てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

書評―儀礼のオントロギー

儀礼のオントロギー 人間社会を再生産するもの/今村 仁司

¥1,995 Amazon.co.jp
オントロギーですか、存在論をやりたいんですかね。ググったら事実性の解釈学なんて出てきましたけど、まあハイデガー流れを引き継いで、そういうテーマでやるということなんでしょうか?そのテーマの重要性がよくわからないからかもしれませんが、あんまりピンと来ませんでしたね。というわけで、本の内容自体にはそれほど触れているわけではないので、それを期待してこられた方は役に立たないと思われます。m(_ _)m

社会制度に儀礼は必要不可欠。否応なく存在すると。儀礼から社会というものを捉える、考えるというのはまあ、ありだとは思います。ですが、そこから先がほしいですよね。儀礼の本質、タイプ分けによってこの社会は~~型、この社会は~~型と分類分けして、そこから先の展開が欲しかったのですが、それがなかったですね~。そっから先が重要だと思うのですが…。

儀礼が非合理的なものとしてこれまで学問の俎上に上がりづらいものだったとか、そこら辺はすごいいいのですが、そこから先ですよね。文化人類学とかがすでにあるわけでして、その後追いだけになっちゃいますからねぇ。なんかもうひとつ突っ込んでほしいなあというところ。想像の共同体しかり、想像の物語で成り立っている社会・国家はそれ自体非常に強固な紐帯になっているわけですから、儀礼も抽象的・非合理的なんて切って捨てられるものではないと。

ブッシュマンという狩猟採集社会の平等分配・平等原則、リーダーがいない、英雄にも謙虚さが求められるという社会形態はなんか日本に非常によく似ているなぁという気がしました。日本人の行動様式は縄文とか異常に長かったので、そのときの狩猟採集の影響が強く残っているとか、誰かこれまで言ってないのかな?誰か言ってそうなものだけど。

今村薫氏のツォーという儀礼の存在の指摘は面白かったですね。ブッシュマン、そういった未開社会の形態では治療すら通過儀礼の一種として理解されている。つまり儀式なんですねぇ。非合理な医術=呪術に基づく迷信とか血迷った行為と捉えるだけでなく、儀式として処理しようとしていたのを見ると、社会の製造ラインというか、そういう処理形態として理解できますね。

我々からすると病気になるのは個人の生死・健康問題として捉えますが、当時の人間にとっては病気は社会の問題だったということを如実に示す出来事ですなぁ。儀式・儀礼を通じてみれば、社会や当該集団、共同体がいかにその出来事に対処しようとしたか、集合意識の問題だったかわかりますね(=人間に意識・個人などなく、集団としての意識しか存在しなかったこと、個性なんてなにそれ?レベルですからね。)。んで当時は病気にかかる人がああ病気になっちゃった~っていうことよりも、集団の問題、周りがそれをどう受け止めるかということのほうがはるかに意識が高かった。本人より周囲・社会の問題だったってことですよね。治すじゃなくて、(社会が)対処する問題だったという捉え方だったとこが面白いですねぇ。

同じくムブディなどの社会を見ると、牧畜・農耕社会と違い、ドメスティケイションの要素がないから呪術が発達しにくい。人為=生産力の向上から呪術(人為的にあらゆる物をコントロールできる)の発想が生まれるということか。祖先崇拝も墓もない。分かち合い、富の個人への集中を抑制する。まあ原始共産じゃないけど、平等に富を分かつというのは狩猟採集時代、つまり社会の始まりの感情なんだろうね。呪術の逆ですかね。人為的にどうこうしようというのではなく、ただあるがままに自然を受け入れようという狩猟採集型の行動様式は。

+その日暮らし、遊動的生活様式、家族ごとの離合集散を繰り返す、親族のみの暮らしで集団内で顔を突き合わせた成員しか存在しないから、問題が起こり得ない。呪術も宗教も発生しないか。

原始首長→太陽王・呪術王。首長と王権・神聖王権を分けるものは国家。どうでもいいステップアップだが、これちょっと個人的に使いたいからメモとして残しときます。

王殺しとか二つの身体とか、呪術王ゆえの仏王に触手儀礼があったとか、まあ文化人類学でよく知られた話をつらつら書いているだけという気が…。せめてまとめがほしいですね。ライトルギー(公共奉仕・レイトルギア)が儀礼というのはすごい強引のような…。社会制度・システムを「儀礼」とするならするで構わないと思うんですが、そのことに一体どんな理があるのか?そうすることで一体どんな理解の向上・理解のしやすさがあるのか…。普通に、歴史や社会を分析する一視点以上の価値は見いだせないと思うんですけどね。そういう意味で書いているならいいんですが。

いろんな儀礼に触れたあとで、うーん、で?という感じでしたね。まあ、なんか諸論文や本をまとめて、列挙しただけで終わってしまったような。そこから新しいもの・何かを提供しないとちょっとダメじゃないですかね?もちろんやろうとしていることは賛同・同意なんですけどね。

儀礼をやるなら、己なら、これまでの主要テーマ<規範>から攻めますね。目に見えない人々を縛るもの<規範>・思考・行動様式・エトスの重要性を改めてさらっと触れて、目には見えない慣習の重要性を強調する。そして実際の制度・現実を見ると、抽象的・観念的な規範というものは、社会において必ず形態をとって現実化・具体化している。

儀礼とは抽象的・観念的な<規範>を具体化させる一つの装置である。

  規範→儀礼→制度(現実化)

ってな図式でも作って、その制度化、具体化を検証するってところでしょうかね?そういう作業を踏まえて、タイプ分け・理念型作っていって、比較分析して諸社会に必要な改革方を探っていく。特に近代国家に転じるにはこういう儀礼を通じて、制度化をするのがいいのではなかろうか?という提言をすれば今に生きる学問になると思うのですが…。

もったいないですね。儀礼というただ単にそれを研究するだけ、自己目的化に陥ってしまっているような気がします。

書評というより最早単なる感想―貨幣とは何だろうかで触れたようにこの人の本読んで、へぇと思ったことも多かったので、なんか残念でしたね。もったいなかったというか。