青州の遼東支配とか潼関の戦いとかの雑感
こうやって見ると、そもそも~と、なるほど~率が多い己のツイッター(笑)。
まとまりが無いですが、最近三国志関係でつぶやいたものをそれとなくとりあげてみました。まあログ替わりですね。
【RT】@my_birthday0128 劉備は廬江とのつながりがあり、廬江賊の雷緒は劉備に降っている。ただ、劉豹が益州人側で上言していることを見ると、陽泉は普通に広漢郡と考えて良いのではないかと思う。廬江の陽泉だとしたなら劉豹は荊州時点で参じているはずで、そのクラスなら漢中王時点で九卿に昇っているはずである。
→そういや廬江の雷緒がいましたなぁ。劉備は丹陽行ったり、太史慈が援軍となった時の関係があったり、徐州のトップのキャリアもあり、海ルートで劉備はパイプがあった。んでその海ルートでのパイプが益州に入った時、どれくらいやくにったんだろう?こういう人達が孫呉はもちろん、劉備の蜀にもいたのかな?いたとしたらどれくらいいたんだろ?夷陵とか彼らが反乱して背後を脅かしてくれるって構想があったりしたのかな?
【公孫瓚の童謡で決めたからアホじゃねこいつ論について】童謡は当時の常識だと、神託・占いが重視される、それに従って動くのが常識。なので、士大夫はともかく大衆はそれで動くから、童謡が理由になって城の拠点としても普通のこと。袁紹が最終的に曹操に敗れた理由は公孫瓚討ちに時間がかかったらなんですが、評価されないですね公孫瓚は。
【公孫度らの青州支配について】※ツイッターでは結構青州の一部が遼東の公孫系の支配下にあったという話が熱い(かった?)です。上の話も、それゆえ海上ルート・海のパイプというものの存在を前提とした話ですしね。
そもそも公孫度とか公孫淵の青州支配って拠点は絶対支配してないと思うんですよね。海からわ~っとやってきて、攻められたら逃げるというか、そういう形でも影響力を及ぼしてしまう青州の地形的要因があるんじゃないかな?と思います。
【RT】@nisekuro_at 後漢・三国志時代にあったこの長矛兵は少ない人口密度で外敵から城を守るために涼州ではぐくまれて来た。この地方は秋の収穫が終わり練兵の時節になると男は長矛を習い、女子供は弓射を習うと史書に記されている。記されてた箇所は・・・度忘れしたスマソ。
→そもそも長矛兵がどうして少ない人口密度で外敵から城を守るために有効なのでしょうか?また他の地域で見られないのはなぜなんでしょうか?女性も城の守りで弓使って戦ってたのかなぁ?だとすると創作する人達の格好の材料になりますなぁ
【RT】@Golden_hamster 確かに具体的にどのあたりを支配したか、っていうのはわからないですからね。ただ、おっしゃるような形よりは青州に公孫氏を支持する豪族や長吏がいた、というのが実態に近いんじゃないかと私は思います。曹操と臧覇らの関係みたいな
→支持するというよりか、そっちと取引すれば色々儲かるから、基本は朝廷に従っておいて、彼らが遼東からやってきたら、討伐命令出ても消極的対応。中立的独立を保とうとしたという感じでしょうか?まあ結局臧覇スタイルですね。
気になるのはそういう青州の風土が青州兵とか一貫してつながっているということですかね。黄河とか利用して交易で繋がっているから、兵が賊の船を鹵獲することを望んだのを許さなかったとか、そういう感じになるんでしょうね。
李なんとかさんが上庸攻めとかに名前で一瞬出てきて、それについて。李厳の一族で、彼の戦死する程の働きがあって、ようやくここを落とすことができた。んで李厳の発言力増大って流れとか?いくら蜀側に近くても李厳のコネとかそういうのがないと上庸もそんなにあっさり落ちたりしないような気がする。
【RT】 @my_birthday0128: 関羽の敗北は正直麋芳・士仁のせいじゃなくて、魏の人材の厚さと粘り強さのせいだよね。あんだけ攻めて、七軍沈めても勝てないんだから。
→ハナから国力の違いが・・・中の人達が蜀入りしたくないっていう必死の抵抗もあったでしょうね。そもそも魏に仕えるのと蜀に仕えるのじゃ、前世に意味合いが違いますからなぁ。そりゃ誰も蜀に降って出世しようなんて思わないもの。
【RT】 @my_birthday0128: ブログ更新『ぼくのかんがえた士仁』―リテラシーが試される記事http://t.co/2HPtGEX7 →そういや士仁は劉備のお隣出身なのにそれ以前の経歴がまったくないってのも変な話ですなぁ。年が若くてキャリアが浅かったのかな?
【RT】@Golden_hamster 年が若いよそ者が糜芳と同列に語られて公安の守将やってるってのはちょっと考えにくいので、最古参でないとしてもそれなりに古くからの生き残りだったと思うべきでしょう。
→まあ、そうですよね。諸葛亮の馬謖in街亭みたいに、劉備も士仁in公安だったりして(笑)。諸葛亮いわく、士仁は見せかけだけだから重用しないようにと言われていたとかいないとかw
中国は数の利&弓が騎馬対策。そうでない西域は長矛だったと。弓対長矛は?となるところですが、全土に広まっていないところを見るとそこまで有効ではなかったということなんでしょうか?対騎馬には無論有効なのでしょうけど。弓より安上がりなのかな?
【RT】 @nisekuro_at 逆にいうと、西域諸国経由で西方から伝播してきたドクトリンがあの辺りに定着したと言えるのかも。中原の他の地域はぶっちゃけ人の数がぱねぇわけですし。当然弩を用いた火力(って言い方も語弊生みそうですが)で騎兵を近づ(け)ないって方策になるかな。
弩ではなく、長矛。西域の影響なら、中国より西域に近いといえるのでしょうかね?あとは籠城したら当然長矛は無意味ですから、籠城したくないという背景があるんでしょうかね?あそこら辺の人たちには。(続き↓に)
間野先生の本古いかなと思ったら、2004年ですか。チェックしてみようかな。どうも最近は遊牧系とか交易の研究が強くて、西域というテーマは二次的ですね。史料的にも仕方ないのかな?
西域とかそうなんだけど、10年もするとあっという間に常識は変わっちゃうから、そこに優れた研究者が一人いて、解説書出してくれないとさっぱりわからなくなるのよね。論文でちらほらそういう事書いていても素人にはわからんし。何か発見があったらせめてそういう功績くらい簡単に伝えて欲しいよね
【RT】 @nisekuro_at 魏王曹操と同じく、漢中王劉備の封国は漢中のみならず当時劉備が実効支配していた全領域を封国としていたのではないか?そうみると蜀書先主伝の漢中王に即いた後の「於是還治成都。拔魏延為都督,鎮漢中。」是に於いて還って成都を治所とした。魏延を抜擢して都督と為し、漢中を鎮守させた。は意味深
【RT】 @Golden_hamster っていうか漢中・巴・蜀・広漢・ケンイを国とするって書いてますよ
【RT】 @nisekuro_at あ、ほんとだ見落としてた。ああ。荊州抜いてるか。なるほど。抜いてるから孫権は係争中の荊州に関して自分達が配慮してると分かってくれるとか思っちゃったんかな。
→そんな配慮があったとは。劉備や関羽が死んだ後の蜀になったら、荊州どうするつもりだったんだろ?長安抜いたら、交渉次第で更に分割するとか配慮するつもりだったのかなぁ…?関羽が油断したと言うよりも、襄陽・長安を抜いたら返すよという感じで、襄陽抜き一歩手前だから攻められるなんて思いもよらなかったとか?
【RT】 @nisekuro_at 反董卓連合豫州組の黒幕の許靖さんハブろうなんて耳長王はホンマ大したお人や。というか割とこの許靖は侮れんかも。王朗の軍師も(恐らく)しとりますし。「軍師二人:許靖と虞翻」で再評価しようかと思ってます。んで交州にいて色々やって益州への伝手を作って益州へ向かって今度は劉璋の懐に入り込む・・・。黒幕というかキングメーカーというか乱世の脚本家というか、実に黒々と黒光りした「好々爺」。劉備の前では絶対猫を被っていたに違いない。
→許靖サン使うと劉備にとってマズイ面があったんですかね?許靖の影響力が強くなりすぎるとか。劉備死後の諸葛亮に一任する体制を考えると、諸葛亮が制約されちゃうから、その配慮かもしれないですね。許靖のクセモノっぷりもなかなか面白い話ですね。
袁術や許靖・王朗なんかみると実は豫州関係の人は乱世で呉とか揚州が大事、南の交易ルート・貨幣資源とかで。んでまず揚州、次にそこから交州・荊州・益州とか、順番に抑えていく構造になっているとか?もし呉を攻めるなら許靖さんが重用されたかも?まあないのだけど
【西域とか潼関の戦いについてあれこれ】
秦なんかオリエントの戦術を導入したってことですし、オリエントの都市戦術→西域→涼州ってことですかね。むしろ中国やインドみたいに人がたくさんいて防衛できる方が例外ってところでしょうか?インドが中国的戦法だったか知りませんが。長矛兵で国民皆兵的なところがギリシャ都市のように民主制的な風土を根付かせていたのか気になるところですね。ここらへんの女性は元気ですし。
長矛兵は守るための時間稼ぎ、遊牧対策としては有効ですが、どうも外に出て戦うというのに有効だという感じがしないんですよね。それこそホームでは強いのでしょうが、アウェイでは行軍とか会戦とかに向いていないのではないでしょうか?会戦の経験も乏しそうですし 。
確か匈奴は弱体化していて、羌がメイン敵だったかな?羌は統制がとれた大軍ではない。よって涼州ファランクスは統率された大軍との戦闘経験に乏しかった。必然的に会戦、機動戦術も乏しい。機動戦術はそうでもないか。そんなところが曹操に敗れた理由なのかな?