『マックス・ウェーバーの犯罪』及び羽入辰郎批判の前書き、学問の基本の話
マックス・ヴェーバーの犯罪/羽入辰郎についての前に書いた導入部分。インポートされていなかったので持ってきました。カテゴリに合うものがないので、同じ学問ということで国際政治学カテゴリにいれました。うーん、強引(笑)。以下、この奇書・陰謀論とでも言うべき本について論じた前提、学問とは~という話ですね。
学問とは何か―『マックス・ヴェーバーの犯罪』その後 (MINERVA人文・社会科学叢書)
- 作者: 羽入辰郎
- 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
- 発売日: 2008/07/01
- メディア: 単行本
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フォローワーさんが面白いって言ってた羽入サンの本、これなんですが、まあ、なんというかつまらないという記憶しか残ってなかったんですよね。数年くらい前に読んで、なんだこりゃ?と放り投げたことしか残っていない。
目次読んで、はじめにとおわりにを読んで「あれ?なにこれ?」止まりだから飛ばしたんだろうと思います。んで、まあなんだかんだ言うので、読んでみた。もしかしたら己が誤読していた、読み誤っていたところがあるのかもしれないので。
で、やっぱりつまらなかったというか、そもそも論文として完成されていない。問題意識が浅いというか、よくわからないというか、根本的なところを勘違いしている人なんだろうなという感じでした。
んで、ちょっとこれについて面白いことがあったので、書いてみようと。本書の内容とは関係のないところで興味深いことがわかったんでね~。内容よりも背景ですね。どうしてこういうことが起こってしまうかという。そういうところに日本の学問の問題点があるんだろうというね。
この本つまらないって言うから、論文として成立してないですよって言ったら、フォロワーさんがキレてしまいまして。まあそんなにたいしたことはつぶやいてないんですけど、それにしてもあなたがそんなことをおっしゃるとは!という信用すらなかったのかね、今までのやり取りの中から。
ツイッター見て思うのは、議論というより基本的言論ルールが浸透していないなぁということ。論と理を交わす上でルールがない人が殆どだなぁというか、かなり多いなぁということですかね(まあ、今更何をか言わんやですが)。昔院生さんに、この意見はおかしくないですか?って質問したことがある。それはもちろん己が間違ってたんだけど。
その人にしてみると、何を言ってるんだこいつはと感じたと思うのよ。素人が専門家にくだらない意見言いやがってと感じたはずなのよ。でもこれは拙意見ですからおかしいと思ったらどんどん否定してください―と基本的な態度ができていたのよね。今考えると己がなんであんな事言ったか恥ずかしいんだけど。
そういえばツイッターで、ああ、この人すごいなぁという人がいた。その人は知識は凄かったが、学問に対する偏見と基本的態度がなかったなぁ…。会話が成り立たないんですよね。意見が一致するときは全く問題ないんだけど、意見が相違したときはもう全然人の話を聞かないのよね。
別にこっちの意見に賛同しろなんて全く言わないし、思わないんだけど。こっちの言いたいことを理解しよう・汲み取ろうというのが全くなかったんですよね。相手がいるものだという前提や常識がなくて、一方的に自己主張を投げつけてくるんですよね。相手と論争をスムーズにするのに、一言「あなたがおっしゃってるのはこれこれこういうことですか、なるほど~しかし…」とやるだけでスムーズに会話が運ぶのに、自分の意見と違うと全く受け入れない。よっぽど自分の理性に自信があるんだろうなぁ…。
自然科学ならともかく、人文科学に正解はないのだから、答えは二つも三つも四つもある。時にはAとB相反する・矛盾するものが同時に正解になったりもする。そこが人文科学の面白いところだと思うのだけど、どうもそういう基本的なことを知らないようで話が噛み合わなかったね。
自分と意見の異なる場合、どういうマナーを取るべきか。そういう常識をわきまえている人は日本にどれくらいいるんだろうなぁ…?正直それがない人と意見を交わすのは本当に疲れる…。ネットで意見をめぐって戦争しているような人たちは、それを一種のサバゲーのように楽しんでるんだろうけどね。
ああ、そうそう、「ネットでペラペラ調べて、反論してるだけ」って言われたんですけど、ネットで調べて相手の意見を否定したことって今までないなぁ。*1まあ、そういうこと自体普段やりませんからねぇ。相手と意見が違うときにいちいち違うよ~なんて調べて話すなんてしませんし。そもそも学術のことをネットでやる人っているのか…?学者同士ならそれでいいけど、特に素人が学術のことネットであーだこーだやってるのかしらん?この人ネットで批判されてるのかしら?まあどうでもいいんだけど。
しかし今更、ウェーバーとか誰得だな(笑)。これ書いて需要あるかしら?ちなみに学問の世界だとみな、先人を乗り越えるためにやっているから、論理的瑕疵や批判というのは、その人の理論を覆すということにつながるから、普通喜ぶものだと思うんだけれどもね。どうなんだろ?それって基本だと思うのだが、己なんか批判はwktkなんですが。
批判wktkと言っても別にドM宣言ではないぞよ(笑)。己なんか中国結構やってるので、小室直樹の中国原論なんか20くらいここがおかしいと言えるんですよね。もちろんそういう意味ではないが~というものだけど。むしろ50年、100年後に批判されなかった学者なんか居ないと思いますしね。
批判されない学者がいるとしたら、それは全く無価値・見当違いの研究をした場合のみ、論ずる価値もないってわけで。批判される=学者としての優秀度ですわね。マルクスだってウェーバーだって、その他センセーショナルな業績を残してきた泰斗はたいてい批判を巻き起こしますからね。そもそもウェーバーのモデル・学問的基礎はともかく、プロ倫のテーマはもう根底が変わっちゃったから、あれをやる人誰も居ないと思うんですが。
歴史研究で大抵既存の研究・延長上に乗っかって、狭い範囲を淡々とやってる人って、既存の思い込みに対する新しい視点で切り込んでいくっていう発想がないからつまらないですよね。前人の誤りを踏襲するというか。研究のツボはいかにそういう思い込みを打破するか!ってことに尽きると思うんですけどね。
無論、しっかり既存研究・発表を理解していなければ話にならないんだけども、それを踏まえた上でじゃあこれはどうなるんだろう?と面白いことをいえる人が本当に少ないですね。こういうテーマがあるんだから、応用したらいくらでも面白いこと言えるじゃん、ここ研究しなよといつも思う。
うーん、今の史学者ってどうなんだろ?資本論とかちゃんと読んでるのかな?社会学者はそれこそ一応読むとは思うんだが、史学者だと読まないのかしらん?
【学問について】
学問云々カンヌンについて。学問をやる際まず「手順」というものが問題になる。論文を書く際に、テーマを選ぶ・決める。何を書くかということは非常に重要。正直、良い論文というものは読む前にタイトル、問題意識でわかってしまう。本だって最初の数ページでもう良いか悪いか分かるものだ。
有名な『本を読む本』なんて言うものがあるように、最初と最後から本というのは書かれるものだ。本にも手順がある。筆者の意図を最大限示すのがこの最初と最後、ここがしっかりしていないで面白い本などありえない。面白い物語が理路整然としたストーリー展開があるのと同じだ。
例えばハイデガーが存在と時間でテーマ設定をこれまでの存在論―いかにして、どのように人は存在するか・世界はあるのかといった問題設定から、ではそもそも、ある・存在するということはどういうことなのか?と存在自体に焦点を移して大成功したようにテーマ設定で9割は決まる。ダメテーマに良書なし。
テーマ設定、すなわちこれまでの問題意識を引き継いで、では私はこの分野をこの観点から扱ってみる~。それによって~ということが明らかになると思う。―というのが大体の王道パターンだ。こういうテーマ設定は既存大家の問題意識を継承して発展させるものだから、まあそんなに面白くない。
面白く無いというか、だいたい落ち着きどころが決まっている。ああ、やっぱりそういうことなのねという終着点がわかっているから、可もなく不可もなくということになりやすい(もちろん、重要なテーマ・大きな話をする上での地ならし、書きたい論文を書く前の既存研究の整理という意味合いで書いたものはその後の研究につながっていきますから有意義ですね、言うまでもなく。まあいちいちそんな事言わなくてもわかると思いますけど)。面白い論文というのは切り込み方が違う。なるほど、確かにそういう考え方があったなぁ!という視点を持っている。
面白い論文が取るのはこれまでの認識・通論では~となって、しかしこのケースはどうだろうか?と既存理解の修正・変更を迫るものである。既存論理に当てはまらない材料を見つけてきて、この論は成立しないのではないか?とやるものだ。しかしそういうものには見当外れも少なくない。
批判をする際、既存論理をひっくり返すのに、何でもかんでもただ否定・アヤをつければいいというわけではない。その説の要点をきちんと抑えて、ここを覆しさえすれば、ロジックがひっくり返る・通用しなくなるというツボを押さえていないと意味が無い。そもそも論文が書けないというべきか…。
要するに持って行き方があるということ、パターンがあるということ。当たり前の手順が存在する。取るべき当たり前のステップを踏まなかったら、論文だって学説だってなんだって成立し得ないということである。どうも最近そういう当たり前の常識を知らない人が多いようだ。
学問の世界というか、大学なら院生はもちろん学部生でもまず徹底的に「本を読む」ということを教わるはずであるが、大学によってはそういう学問・学術の基本を教えないところがあるのだろうか?大学が学問の基本を教えないという日本の教育はどうなってるんだろう…?
学部にもよるのだろうか?史学や心理学など専門が限定されるような部類だと徹底して古典を読め!という基本を、そしてそれ以前に本がどういう論理で構成・組み立てられているかということを徹底的に分解し咀嚼するロジック分析のようなことをしないのだろうか?社会学でも専門化が進んでいるくらいだし。
とにかく基本は古典を読むということ、これまでいったいどういうことが論じられていて、学説がどういう流れになっているか、それをしっかり抑えておかないと、論じることなど到底不可能。その上で方法論の話になる。どういう切り込み方・アプローチをするかという話になる。
そういうのをちゃんと踏まえていないと有意義なものは書けませんよという。まあ知っている人にとっては当たり前すぎることなのですが、その当たり前のことが博士・大学院出ている人でもできていない。あるいはしっかり煮詰めていないということが往々にしてあるというわけで…。最初に書いたとおり、続きます→マックス・ヴェーバーの犯罪/羽入辰郎について