てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

頂いたコメントの見返し、復習

 袁紹の革命をしない「中興」について考える前にちょっといろんなことを整理。

 改めて思うのは革命をしないことが革命的に重大な発想なんだよなぁということ。まあ、この辺は次回ということで。

 ○竇憲の時に汝南・穎川・南陽らの基本構造に三輔人士を引き立てる。続く鄧氏政権(鄧騭)の時には益州人士がそれに代わる。漢中李氏なんかもこの時引き立てられた。中林史朗さんがいうには

 <漢の武帝国学博士を置き各地に学校を設立するより一足早く、景帝の末年には蜀郡太守文翁に因って学校が立てられ、俗に「漢朝が人士を徴した時には、四人は蜀から輩出する」と言う状況>

 <後漢時代には、漢中李氏・蜀郡張氏・巴郡陳氏・犍為郡張氏などが中央政界に。巴蜀地方が持つ地域経済力と人的資源の豊富さは後世ほど顕著。中国最初の紙幣の発行に、科挙での特別な類省試。しかしこの地方にスポットがあたるのは、中央が混乱した時のみ。例えば前漢末、三国時代西晋末、唐末五代、日中戦争時などがそれで、平和時には単なる西南の一地方に逆戻りする>

 この経済的特質がある人材が中央にもたらした意味とは?まあやはりここを中心とした経済的なつながりの重要性。交易ルートとして涼州~西域一辺倒じゃなくて、こちらの益州まで含めて重要だったというところでしょう。劉備政権のときにこの四姓、四姓というくくりであったかどうかは知らないが、漢中李氏・蜀郡張氏・巴郡陳氏・犍為郡張氏などは参加していたのだろうか?まあ、普になってから参加しようとしても、呉と同じく重用はされなかったんだろうが。

 ○梁冀は涼州非放棄派、李固は涼州放棄派。あと崔烈も後者。梁冀の辺境問題の知識的根拠は朱穆。梁冀のあとは宦官制に反抗をしている=桓帝の君主権の制約をしているんだけども、辺境のその後をめぐる上でのことなのか?辺境を扱っている彼が梁冀革命を支えたのだろうか?知識的根拠の朱穆がもしそうでなければ、相当難しいだろうな。梁冀革命は

 ○史料論的な問題、『後漢書』の後半部分(桓帝・靈帝・獻帝)、特に最後二帝の部分の立傳のされかたがおかしい。本来この当時の政治的中心にあった人たちの記事が少なく、秩石の低い、本来優先順位が下の連中の記事が多い。『後漢書』の成立年代が、だいぶ後になるということが理由にあると。靈帝ないし獻帝初期の政治的中枢にあったのは、死後の將軍號授与とかを見ても楊賜・袁隗。袁氏のようなグレーゾーン的官僚はともかく、弘農楊氏は真っ白。

 ということは政治中枢にある楊氏&南陽何進というパイプに深い意味がある。んで、楊賜という最大の後ろ盾を失った何進があのような不安定な政治環境に置かれてしまい、結果としてああいう形になったのではなかろうか。宦官も楊賜が生存していれば何進暗殺なんていう思い切ったことはしなかったのではないか?
 侍講を封爵に値する功績だとされたように、侍講というのが霊帝の次なる重要機関か。侍講4人=楊賜、袁逢、劉寛、張済(であってるかな?)黄巾以後、霊帝はこりゃダメだと宦官・鴻都門学を見放さないまでも、その能力を疑問視し、もう一つ別の士大夫層の意見を汲み上げる装置を欲するようになった(もちろん霊帝主導・都合のいいそれで有能なものに限る。ただし有能に限る!)。彼らをブレーンと言わないまでも少なくとも、宦官・鴻都門学以外のもう一つの重要な顧問、諮問機関として機能していると考えるべきか。なんで今までこんなことに気づかなかったのか。うすうすはそんな気もしてたけど、まあそれはひとまずおいといて。
 何進大将軍は楊賜なくしてありなかったということ。楊賜なきあと袁隗・袁紹に協力を仰がねばならず、自ずと門生・故吏でもない彼らには距離があったと。んでうまく協力も得られなかったと。しかし妙だなぁ。真っ白ホワイティな楊賜さんなら、宦官と共存して、そうでないグレーな袁家で宦官皆殺しというのは。逆のほうがすっきりするんだけどね。まあそういう強行的な性格があったら
、楊賜を霊帝は信用しなかっただろうし、官界での影響力も高まらなかっただろう。彼の魅力は深い学識と実務能力の高さ。そして特定の政策派閥を持たないがゆえに、誰に対しても受け入れられるアドバイスをすることが出来るというところにあるのだろうから。
 楊賜と対等な三老だったのは袁隗じゃなくて、袁逢か。層が暑いというか、こんだけ人材がいればそりゃ影響力は凄まじいですなぁ。この時年いくつなんだろう?袁紹が40くらいで、彼らは60超えているのかなぁ?

 ○袁基の話題が全然でてこない。袁氏同世代でこの三人の名前があわせて出てこなくちゃいけない。『三国志』、『後漢書』以前の原史料に、魏末~西晋に形成される袁紹袁術の洛陽における名門子弟のとりこみ合戦のようなものがない。大本の史料の段階では、袁紹は滅多に人と会わず、本当の著名人とだけ交際した。逆に袁術は家に人が大量に押し掛けて、つめよせた人の車で道がふさがれるくらいだった。袁成の家の後継者=袁紹、袁逢の家の後継者=袁基、というものに対して袁術は後継ぎじゃない。なので、袁紹がまだ出仕する前の、その都での二人の在り方からすると、袁術はやっぱり門戸を開放しないと、この二人に追いつけなかった。

 おそらく袁基くらいの人物が交流を開いていれば、なんらかの記述は残るはずだから、それが残っていないということは、当時としてはごく普通のつきあいかたをしたのではないか?袁術ほど広くもなく、袁紹ほど狭くもないという。まあ、袁紹の狭さとはのちの奔走の友のようなグループからわかるように不満を抱いている人間を取り込むそういうものだったんだけど、袁術の広さっていうものについてはあんまり注目していなかった。あとで書く在地性っていう話につながることなんだけど、洛陽・首都のコネクション・パイプを重視した袁術という性格に繋がるのかな

 

 ○袁術袁紹との関係をことさらに嫌っているのは、袁紹が獻帝を否定していたから。多分、劉虞擁立時には、河内の同盟はともかく、酸棗の同盟では劉岱と橋瑁で割れているように、袁対董だったら袁につくけど、獻帝肯定か獻帝否定かだったら獻帝肯定が大多数。袁紹=大罪人、私は違う!仲間じゃない!っていうアピール。

 橋瑁は袁紹と考え方が近い、曹操でいったら鮑信のような人物だった?反献帝・劉虞擁立派だったのか

 ○董卓を支持している人たち=徐栄とか李儒とかにみられる三輔の中級豪族や、辺境地域の大豪族。

 ○騎馬=度遼將軍・使匈奴中郎將・護烏丸校尉、護羌校尉の兵、強弩なら冀州・徐州が最強。常備軍がそれぞれの治所と黎陽營にある。

 ○靈帝末の辺章・韓遂の乱の際の兵力は、段熲の系統の兵。使匈奴・護羌系の一部がそもそも、後漢の軍ではなくなっている。董卓は系統からいって、その使匈奴・護羌の兵は黄巾の征伐とかを見る限り、あまり強い兵ではなく、ごく一部その系統の兵を率いている。

 これは西方を専門とする兵がそもそも中原の戦争に向いていないというやつではないか?そうか兵の継承という観点から考えて、段熲董卓か。とすると、その段熲の失脚が董卓に与えた影響は大きいな。段熲の失脚→使匈奴・護羌系の継承→董卓のクーデターという流れか

 

 ○董卓が入朝して、丁原が完全に度遼將軍・使匈奴中郎將系統の兵を率いている。これを呂布が奪って董卓側に入る。さらに皇甫嵩の兵も接収して後漢の常設軍の反乱してない使匈奴・護羌(一部度遼・烏丸系の兵も入ってる)を手に入れる。董卓死後は李傕が継承。

 当初は三千しかいなかったわけだから、クーデターが成功して、長安に本拠を移してようやく残りの使匈奴・護羌系が董卓に帰順したのではないだろうか?とすると、これによって呂布の功績=丁原の度遼將軍・使匈奴中郎將系統の兵の比率が意味合いが下がると

 ○袁紹軍は黎陽營の兵、冀州の強弩、何進が集めていた兵、護羌校尉とか使匈奴中郎將系統の兵(界橋の戦いに見える)。初期のプランで、西河太守に袁紹の御仲間の崔鈞が配置されているので、もうこの段階で、涼州の兵の一部も袁紹に流れてきていた。最終的に烏丸の兵も入るので、軍事的には一度袁紹のもとにまとまる流れと。

 ○袁術は宛で洛陽・長安に向かうプランがあったが、袁紹劉表に挟まれて阻まれる。袁紹は劉虞擁立の時点で完全に、後漢を終わらせて「中興」に持ち込むプラン。袁紹はともかく劉表の賛同か。献帝が入ってくるのも、袁術孫策も牽制する役目。邪魔者を排除する役目。劉虞を擁立している時点で自己が皇帝になりたいからではなかろうし。
 西園
校尉は城門校尉とかそういう話かと思っていたけど、素直に考えれば、護羌校尉・護烏丸校尉の方が都合がいいな。無論周囲にはそう思わせておいて、次第にここを強化してそういう格上げにしようという発想なんだろうな。そういや使匈奴中郎將と匈奴中郎將の違いってなんだろ?

 こういった度遼將軍・使匈奴中郎將・護烏丸校尉・護羌校尉の兵を何人かここに吸収したんだろう。もしくはする予定だったか。西園校尉→何進袁紹もあっただろうね~。記されていないってことは数が大したことなかったってことか。五年くらい時間があったら記されるレベルに大きくなったかもしれない

 ○後漢の人事原則―本籍地回避の原則、婚姻相手の本籍地も回避するという原則は特別処置で禁令を破る例がある。刑罰で官吏になれない身分になった人も同じ。とくにこの場合、靈帝時代の段熲の事例がある。

 ただ刺史人事に関する例外措置というのは存在しない(太守も?)。厳耕望の研究で三互法および、それ以前の人事に関する禁則事項に抵触する例はない。

 蔡邕の上表を見る限り、人事権は三公の手にあり、靈帝が人事に関する禁令を厳しくしている。三公とか官僚層がそれに猛反発しているので、靈帝が三公が基準としている人たち以外から選ばせるために、禁令を厳しくしている。人事裁量権の強化をするのに、ルールを破って好き勝手にするのではなく、逆にルールを厳しく守ることでそれをやろうとしている。

 ということは自ずから限界がある。自分の好きなように都合よくルールを曲げられないし、下から推薦されてくる人材の枠を広げる程度にしかならないから。順帝にしろ桓帝にしろそもそも宦官という違ったルートから人事の枠を広げようとしただけか…。ものすごく裁量権が小さい・狭い。最初から限界性が非常に強いなぁ

 ○劉弁廢位で董卓が相談したというのは袁紹だけ。まず袁紹にこの話を持ち込んだというのがポイント。董卓司隸校尉袁紹事実上の官僚層代表と把握していたということ。皇帝交替の際の董卓「集議」。記述こそないが、霍光の昌邑王廢位や梁冀の桓帝擁立の際の「集議」のようなものを行なっている。つまり正式な手続きを踏んでいる。霍光の時は「外朝」の中間層以下の人たちが反発して、杜延年が剣を抜いて脅して、皆「ただ大將軍のみ令せよ」と言わせたと。梁冀の場合も李固系統の反発があって、自分で圧をかけてまた「ただ大將軍のみ令せよ」と言わせたと。董卓の場合は制度的に廢位の代行ができないから、軍事力で圧力をかけるしかなかった。

 「集議」の結果なんかみると、盧植が反発しているので、当然袁紹のような事前謀議はなかったわけだ。あったらもっと一致団結して反対工作をやる気がする。董卓は反対をおしきって、廢位を実行できる権限をもつ袁隗にそれをやらせた。ポイントは袁隗が認めたという所。いくらなんでも袁紹に、袁隗に、盧植その他もろもろが反対したら強行できなかっただろう。皇帝交替が認められたのは、丁原亡き後軍事的制圧だけではないのではないか?これも楊賜、何進との関係がありそう。彼らにとっても、献帝の方が都合がよかったということか。袁紹の「中興」プランというものは劉弁だったらどうだったんだろうか?劉弁が生存していて、彼を担いだとしても、それが可能だったのだろうか?
 董卓の政治がいくら軍権を握っていて、恐ろしいものだとしても、朝政の中枢にある人たちがホイホイうなづくものだろうか?彼らにとって董卓政治は永遠に続くものというより、一時的・過渡期的現象にすぎないと捉えていたのではないか?宦官がいないので、これまでのような宦官クーデターがないにしても、献帝が大きくなったら反発して、除かれるだろうと。また年も年だし長くて10年程度と見ていたからではないか?董卓政治の容認というものは。
 袁紹が出奔したり、要衝に非董卓派的人物がついてはいても、圧力レベルで、実際に関東諸侯が乱を起こすとは思っていなかったのではないか?黄巾の再蜂起など、混乱を収集できずに失敗すると楽観視していたのだろうか?

 ○梁冀の時の三公は梁氏の私恩によってあがってきた人たちじゃなくて、それ以前の鄧騭との繋がりで中央にでてきた人たち。タイミング的に梁冀の革命はちょっと早すぎた。

 曹操の魏公国~王国の段階の官僚および後の魏・西晋の名族となっていった家柄は、後漢でも名門ではあったけれど、決して中央とパイプがある家ではなかった。魏公国の六卿・尚書・侍中を見てわかるように、後漢の獻帝時代という混乱期を除いて、中央の官僚を輩出しているような家は陳郡袁氏か山陽王氏しかいない。しかも朝廷において中立であったとか、禁錮リストに入ったりとか、主流的な家ではなかった。逆に魏では後漢の名門の大半が、特に順帝以前に興ったような家が没落というか、中央で影響力を発揮できなくなっている。

 ○後漢の宮女を選ぶ際は「良家子」から選ぶというケースが多い。何氏は「良家子」には該当しない。庶人以下市籍(商人)も駄目。何氏の場合は市籍をもっていた可能性がある。史料はないが、多分本籍地は違っても、実際は洛陽に住んでる女子の中から選んでる。肉屋の表現にしても「本」という字が入っているので、祖父か父親が市籍だった可能性もある。何進の代には、南陽と洛陽に基盤がある大商人の家になってたのかも。ともかく「良家子」には該当しなくても、それに準じる家だったから選ばれた。

 なんというかこれは梁冀以後の商業振興・重商政策的なその流れを受け継いでいると思う。先代、先々代が大商人か?それともこのときに大商人となったのか?市籍を脱するために多額の献金をしたのではないか?という感じがする

 石井先生が曹操の奥さんの卞氏の「倡家」というのも、社会的に賤しい家柄ではないっていったそれに近い。単に庶人の戸籍ではなかったという程度。

 やはり何進・何氏と卞氏の相関性をここに見てしまうなぁ。「倡家」は『曹操の中に書いてあったかな?チェックしよう

 尚書臺の完全な外化、梁冀と李固との対立と袁紹と荀彧(曹操)の対立に類似したものがある。孝廉改革と辟召の問題は同じ人間が同じ方向性をもってやる改革ではなくて、孝廉は左雄・辟召は三公系とばらばら。

 なんだろ?尚書系の改革欲求と監察系の改革欲求で対立するという図式があるのかな?李固は漢中李氏か?梁商に引き立てられたのに梁冀と対立したのか。従事侍郎だから、尚書系とみていいのか

 ○陶謙袁紹VS袁術で全く動かなくなった状況の時、献帝を救い出せ!的な呼びかけで打破しようとしたのが徐州連合=反董卓連合ver2。袁紹曹操が攻めこんできて、崩壊したあと、彼らの再就職は陳登経由。中央における横の繋がり、本籍地地方・居住地洛陽というコネが、徐州の人たちと袁紹との橋渡しをした。ちなみに袁術も彼と交渉していると。孔融とかその他の面々は、軒並み曹操に嫌われてる人たちなので、孔融にしても袁忠にしても。ここで橋渡しになってるのは、曹操の最後の障壁になった趙温、あるいは楊彪・陳紀など。表向き中立で、袁術が建号しなけりゃ、そっちとくっついたような人たち。

 まあ献帝のおつきの人々か。建号しなくても負けフラグたってたから強い方、献帝を抱える曹操についたと思うが

 ○曹操の居住地は葬式以外基本洛陽在住。ただ婚姻関係は、丁さんにしても劉さんにしても、多分沛國劉氏のはずで、洛陽における交遊と、かつ出身地の在地性を併せ持った家。

 そうか袁紹の六年の喪というのはそもそも洛陽より、地元汝南でのコネ作りという性質が強いんじゃないかな?洛陽と地元、両方備えていないと、どうもその後戦えたという感じがしない。袁術なんかそれがないから敗れたという気がしてならない。洛陽でのそれと任侠だけで袁術は手一杯になってしまったというところか?もし在地性があれば、袁術は南落ちすることもなかったんじゃないか?任侠という用語がこの三人には出てくるんだが、これってよく考えたら洛陽に住んでいるわけだから、やっぱり同じ任侠グループで遊んでいたのかなぁ?学問とか中央子弟の貴族的遊び、その他にこの洛陽での任侠グループで交流があったんじゃないかな

 ○魏以降の巨大な府の辟召は後漢でいうと地方辟召レベル(州刺史辟)に該当する。昇進経路としてあくまでその幕府内に留まってしまう。となると、その幕府の長との私恩、人的紐帯はあれど、中央官僚としてあるわけじゃない。

 これはやはりあれかな?前後漢の末期で出てくる州牧強化、地方末端機構の権限強化。その裏返しの現象、二千石(州牧・刺史)→六百石に刺史を戻す流れなのかな?魏が出来ると問題は収まったと見て、再び権限を弱くして、監察機能が弱められたということか。地方系統の官僚→中央官僚というルートがなくなる。結局これで中央の名門というものが確立されると。普に至っても中央名門は中央名門。地方はそれに参加する余地がなくなる。

 こういうところがあるから、曹操許昌→ギョウ→洛陽と三段階ステップで革命を踏んだのに対し、普は洛陽にあるだけで革命ができたというところなのかな。宮崎市定さんが移動型とか同地型とかなんとか言ってたと思うんだけど。洛陽だけに名声が集中するところからかね?浮華とか清談のようなもてはやすのは。洛陽に限られてしまった狭い範囲内だからこそ興った評論、格付けといえるのかな。

 別に意図をして地方軽視したというわけじゃないんだろうけども、中央機構と地方機構に溝ができてしまった。この結果が魏晋革命であり、八王の乱というところか。地方の声を中央に組み上げるシステム、三公九卿になれるルートが無くなってしまった。他はせいぜい外戚になって声を反映させるくらい。言うまでもなく物凄い低い確率。だから地方の王が外戚排除や、皇帝擁立や、自身が直接皇帝に!という図式か。誰も彼もが中央名門制度を抜本的に手を付けられることはもはや出来なかったんだろうね。この中央名門制度というのはやはり梁冀の首都の中央機能強化太学の整備に定例昇進ルートの整備ということに端を発するのかしらね?彼の革命でも同じようなことになったと考えていいのかな?

 

 ○後漢くらいから、長安は首都機能を果たせないという事がよく言われている。首都が巨大化して、長安の人口が増えるに従って&次第に関中の農業生産力が低下して、維持できなくなった。洛陽は日本の京都みたいに、攻めやすく守りにくい都市ではあるけれど、大多数の都市民を支えるだけの人の流入がある都市だった。

 首都というのは何時の時代でも流れ者を多く引き寄せるスラムを伴うもの。長安が持たない一つの理由としてこのスラム=余剰人口があげられるだろう。帝国の自壊というやつか

 ○小嶋茂稔先生の論文いわく、混乱期になると郡レベルでまとまり、かつある程度安定して維持されている。郷里社会が県→郡→州という単位でまとまる。新漢、漢魏の間も、反乱・独立のリーダーが小役人、地方レベルで言えば豪族。

 ○木村先生とか佐竹先生が研究している成果をみると、幽州は新興豪族と定義される人たちが強い(公孫瓚、公孫氏一辺倒だもんな)。逆に涼州の豪族って著姓はいるけれど、幽州、幷州ほどの大豪族も目立たない。非漢民族との交遊は北辺ではあんまり見えない。

 ○遊牧=軍事力としての価値。騎馬部隊の場合、農耕生活で世代交代しちゃうとそれがなくなる。馬も貴重品で、袁紹でさえ、騎馬部隊そろえることができても一万程度。北辺・西辺の人々の価値は、訓練された騎馬術。北辺に崔氏・王氏といった騎射が得意という人たちが多い。漢の側は鉄器部隊、技術を必要とする帯甲歩兵部隊とか、烏丸突騎と並び称された冀州の強弩。漢の側の軍事力は訓練された兵士でなくとも、なんとかなる技術面の革新によって対抗。

 漢末で非漢民族の価値は、つまるところ戦闘力。奴隷化、定住化で価値はなくなる。兵戸に入るなら一応存在価値は残せる。この馬・専門技術を持った騎馬兵の供給ということを考えると、後漢末で兵力として意味のあった人々っていうのは、地方豪族に隷属することなく、漢の「内」ではなく「外」において存在した人たち。西と東では馬の種類が違う。竇憲が匈奴叩いたころには、幷州とか上林苑に馬が飼われていたが、北方の方の馬と違い、西方のは一回り二回り大きい馬だった。

 ―ということを考えますと、曹操の烏丸強制移住の意味合いがまた変わってくる。軍事力、中央騎馬軍として期待していたのなら、中央・鄴だけど、数十年経ったらもうその意味は消えてしまう。むしろ烏丸という勢力の武装解除の意味合いのほうが強かったのだろうか?骨抜きにすることで一体どういう意図があったのか?人の能力はともかく、馬の質からすると西>北。こういうところからも董卓公孫瓚ってことになるのかな?まあそもそもこの馬こそが中国の西→東の流れを決定づける一つの大きな要因なんだろうし。西→并州→北こういうルートが開拓されたんじゃないかなぁ?并州匈奴がとどまっていたし。
 烏丸という勢力を崩壊させることで、逃げこんだ漢人達による亡命政権の誕生を防止するという意味合いがあったのかな?袁尚などそれらが逃げ込んでいたように、そこが開発される。あるいは交易ルートが開かれるといった要素を見越していたのかもしれない。遼東の公孫淵なんかは間違いなく烏丸がいなくなってそこを支配下に収めて勢力を伸ばしたのだろうし。
遼東から孫呉まで海岸沿いに一本のルートがあったし、遼東政権の崩壊で卑弥呼が入朝してきたように、東の交易ルートを生かして成長するという可能性を恐れたのかも。また烏丸=騎馬さえいなくなれば、将来的にゆっくり遼東あたりをじわじわ支配下における、刀狩り・去勢化の意味があったということなのかもしれない。

 曹丕なんかの石碑作って、ここが中原ですよ~なんてのは、あくまで戦乱で流出してしまった漢人をもう平和になりましたから、帰っていらっさ~いという呼びかけなんでしょう。まあそれで、西や北に流出した漢人がいなくなって空白地ができる。その隙間を埋める形でさらに遊牧系の方々が周辺にやってきたんでしょうけどね。そういう形で考えると烏丸の場合は、袁尚が逃げ込んだように、あくまでその逃げこんだ漢人たちがメインだったのかなぁ?

 袁紹ですら一万が限界なら、烏丸も住民自体が10万人いてそれを強制移住させること自体はおかしくもなんとも無いですが、騎馬兵じたいはやっぱり一万~二万といったところじゃないのかなぁ?
 んで、袁紹ですら一万が限界の騎馬を劉淵なんかは、誇張表現だとしても、騎射の士が四十万もいるわけですよね。ココらへんがポイントになると思います。『馬かける古代アジア』なんか見ると、鐙が生まれたのは発掘されたものからして、西晋時代にはもうあった。中国の場合、遊牧民が力をつけたというよりかは、劉淵のように漢化・諸侯待遇で使えているうちにそのシステムを習熟して相手のやり方を知ったこと。さらにはこの鐙という新技術・革新によって兵が数倍・数十倍になったことが大きいと思うんですよね。

 というのは騎射というのは馬術&射術二つの訓練をマスターしないといけないわけで、その二つをマスターする、習熟する人間というのは遊牧民でも限られていたのだと思うんですよね。まあ遊牧民、全員が全員=騎馬軍団でなかったのは当たり前なんですが。この技術革新によって、これまで未熟者として兵隊失格、兵卒として使えなかった人間も使えることが出来るようになったのが大きい。あとはリストラされて流れた結果、ここに吸収されたというのもあったでしょうし。むしろ流れてきた漢人。そういう漢人のリストら軍人を騎兵として使えるようになったのが大きいんじゃないでしょうかね?
 あとは漢人と弓術ですよね。冀州の強弩みたいなのを取り入れられたら、胡の馬術+漢の弓術=最強兵という図式になって、物凄いわかりやすいんですけども。こういう図式だったんじゃないですかね?マゲ+社員=マゲ社員みたいな?

 ○幽州・幷州は烏丸や鮮卑匈奴と、その土地の漢人豪族の利害と一致する要素がない。逆に涼州とか益州荊州・揚州も必ずしも非漢民族による漢民族の資産の一方的収奪という現象はおこらない、生活環境自体にそれほど違いがない。涼州益州になると、その向こう側に別の国家(?)、交易相手になる存在があるから、融和的ムードがあると。

 ○著姓とか四姓というのは文化的価値、文字通りその地域で有力な家というだけではなく、その地域に多い姓でもある。「單家」なんて言葉があるように、豪族であっても、つまり相当な経済力を有していても、その地域では「著姓」ではなく、かつ郷里社会からは浮いた存在として扱われるのもいる。いわゆる豪族であっても地元の名士でない、みたいな変わった存在もいることはいる。あるいは高い官位を持っていても貴族と認定されなかったりとか。

 後漢で典型的例をあげれば、博陵崔氏で、崔烈の家みたいに、巨万の富を持っている家もあれば、祖父の段階で枝分かれした家は、豪族レベルの儀礼的行事に参加するだけの経済力を有していないとか、同じ「著姓」であっても個々の家で、経済力が異なることが多い。博陵崔氏って唐に続く崔氏か。てっきり、崔瑗の方が唐に続く崔氏かと思った

 涼州とか益州とかそれこそ四姓は多いけれど、必ずしもすべてが中央に進出できるわけではない。涼州とか一つの県に一つの著姓しかなくても、その地域の中では影響力があっても、外に出ると大したことないというのも多い。結局、絶対的な規模・家ごとの経済力による。

 

 ○矢野主税氏の研究によると袁・楊氏共に経済的基盤はない。袁氏でいえば、早い段階で都に生活の場があり、巨万の富は官僚であることで得られる俸禄や賄賂。楊氏は居住地三輔で、少なくとも楊秉の代までは産業をおこしていない。しかし、官僚になる人たちは「清」を売りにしていても、官僚として名前が残っていない宗族の人間が農業・商業に手を出していない証明にはならない。おそらく楊氏でいえば、楊震の直系は経済基盤はない。ただし著姓ではある。もしかしたら親戚は大資産家ということも考えられる。ただし親戚からも支援を受けてはいない。袁氏も初期はそういう事は史料上断言できる。それが可能だったのは、ともに著姓であって、文化的価値があったから。洛陽在住でなく、居住地三輔という洛陽でのコネクションがないところが楊賜が他とは違い、真っ白でなおかつ霊帝からも信頼を得られた要因か。楊賜に絶対的な権力・輿望がないからね、洛陽コネルートで。楊賜・袁隗はもう一度見なおそう。侍講制度のこともあるしね

 よって経済基盤があることだけが、必ずしも重要とは言えない。文化的価値がある地域はそれで評価されるから。特に汝南の場合は中央に進出できるコネクションがたくさんあったわけで、個別の家家の経済力より著姓であることが大きい。南朝の僑郡四姓なんてのも、最初は経済基盤はなくて、あくまで文化的価値を根拠に乗っかって、その後、それを経済基盤に転用。弘農楊賜氏の四代の本流に限っては、盤石な経済基盤はなく、もっぱら文化的価値によって存立していたことは確実。晉で外戚になる傍系の家は絶対、何らかの経済基盤があった。そうじゃないと説明がつかない。袁氏は地元では著姓だけど、李氏とか周氏とかのほうが経済力はありそう。多分袁氏は地元で10本の指には入る。良くて中の上というところ。袁氏はあの一体の著姓で、おそらく本宗は陳郡のほう。

 公孫瓚が地元の有力者と極端につながりが薄いのは涼州とかのように、遊牧と豪族間の交流がないからだろうな。完全に独立した軍事的集団という要素だけっていうカンジがするなぁ

 

 あれ?張角って著姓ではあっても豪族ではないのか?

 >石井先生が种暠とかを、金で名誉を買ったと言っていますが、結果的に、経済力を自ら手放すことで、官僚になれた。

 ヤバおもいっきり見逃している。彼は金で買っただけでなく、経済力・商業的な基盤そのものを放棄したのか!?これ物凄い重要だな。なんでスルーしたし

 

 監察官≧太守・中郎將・校尉>次官クラス・地方豪族 という図式の中で、

 ・キャリア組  三府掾→侍御史→刺史→太守・中郎將

 ・ノンキャリ組  地方官→次官クラス→太守・中郎將

というルートになっている。