。曹操の場合侠より、地方影響力=地盤としての地縁って感じがするんだけども。もちろん個人の資質という問題ではなく、劉秀の時代は社会に侠が重要なものとして働いており、その比重が大きかったが、曹操の時代になると、もはやそうでなくなったという点でね。

 劉邦が完全な侠を基盤とした政権で、あとから官吏をその政権内部に取り込んでいって、最終的に公的な権力に転換していく。整備して制度を徐々に整えていくという図式と、のち二者は真逆に見える。劉秀は二十八将みたいな豪侠の影響力、南陽豪族というものがある。しかし曹操の場合は、政権初期こそ潁川の政権なんだけど徐々にそのような構図を脱皮していくし。中央政治構造が完全に先にあって、それを踏襲した上での次期政治体制づくりという視点がやはり三者の中で一番強いと思われる。

 いずれにせよ、劉邦→劉秀→曹操の比較分析はもっと行われて然るべきだすね

 八王以後や南北朝などに時代が下っていくと、任侠的な要素・性格はもっと姿を消すのではないか?門閥化・貴族化が進んで、そういう人しか歴史の表舞台に殆ど出てこなくなりますしね。いやでも任侠とか一応たまにいるか。史記76・漢書68・後漢書67、三国志36、魏書29、南斉書11、宋書5、北史105、周書47。侠といっても豪侠、なんというか大名化された勢力って感じがするし。いても重点がうすれているような気がするなぁ。どうなんだろ?そこに侠としての独自のネットワークはあるのだろうか?豪族の中に組み込まれたような。科挙官僚化が進んで、上下階層が固定化して別れていく時に再び、黄巣の乱の塩賊のような形で侠のネットワークが違う意味を持って現れるような気がする。

 後漢書に遊侠伝が無いことが社会・時代の移り変わりを示している。この侠の変化を抑えなくてはならないだろう。重要な働きが減ったから書かれなくなったというのは、半分正解で半分間違い。官や公的制度との関わるほどの重大出来事にでてこなくなったが故のことで、実際の社会での役割は以前重要であり、末期や乱においてその姿を表す。そしてそれは公的・オフィシャルに賞賛されるものではないから記されない。昔に比べ表彰すべき性質が著しく減ったことには違いないだろうけども。

侠=巫

 やはり注目すべきは遊侠と巫祝=シャーマニズムとの密接な関係性だろう。このシャーマンは遊民、少年たちによって成り立っていた。市場に身を隠して巫となって潜む。唐の時代でも巫に少年たちが付き従うということは一般的に起こっている。良人を殲滅したり、亡命者をかくまったり、まさに狂信テロ集団の様相を呈した。

 当然ここで疑問となって湧いてくるのは、このシャーマン的宗教+侠こそが黄巾の元なのかということ。乱世・末世において自衛的意味もあって、凶暴化していったのか。これが基盤となって黄巾へと発展したのか?それとも曹操の済南の相の時の代表的巫の組織=景王祀の弾圧があるように、巫と黄巾は全く違う形態の宗教団体・社会組織だったのか?それが、黄巾と一体どういう違いがあるのかということ。

 水の呪術・儀式なんかして、一見つながりがありそうだが、むしろ宗教として洗練化されていると思われる。水に集約されることで呪術を最小限にしようとしたのだと己は受け取る。シャーマニズムに比較して呪術は遥か後方に退いており、重要なのは個人の信仰、懺悔=内面であるということになっているしね。

 その他公孫瓚にせよ、曹操が方術士を管理したように、巫との政治的つながり・関係性はいくらでも見いだせる。群盗行飲=盗賊の補給路が形成されていた。侠はくじで赤が出たら武を殺し~、青が出たら文を殺す~、他は喪を司るなどと言った形で役割分担をしていた。国家行政のすぐ外にはこのような無法地帯が広がっていたわけですね。支配が及ばずに侠をコントロールできなかったわけです。まあ、正確には「無法」じゃないんだけども。

 後漢末期の妖賊もこれなんでしょうね。注目すべきは漢が起こった時の現象は侠がさっさと蜂起して、郡県を乗っ取って政治機構を手に入れた。また後漢では赤眉の乱のように巫を中心としたネットワークから全国的な反乱となって火を吹いた。今回はその前漢が起こった初期のケースと違い、黄巾化(巫化?)している。その違いに注目すべきでしょうね。

 前回と違い階層の断絶が起こっている。いわば門閥社会化と表裏一体現象なわけですね。前漢士大夫というか、旧貴族など政治経験が豊富な人材がいた。侠とその距離は非常に近かった。しかしこのころになるともう階層がはっきりしていますから、項羽のような下級氏族・貴族(ん?下級か中の上くらいだっけ?まあいいやそういった士大夫クラスね)が蜂起するのではなく、寒門豪族が蜂起する。

 張角の場合は確か鉅鹿の結構な豪族。その地方では2・3番手のそこそこの豪族ですが、中央でキャリアがあるわけでもない。三公九卿また太守の二千石クラスを輩出した

 墨子の集団を見るとき、そこには軍人・指揮者・文官教養層・鬼神を祀るもの・工商などの様々な技術者からなどなど多様な階層、職種、技能者からなっていた。多様な階層・職能を墨子という組織内で一つに束ねていたわけです。しかし、そういった墨家という存在は帝国による一元的政治体制下で、需要がなくなって消えていきました。後漢末には再びそういう集団となって最結合してもおかしくないわけですよね。墨子となって姿を表したのではなく、黄巾となったこと。そこに時代背景・変化を見出すべきだと考えますね妖賊というのはある種漢代的墨子集団なわけですね。

 張角はもともと豪侠であり、そこから巫を排除して、有効に組織を機能させるため、ネットワーク化するための太平道なのだろうか?経典・文字があることからして、下層士人・地方官吏が参入したのは間違いないんだろうけど。これまでの下層を中心とした巫から、中下層の黄巾といったところかな?

侍御史と袁紹の話

 本当はもっと色いろあるんですけど、個人的連帯・結合、人的結合の話とかね、時間ないからすっ飛ばして、侍御史の話。宮中に出入りした内官は皇帝直轄であり、その意志を直接実行する機関。郡国派遣で銭を納めるのもこの侍御史が行った。何か問題があれば、ここが賊統治を行う。外征=軍に対し、内政=侍御史。軽い反乱程度ならば侍御史が行なってしまうわけです。

 内政範囲上と考えられる財政権・軍事権(警察権になるかもしれない)はここが収めている、何かあったらここを通して行われる、問題解決を行う直轄的な機関。すなわち中枢が三公九卿なら、実際職務を遂行する際にそれを行う機関な訳だ。刺史も外に独立する機能で、内は侍御史、外は刺史という形で、天子に結び付けられる。御史が三公から消えても、司空という形になる。その権限・機能の大きさがわかる。曹操の司空というのもこれに基づくのでしょうか

 酷吏伝に出てくる治安改善の名人は皆身分が低い。彼らは侍御史に抜擢されることによってその職務を遂行した。身分の低い、比較的低い階層から、酷吏というものは選ばれていた。皇帝が侍御史に就けて治安対策などを任せた。初期には低い階層からその人材が輩出されていたわけなんだけども、身分固定化・格差拡大が後漢進行しましたから、後漢に入ってそういった身分の低い者の抜擢というものが構造的にできなくなっていくことが分かりますね。やろうにも身分が低くて、能力=教養あるものがいないんですから。

 おそらくこれは張角や、黄巾一派に流入した比較的低い士大夫ではダメだったと思いますね。階層的に彼らは地方の利害を代表した存在ですから、酷吏のような機能を果たせなかったでしょう。果たしていたら桓帝なり、霊帝なりがどんどん抜擢したはずですからね(酷吏と宦官対決、地方兼併に対処できたかどうかはまた後で考えたいところ)。

 もしくは政治制度の成熟化によって、硬直化したシステムになったので、それができなくなったということかもしれません。本来なら侍御史にドンドン抜擢してつけることができたのが、時代がたって官僚制の定例的出世人事などに組み込まれていって、本来意図した皇帝のトップダウン実行という性格が失われてしまったと。後漢の国家の性格を考えると、そういう大事なポストを開放してトップダウンからボトムアップに切り替えたというのが自然に考えられますしね。まあいずれにせよ結論に違いはないですがね。

 前漢の末期=危機において、給事中・侍中・尚書などといった内官にその権力比重が移っていくことが分かります。皇帝直轄の官の権限を大きくして、トップダウンによる問題解決を図ろうとするわけです。んで、前漢末期と後漢末期では外戚の権力の伸張・党争・派閥争いという点で構造が本当に全く同じといっていいほど似ています。宦官の影響力が違いますがね(後漢のほうがはるかに大きな役割を果たしました)。そういうところで王莽が台頭したところと、侍御史キャリアの雄袁紹と西方の雄董卓がとどめを刺したというところの違い・比較分析がほしいですね。まだまだ答えは固まってません。ただやっぱり袁紹董卓はセットで見ないといけないのだろうという気はします。


袁紹の行動の基本原理は後漢モデルの回帰】

 思うに宦官機能強化という政治の流れに対して、侍御史→司隷校尉といった漢朝の初期における統治機構の本道・王道とも言えるそれを歩いてきた袁紹。彼がその流れに真っ向から逆らうというのは必然的な対立ではないかと思うのですよね。袁紹の宦官虐殺というのは、本来の官職の脱権力化に対する保守反動ではないかな?と見えるのですがどうでしょう?

 王朝末期、混乱期において任子→侍御史→司隷校尉というコースの袁紹はまさに、士大夫層の期待の星・希望の星ですよね。まあ尚書とか内系統のそれとは違って、外系統になって、一身に背負ったってことにはならないのかもしれないんですけども。

 とにかくその袁紹が本来の侍御史機能を宦官・内朝に権力を奪われている。そういう不正常な状態を元に戻したる!という保守反動とみると、これまでの皇帝権力の機能強化・宦官政治路線と、後漢初期の本来の政治路線に戻れ!という袁紹の保守回帰・原点回帰という性質とその行動がはっきり整理付けられると思うんですよね。

 色々すっ飛ばして、いい加減なメモ書きになりましたが、まあこんなところで一旦終わります。侍御史・袁紹に興味が湧いたんで、別枠でまたそっちで色々書きましょう。