てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

【有坂純】 世界戦史残り

世界戦史―歴史を動かした7つの戦い (学研M文庫)/有坂 純

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【有坂純】 世界戦史より第二章の続き、最後はいっぺんにまとめました。まあそんなに長くもなりませんしね。

三章カンネーの戦い、カンネー殲滅戦。

 戦争の古典的模範となっているこの戦争。敵の側面ないし背後に志向する攻撃を側面運動または包囲という。両翼において敵を囲んだ場合二重包囲という。

 実際、会戦においては相手の側面をついてしまえばそれだけで勝利が得られますからね。背後・側面から相手の右翼か左翼を分断したのち、中央主力を叩くことが大体王道パターンですよね、会戦というのは。

 大体互角同士でも、どっちか一方の勢力の片翼が崩れた時点で、スタコラサッサと残りの軍は退却を選択するわけです。残ってたらそのまま不利な形で敵の進軍を食らってやられてしまいますからね。

 それだけに殲滅戦、相手の軍を完膚なきまでに叩きのめす。殺し尽くすというのは殆ど無いわけです。ハンニバルのローマでのこのカンネーの戦いは完璧なまでに相手を叩いたほとんど唯一の例じゃないでしょうか?片翼を崩すだけでも結構な損害を与えるというのに、背後から挟み撃ちでも十分だというのに、両翼から二重包囲をしてしまったんですからねぇ。

 ナポレオンのマスターピースと言われるアウステルリッツでさえ32%。このカンネーでは実に全体の70%が壊滅させられたのですから。事実上の全滅と言っていい大敗でしょう。

通商国家カルタゴ (興亡の世界史)/佐藤 育子

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ローマ人の物語 (3) ― ハンニバル戦記(上) (新潮文庫)/塩野 七生

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ローマ人の物語 (4) ― ハンニバル戦記(中) (新潮文庫)/塩野 七生

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ローマ人の物語 (5) ― ハンニバル戦記(下) (新潮文庫)/塩野 七生

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ローマ人の物語 (2) ハンニバル戦記/塩野 七生

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 内容自体は既にこういった本を呼んでいて、事前に知っていたことが多かったので、流し読みでした。細かいデータとかはまあいいでしょう、調べりゃ分かることだし。カルタゴギリシャ系・フェニキア系という海上二大勢力の後者の雄。ギリシャ系ではないけども、その系統を自認するローマにとってはまあ世界に手を広げる上で必然的にぶつかっていく相手ですね。

 海上での商業を元に成立している国ですがアテネとは違ってデロス同盟のような形に近い。市民権を持つもの数十万人がカルタゴ周辺を支配する形。元老院が運営し、傭兵部隊を率いるという点では後のローマの国制に近い。ギリシャ・ローマのように兵役で民主化元老院・財産制のようなルートをたどっていったのか?興味深いのは国難の際の生贄の儀式、主神バールに名家の子女数百名を生贄にしたということでしょうか。

 ハンニバルの強さの前に戦うことを放棄した、アレクサンドロスの前のメムノンのような賢明な戦術を採ったファビウス。彼はグズと呼ばれ任期が切れると強硬派に代わったわけです。もしこれがそのままだったら…。カンネー自体がなかったらと考えると面白いんでしょうけど、海軍VS陸軍という明確な得手・不得手のタイプに分かれていて、そのローマ側が本国に深く侵入を許して戦わないなんてありえませんしね。

 消耗品のどうでもいい異民族兵を最前線にして生贄にし、釣り上げる餌にして、アフリカのヌミディア騎兵を両翼において回りこませて包囲するっていうパターンですね。一回目で何故懲りなかったのか?カンネー前にパターン見てるはずなんですけどね。まあ、それだけローマという軍隊がカルタゴに比較してプロ化・専門化が進んでいなかったということなんでしょうけどね。

 ローマの大軍の前にギスコという将軍がなんという数だ…と漏らすと、あれだけいてもあの中にギスコと言う名の人間はいないんだぞ、というユーモアを交えて会話するところがいいですよね。人間ああいう決戦・本番の異常なテンションになって、必ず通常の精神状態でいられませんから、そういうことを言えるような人物でないと三軍の指揮なんてまず無理でしょうな~。ローマはこのハンニバルショックにおいて軍隊のプロ化、マリウス・スラに代表されるような常備軍に移行していくわけですねぇ。彼らは皆ハンニバルの軍制を徹底的に研究しパクったでしょうね。

第四章アレシアの戦い、カエサルガリア戦記における最大の戦い

 前章にあるようにローマは直接民主制、国民皆兵でも問題ない時代から、領土を広げるにつれそういう体制では運営できなくなる。個人の下で軍隊が培われ、そのコネ・パトロネージュを結んだ人的紐帯において軍隊・経済が動くようになる。帝政に向かう前に公的システムの私権による侵食が進んでいくわけですね。

 グラッスス兄弟の改革の失敗は公的システムに則ったルール上の正当性だけでやろうとしたことですね。それが失敗した以上、最早誰もルール上の正式な制度に則ってやろうとはしません。私領・私権の上で乗っ取らないと改革・制度変革できないわけですから、それを目指すわけです。この帰結こそ三頭政治であり、カエサルVSポンペイウスというわけですね。ポは東に、カは西において最高軍事指揮官として以下に経営手腕に優れているから、皇帝の座をめぐってローマ本国にアピール競争するという意味合いがありました。そのカエサルの戦いをまとめたものこそがガリア戦記ですね。

 アレクサンドロスの軍隊と比べると兵の種類に見劣りするが、砲兵や工兵、特にそのインフラに代表される工業力・建築技術による向上技術は注目すべきものがあった。そして操典・軍事マニュアルがあって、小さな大隊を自由に運用できた。マニュアルによる統一で常に豊富な戦力を補充できた平均化による数の利を生かしたのはローマにあっていた。

 ローマの侵攻によりガリアという一体感が生まれた。ウェルキンゲトリクスを中心として反ローマ戦争に踏み切る。フランスの国史で初めての国民的英雄とされる。彼は焦土作戦パルチザン襲撃を選択。強力な軍を持つ相手にはアレクサンドロス然り、ハンニバル然り、そしてこのカエサル然り、焦土作戦でゲリラ戦しかないだろう。

 焦土作戦で十分な兵站の確保もなく、いつ不意を突かれるかわからない、ある種のお化け屋敷状態の中で、時に反乱軍を叩き、時に拠点を制するために強行軍で、冬山を渡ったり、その行動自体一つの物語ですねぇ。事実は小説より奇なりですか。このような兵站の維持が難しい中でカエサルは反乱軍に対して、抵抗を見せしめに徹底的な街の破壊に、奴隷化・民族の消滅という手にさえ出ます。それほどギリギリの戦いなわけですねぇ。

 ちなみにカエサルマケドニアでの反乱側を許さずに徹底的に叩くというのは補給線を分断される、軍が的中での孤立を恐れるゆえに当然すぎる策なのですが、一昔前は何故かモンゴルだけあな恐ろしや!人殺し!ケダモノ!とむちゃくちゃいわれましたね?何故なんでしょうね?なぜなんだぜ?

 ウェルキンゲトリクスアクアリウムも焼き払おうとしましたが、他の部族に一番美しいここだけは止めてくれと泣きつかれてやむを得ずここを焼き払わなかった。結果、ここをカエサルに包囲されて苦戦するという事態に陥った。ウェルキンゲトリクスは当然解囲ではなく、相手補給路を攻める。結局ローマがこの要衝を手に入れることで、兵站基地を確保することになり、この時点で勝負はついたといえる。

 やるのならば徹底的に自分たちの領土を犠牲にしなくては勝てるはずがないのに、小利を惜しんで、大利を失うという事態になりました。ガリア戦記では部下は文句の一つも言わずに頑張ってくれたと書いてますが、実際は非難ブーブーの相当大変だったことでしょう。だからこそアクアリウムまで戦線を下げれば、十分補給路を断てて勝てるよ~。と見ていたんでしょうね。

 それも間違いではないでしょうが、結局たった27日で陥落させられるローマの攻城技術、システムの力を見れば、徹底的に最悪の事態を想定して、リスクを最大にとって賭けに出るべきだったのは言うまでもないでしょう。さらにウェルキンゲトリクスもガリア民族としてまだまだまとまりを抱けなかった、一体感が未成熟だったために強力な指導力が発揮できなかったという点に注目すべきでしょう。

 

 カエサルはゲルコヴィアの険阻な山脈での行軍に失敗し、ここで敗北を蒙る。これにより敵側に呼応する民族も現れ、一時ローマに引き返し、ガリア・トランサルビナの放棄まで考えなくてはならなくなった。ここにおいてウェルキンゲトリクスは一気に反攻に出る。筆者は戦略的勝利の前に何故、冒険に出たのか?と問うているが、彼の勝利目的・目標はローマ軍団の徹底的な損失にあったはず。

 というのもガリア民族をまとめた新しい国家を作るのが彼の目的のはずであるから、ローマという強国を叩いて、王・英雄としての神話を作ることが目的だから。その第一歩目としなくてはならないから、彼としてはローマを叩きに行くのが当たり前だったろう。さらには焦土作戦で相当国力を疲弊した。相手を叩いて五分の対等な国家関係に持ち込むためにはそこまでしないといけなかっただろう。敗北の退却路を狙うのは当然。

 しかしカエサルゲルマン民族の騎兵の巧みさに注目し、ローマの馬を与えて強いゲルマン騎兵をつくり、その場で使った。ゲルマンの馬が貧弱だったというが、のちの彼らの強い馬というのはどういう経緯で生まれたものであろうか?

 元に戻って、ガリア騎兵はこのゲルマン騎兵の前に返り討ちにあい、全滅という大敗北を喫して、アリシアに籠らざるを得なくなった。120メートルの幅を取って、15キロに及ぶ包囲戦を構築。城郭をこれほどまでに囲むのはローマでは初のケースだろうか?さぞ壮観だったことだろう。こういう戦報がローマにぞくぞく届くのだから人心掌握にどれだけ役立ったことか。今で言うメジャーのベースボールプレーヤーや海外で活躍するサッカーエリートみたいなもんですな。

 攻城戦の包囲軍対解囲軍というのはおもしろいですなぁ。両方共無駄な糧食を費やしたくないということで、ウェルキンゲトリクスは城内の人間を一人残さずだし、カエサルも奴隷でいいから受け入れて!という懇願を無視。記録にはないが全員戦死か餓死しただろう。囲まれた以上、城・包囲軍双方共補給はゼロ、短期決戦。特に包囲軍側は背後を突かれ、城からの突撃にも気を配らなくてはならない。こういう駆け引きがほんとうに面白い。

 優れたローマの防御施設の前に解囲軍は蹴散らされ、アリシア包囲網の中に北西の丘があり、これを全部囲んだ包囲線を構築するのは困難なため、二個軍団を配置するだけだった。この隙をついて解囲軍ウェルキンゲトリクスの親戚ウェルカッシウスウエッラウヌスがこれを衝く。ガリア側は予備兵力を展開して、ここの援軍が行けないように他の軍を貼り付け。将軍ラビネヌスを向かわせて、ここを支えさせる。戦局が安定したのを見たカエサルは他の丘に予備を率いていく。これに釣られたガリア側が陣形を崩して惹きつけられ、その背後に騎兵を回りこませ、散々に叩いた。

 解囲軍の全滅で勝負は決した。ウェルキンゲトリクスは自分を殺すか捕虜のまま引き渡すか決めさせ、カエサルの前に裸になってひざまづいた。六年後カエサルのローマ凱旋式の際に処刑。ガリアを以後忠実な勢力基盤としたカエサルの雄飛を決定づけた戦いであった。

五章匈奴遠征記

 マケドニア二つで、ローマ二つ。残りの三つは中国の話し三つになります。

 ローマ・漢双方とも人口は六千万ほど。匈奴は百~二百万にすぎない。結局この人口差=国力差で敗れるわけですね。中原が統一されて組織的にこの人口力を運用すれば当然の話しですね。

 重装歩兵が軽装歩兵の弩をガード。攻囲戦や歩兵戦では有効でも、匈奴の合成弓にかなわず、運動戦・遭遇戦での不利は明白。みんな兵士のようなものだから人が少なくとも十万人の兵士がいる。彼らの強さはその機動力にある。兵站を必要としない、草あればそれだけで家畜から食料を取れるから、兵站で苦しむことがない。家畜が肥える秋から冬にかけて略奪を行った。

 ローマのパルティアとの戦いにおけるように砂漠、草原での戦いは攻防ともに機動力を重視する。そして刻々代わる戦況に対する判断の柔軟性、指揮官の創造力と独断専行である。

 まず長城の外での敗北の苦い経験を持つ漢軍は敵を引き寄せてだまし討ちにして、その隙に背後の補給源である家畜を奪うという作戦を立てたが、感づかれて失敗。河東・山西の要地馬邑で行われたため、馬邑の役という。

 そういえば衛青下級官吏と女奴隷の私生児で母方の姓を名乗っている=つまりは子どもとして父方から承認されなかったわけだ。それでも母方の姓でずっといるってのはすごいなぁ。多分そういうバックボーンのなさ、奴隷出自というのがあったからこそ武帝に後腐れないから重用されたのだろうけど。本人もそれをわかっていたからこそ慎重に行動してたっぽいしね。軍権握った将軍は皇帝に絶対警戒されるから。他にも少なくとも衛青のような将軍・指揮官候補が十人以上はいたでしょうね。そこから彼がピックアップされたってことで。

 李広や公孫敖といった古い将軍が前129年の遠征で敗れたのに対し、衛青が部族長の集会・祭祀に使われる籠城を襲撃する成果を出した。旧戦術と新戦術の効果の違いが明らかになった瞬間であった。

 続く匈奴の報復戦、痛み分けといっていい。略奪もしたが、衛青に数千を捕斬される。人口の少ない匈奴にとっては痛いこと。【そもそも規模が違うのだから、漢にとってはこのような相打ちで良い。相打ちで敵の人口を減らしていけば、こちらの損害が大きくてもいずれ相手は国家としての体をなせなくなる。一時的に漢の国力が低下するのを我慢すればいい。無論、だからといってその痛みを伴う決断をするしないとは別の話であり、程度の問題もあって、こちら側も百万近い損害を容認できるはずもないが。】

 前127の遠征では最大の成果を上げる。失われていた河西・オルドスを奪還する。豊かな草原地帯であり遊牧帝国にとって不可欠な地。衛青ははじめから敵を撃つことではなく、後背・補給を断つことを目的としていた。人的被害は数千とそれほどでもないが、家畜百万頭を奪い、匈奴はここを放棄せざるを得なくなった。漢の初めての決定的な勝利といえる。単于の死で内部分裂が起こったのも大きかった。

 【そういや、朔方を拠点に河西の防衛線などを整理するのだけども、この時同時に河東の上谷の突出部を整理して縮小している。ここが突出していたのってなんだろうね?】

 前126夏から新単于の権力掌握のための大反攻、さらに河西方面の責任者の右賢王の猛反撃が続いた。この右賢王を叩いて支配を安定化させるのが前124の遠征の目的であった。朔方から高闕を出て、右賢王の本営を300キロに渡って夜襲。これを全く想定しなかった右賢王は僅かな手勢と妻一人だけで逃げるという有様。さらに100キロ以上に渡って追撃したが捉えることはできなかった。それでも部族長10余名に家族含む匈奴兵1万5千近い数が降服し、家畜は数十万~百万を得た。こうして目的は達成された。

 先の失敗によって平民に落とされていた公孫敖などが従軍していて、戦功により名誉回復がされたのが面白いところ。もともと恩人だから当然だが、旧軍を自己の戦術に合うように作り替えただろう、そのプロセス自分の手足にしていくところを考えると面白いところ。

 前123春今度は定襄から、おそらく西を抑えたことで前線を正面から押し上げようってところでしょうかね。【この戦いで趙信という匈奴側の投降将軍が更に寝返ってしまいます。まあ殺されるよりかってところでしょうかね?情勢見ると漢のほうが有利ですからなんで裏切るのかなぁ?という感じ。漢が勝利を得たあとは、異民族出身の自分の居場所はなくなるってことなのかしら?】

 この戦いでは霍去病が参戦したという記念すべき戦いでもありました。あ、結果は衛青の本隊が1万の捕斬という戦績を上げますが、上述の3000の離反があるので微妙なところですね。戦術的な勝利でも、物資・戦費を考えると戦略的には敗退と筆者も書いてます。霍去病は武帝孫子なんて今の時代に合わないから必要無いですといったり、兵が飢えていても蹴鞠して遊んでいたり、李広の息子が逆恨み(?)して父が自決したのを衛青の指揮のせいだと殴ったのを、衛青自身は不問にしても、狩猟にかこつけて殺したり、生まれが身分高い地位からスタートしたのが衛青と真逆の性格ですね。指揮官として勲功残せなかったらボロクソ言われたことでしょう。

 前121、河東は不利と見たか、再び西に移す。ここから霍去病のターン。共同作戦で敵の背後を衝く。居延から酒泉までぐる~っと敵の奥地に回って背後から叩きます。いつも逃げられるから、それなら背後から叩けよという理屈はわかっても敵地で進軍するなんて!というびっくりプレーですね。公孫敖が道を失い共同作戦が不可能になってもそのまま進む。

 匈奴側は東側の攻撃は予想していても西は想定外、戦闘というより虐殺となった。三万人が捕斬、二つの部族が粉砕された。彼の軍には異民族軽騎兵が相当混じっていたと思われる。補給部隊を捨てて、騎兵だけで乗り込むのは、匈奴以上の機動力を備えた。匈奴が平原での生活に特化した民族であり、軍隊であったのに対し、霍去病は平原に特化した軍隊であった。よりプロ化したものが勝つということですね。機動力において負ければもう彼らはどうしようもなかったでしょう。

 前119、最後の戦い。西・右賢王を叩いても、匈奴本隊・左賢王の部隊が未だ健在であった。この時点で戦費の負担も重なっており、この戦いで相手の戦力の基盤を粉砕しておきたいところ。バイカル湖まで進出して徹底的に追撃。損失三割という被害を出しながらも、捕斬7万という戦果で匈奴帝国の瓦解に決定的な楔を打ち込んだ。

 武帝の晩年について否定的な表現をしているけども、この対匈奴戦争で帝国が軍事国家として頂点を極め、その軍事の必要性がなくなるという一大事大転換があった。軍人たちが残り続けて武帝が死ねば待っているのは混乱。粛清でその当時の将軍たちを排除しようとするのは別に取り立ておかしいことではないのだが…。

六章漢中争奪戦

 というわけで、この章のためにこの本を読んでいるわけですが、そんなに内容濃くなるわけでもないという(^ ^;)。

 戦争は個人の武力・知力でなく、戦略と兵站で決まる。官渡で背後を突かれて袁紹軍がたちまち崩壊した(おそらく、誤り)。赤壁では逆に補給上集積できず、長江沿いに兵力を分散させたところを急襲され、水軍を撃滅され、危うく生還路を絶たれるところだった。

 劉璋救援のために211年蜀に入って、有力豪族が見限って急速に孤立とあるけどもどうかなぁ?3年かかってしまったのを急速といえるかしらん?まあ多分そういう意味で急速って使ったんじゃないんだろうけども。あと曹操軍の強さの秘密は彼自身のシステムにあって、~~兵にはないといえる。青州兵とか別に大した働きはしてないしね。涼州兵は騎兵のことをさしているのかな?多分異民族騎兵だろうけどね。

 そういや曹操の戦略内においては漢から魏への制度移行、外においては領土拡大はリンクしている。戦略的歩調を備えているわけだけども、益州攻めはそれが完成すればあっという間に統一達成!というやつだからその一過程だったかな?涼州を討つと言わずに益州を討つと言った。そして結局馬超らとの戦争になり、荊州ではどうだったかな?劉表討つって言ったっけ?んで孫呉に向かってるんだよね。ココらへんに何か似たようなものでもあるのか?

 曹操の法家的合理性に基づいたシステム対抗できたのは諸葛亮ただ一人というけども、呉ではそのようなシステムはなかったのか?気になるのはどうして諸葛亮にそういう法家的な合理運営が出来たのかということ。諸葛亮に法家的な背景があったというのもまた何か琅邪的なつながりに基づくものなのかな?

 うーん、場面状況展開が一つ一つスリリングに展開されていておもしろいなぁ~。ふむふむと状況・時間を追いながら当時の情勢がわかる。もちろん史料上の制約があって、事実関係がはっきりしない所も多いんだけど。三国志的な人間には是非参考にして欲しい書き方ですなぁ。上手い書き方だ。まあそれはここだけじゃなく、全文読んできてもそう感じるんですけどね。

 定軍山の戦いで夏侯淵死んだ時点で漢中はもう失陥してたのかな?定軍山の劉備に対し、漢中入ったかと思ったら陽平関で曹操は対峙したのか。最短ルートで漢中目指したら、最悪漢中が落とされていたら、ただ引き返すしかなく危険な追撃戦になるからなぁ。そうか陽平関なのか。

 夏侯淵張郃の用兵の問題というより、山岳戦術が得意な蜀の兵。ほとんどホームグラウンドに近い彼らの地の利が生きたんだと思うんですよね。実際武都での張飛馬超軍は曹洪に蹴散らされてますし、そこら辺の普通の白兵戦なら問題なかった。だけど特殊な山岳戦だとその力を発揮できなかったってことだと思いますね。

 ※そういや夏侯淵が拠点を死守できずに打たれてしまって、漢中を失陥したっていう状況は馬謖のそれと瓜二つだなぁ。

 南陽の反乱が落ち着いて、ひとまず安心というところで漢中に曹操の本隊が向かうわけですが、陽平関入って、そこから劉備に出てこい!と言っても劉備が出てくるはずもなく、時間と資源を無駄にするだけになって撤退を決めましたからね。ただでさえ兵站が伸びきって大変ですし。そういう背景を考えると劉備が長々補給線を伸ばしていきなり長安に出るより、誘導部隊を5千くらい寡兵を差し向けといて、漢中の安定を図りつつ、漢水を降って関羽の襄陽攻めを支援して、万一漢中を留守を狙って攻めてくる。釣り上げられたら、それを軍を返して漢中で叩くってのが妥当な戦略じゃないでしょうか?

 一連の諸葛亮の戦争によって戦争に勝つ戦略が、後年戦闘で戦争に負けない彼の苦渋苦心とはまるで異なる戦略の華やかさだったというのも頷ける話ですね。でも漢中攻めって諸葛亮の指揮なのか?

第七章襄樊包囲戦

 南宋とモンゴルの話、そんなに書くことありませんが、一応。

 またしても懲りずにモンゴルとの約束を破って、洛陽や開封といった都市を掠め取って怒られて、大侵攻を食らう。面白いのは簡単にモンゴル軍に蹴散らされて、一時期襄陽も開城して勢力範囲に入ったんですねぇ。この勢いでさっさと決着しなかったのが面白いところ。

 点と線を巡る戦いと違って、面を巡る戦いでは数がモノを言う。孟珙の働きもあって、ホームグラウンドでモンゴル軍を蹴散らし、襄陽も取り戻す。モンゴル側には入念な準備・計画が足りなかった。オゴダイやムンケが失敗したのに対し、河北の反乱鎮圧・補給都市の整備など、入念なプラン・ビジョンを持っていた、その重要性を知っていたフビライが、クーデター気味に次期大ハーンとなったのも関係ない話ではないですね。

 南宋フビライ・ハーンを作ったってやつですね。大河にそってぐる~っと要塞線を整備するやり方はクラウゼヴィッツが批判したコルドン方式です。これによって守る方も制約されるため、主導権は相手側にある。どこか一点でも弱いところを破られればおしまいになる。フランスのマジノ線や日本の太平洋防衛線がそう。史天沢(金)や劉整(南宋)といった帰参を中枢においたのが大きい。勝負を決めたのは回回砲、優れた西アジアの技術の導入だし。ココらへんの件はスレイマンのコンスタンティノープル攻城戦を連想する話ですね。

 強襲か攻囲しかないわけですが、当然後者を選びます。ゴリ押しして落とせるならとっくに落ちてますからね。まあ、六年も保ったんだから大したもんですよね。そりゃ大したもんですよ(By長州力)。水陸二面の性質を持ちますから、両方から援助できますからね。それを完璧に絶たないといけないという難しさがありますしね。

 このコルドン・哨線は複雑な組織を形成しているため、柔軟に動けない。まあ、そもそも想定していなかった。後方から支援をするときに、どこから予備兵力を持っていくかめどが立たなかった。それでもこれだけ保ったということは、やはり南宋という国家の長期政権の由来なんでしょうね。本質は攻囲を解けない、救援軍を出せなかったところにあると個人的には思います。

 後に日本にも来る范文虎の救援軍も簡単に蹴散らされてますからね。指揮官呂文煥は良く六年も耐えたもんですね。樊が砲撃で一部城壁を崩されて、とうとう強襲でおとされてしまいましたが、その後治安回復と再編に時間を費やして、襄陽攻め。大砲を想定していない城壁で、どうやってそっから4ヶ月も持たせたのか?不思議だなぁ。まだ全壊出来るほどの破壊力ではなかったってことかな?

 筆者は攻めにしても守りにしても、受動的じゃダメなんだ。能動的に動けるようじゃなきゃ。と結論づけていますが、やはり当時そういう想定してませんからね、する必要がなかったということ。

 それに当時南宋の国家形態の変化に注目すべきでしょうね。宋という国家から300年くらいそういう軍事国家・軍事主導を絶対許さないシステムがあって、それでもやはり後半になればなるほど、軍人が台頭せざるを得なかった。岳飛然り、北人・南人対立然り。巨大になればなるほど、システムを柔軟に変革させることは難しい、まして古代・中世国家においておや。モンゴルに六年保ったことから分かるように、それ以上の強力な軍隊を想定できなかったのでしょう。それも時代の必然と己は考えます。