てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

羽入辰郎著 『マックス・ヴェーバーの犯罪』という珍説・陰謀論について

 で、続きです。前回(『マックス・ウェーバーの犯罪』及び羽入辰郎批判の前書き、学問の基本の話 )は回りくどい事書いてますから、それすっ飛ばしてここを読んでも言いたいことは伝わるように分けました。この本を以前読んだ時、どうしてこりゃあかんわとポイ捨てしたか、再び読んで思い出しました。
 
 論じていることはともかく、結論が最悪だからですね。最初と最後読んでまず読むに値する本なのかチェックしますが、その最後がまず読むに値しないから黒ヤギさんたら読まずに捨てた状態になったんですねこれ。
 
 だって、結論がウェーバーが犯罪・詐術を行ったという珍論ですからね。そりゃ読むわけ無いですよ、こんなの学問として成立しませんよ。
 
 本に溺れたいさんの記事の中に梅津順一さんという人のこの羽入さんの論に対するコメントのペーパーがあったので読んでみましたが、己もこの梅津さんの見解が正しいというか、納得できるものだと思います。
 
 梅津氏は「羽入氏の研究は,ヴェーバー批判という枠組みから離れて、『聖書翻訳と職業義務の思想の成立』という主題で纏められるのであれば,大きな学問的寄与となるであろう。」と述べています。ウェーバー犯罪者論を持ちださなければ、普通になるほど~と評価されたと思います。*1
 
 この論文の未熟というか未成立な点は犯罪者とか詐術とか荒唐無稽な主張をすることを脇に置くと、そっから先がないという点なんですね。ウェーバーテーゼが崩れるとしましょう。では、どうすれば成立するのか?普通に羽入補説・補強というものを書いて、であるからしてこうこうこうなら、ウェーバー説は成立しますから、今後ウェーバーを教えるときはこういう誤りがあるので、こういう補足をするように―。というまとめであれば、その可否はともかく論文として成立するわけです。
 
 あるいは、プロ倫は論文として根底から成立しないと、それでも論文の形式としてはそれでいいわけです。ところがそういう普通の形式で書かれていない。読み手としてはそっから先を知りたいのに、え、これで終わり?と少年ジャンプの打ち切り並みに途中で打ち切られているわけです。そりゃ論文として成立しませんね(おそらく、本人としては嘘を付いている、資料操作をしているそれだけを主張すれば論文として成立していると勘違いしているからこういう形式で提出をしてしまっているんでしょうけどね…)。
 
 己はこの人の本をまともに読んでいませんから、ドイツ語の知識もありませんし、梅津氏が言うようなことが妥当であるかどうかの判断もできません。この羽入論文が誤りであるとかどうかはわかりません。ひょっとしたらあっているかもしれません。しかし一つだけ確実に言えるのは、こういう学者としてやっていけないことを平気でやる時点でまずおかしいだろうなということです。
 
 あと、羽入氏や折原さんみたいにその可否を繰り返し論じている人がアマチュアでもいるようなんですけど、それが正しいかどうかなんてまず普通の人にはわからないでしょう。学会の人でもドイツの昔の聖書を原典で読める人ってそうはいないでしょうし。結構、羽入氏の言っていることに賛同する人がいるみたいですが、何を根拠にそう判断しているんでしょうかね?不思議ですね。昔のドイツ語や古ヘブライ語及び文字を読める人間でないと、そもそも羽入が言っていることが正しいかどうか自体わからないはずなのに、何を以ってして正しいという判断を下しているのでしょうね?検証せずにどうやって羽入が正しいと判断しているんでしょうか…?
 そもそも判断を下すには、原典にあたって参照する必要がある。そういうことをしないと判断できない。故に最終的な結論は留保する。そういう最低限の当たり前のリテラシーがないからこそ、こういう珍説に平気で賛同してしまうのでしょうけどね…。
 前回くどくど書いたように、普通の人はまずプロ倫を解説なしで読めないですよ。この羽入さんが明らかにプロ倫読めていないだろうでしょうし。本の読み方というもの、一般の人はまず知らないでしょうしね。一回読んだだけでウェーバーが言ったことを理解するなんてまず不可能です。ウェーバーをまともに読めない人間が、本をまともに読む訓練を受けていない人間が、羽入のようなウェーバーは資料操作をした!なんていう珍説に賛同するのはちゃんちゃらおかしい。というか、まともに本を読めないからこそ、こういう珍説に賛同してしまう。正しいと思ってしまうんでしょうけどね。
 
 無論、ウェーバーが犯罪者・資料操作をして自分の都合のいいようにでっち上げたという可能性を否定は出来ませんよ。しかしそういったこれまでの学術の根底を平気でひっくり返してしまうようなことをさらっと言ってしまう時点で、もうこれはちょとおかしいぞと言わざるをえないんですよね。
 
 例えば、この方が、キリスト教とかルター時代の社会や歴史を研究した。そういう研究者であって。副次的におや?これウェーバーが言っていたことは違うなぁ?どうもおかしいぞ?という発見をして、結果的にウェーバーが言っていることはどうも事実と違うのではないか?この部分に論理的整合性が取れない箇所があるのではないのか?という小さい発見を積み重ねていった結果なら話はわかるのですよ。
 
 そうじゃなくて、この人はウェーバーがまずおかしい!こんなヤツは間違いをして当然だ!みたいな変な思い込みからスタートをしているわけですね。そういうことを本の冒頭で平気で書いてしまう時点でオイオイと思わざるをえないわけですよ。批判をするときに一番怖いのは、この筆者はバイアスがかかっている。偏見で予断に満ちた書き方をする人間だと捉えられてしまうこと。読み手にそう捉えられたら全て台無しになりますから、ペーパーを書く人間はそういうことを徹底的に嫌って排除するのが常識なのですが、どうもそういう常識をわきまえてないようですからねぇ…。そういうフォーマットがなってない時点でもうかなり怪しいと判断せざるをえないですね。
 
 そういう常識がどうもない。何か専門が他にあって、この視点から研究をしていたら私の本領・専門とは関係ないんだけど、私から言わせるとこれは間違いなんじゃないの?と提案する。そういう形なら話がわかるんですが…。初めから結論がウェーバーがおかしい!ですからねぇ…。
 
 例えば、己なんかは霊帝董卓はまともな人物。当時の時代背景から、ごくまっとうなことをしたにすぎない。そんなことは当たり前じゃないか。と、そういうことをずっと述べてきましたけど、そういう主張を単純な社会学的・歴史学的法則=王朝末期の改革に失敗したものは悪く歴史に記される―ということから逆算して導いているわけですね。そういった単なる推論と、石井仁氏のような史料能力がある専門家、実証的に徹底的に史料を読み込んだ結果、どうもそうらしいと主張をするのでは説得力がまるで違うわけです。
 
 石井先生は別に霊帝こそ!歪んだ思い込みを正してやる!なんてスタート地点ではなく、ただ淡々と研究を進めていった結果、副次的にどうもそうらしいという発見があくまでおまけ的に出てきたわけです。別にそんなに氏にとって強調すべきことでもないでしょう。霊帝様ばんざい!とか霊帝死ね!とか、変に偏った人間でないからこそ、その発見・主張に説得力があるわけです。
 
 己だって、別に何が何でも霊帝様こそ!とか変な主張をするつもりは微塵もありませんし、よく研究したらなんだ霊帝ミスしまくりじゃん。やっぱダメだなこいつ―でも特に問題はないわけです。論と理をただ、淡々と並べその主張の可否を検討することこそ重要ですから。
 
 問題なのは霊帝こそが正しい!何、貴様霊帝様に逆らうというのか!みたいな主張をすると、初めっから目的のために後付で論理構成をすることになってしまう、手段と目的が逆転してしまう間違いになってしまいますから。最初に答えを設定して、その答えに合うように都合のいいように史料を弄ったり、論理を展開してしまうのでは学問にならないわけです。
 
 ところが、

支配と服従の倫理学

支配と服従の倫理学

 

なんていう本を出しているようで、これを見るといかに学問というものが権威というものに支配されているか、そしてその権威に盲従するようになっているかということを説いているわけですね…。つまり学問の世界でも一旦権威が確立すると批判能力をなくして、大家の説にへへ~っと盲従するのだと…。あのさぁ、それどうみても結論先ありきでしょ?(´-ω-`)
 
 権威に盲信する、ブランドにひれ伏してころっと騙される→だからダメなんだ!→ウェーバーという大家がいるけど、そんなやつは自分の都合のいいように、平気で資料を操るクソ野郎だ→しかし誰も指摘できなかった&権威に騙されたから誰もこんな簡単なこと(?)が出来なかったんだ!と。もう、本末転倒もいいとこでしょ…。この人の中ではウェーバーは先に資料操作をするダメ人間という結論が先にありきで研究を進めているでしょう…。
 
 こんなの論文・学者として失格に決まってるでしょう。学界・学問の問題を指摘したい→そのために権威であるがゆえに、大学者という思い込みがあるがゆえに間違っているのに、指摘もなされずに通用しているという証拠・実証がほしい→そのターゲットとしてウェーバーを選んだ&プロ倫の資料操作という論文を書いたという展開が透けて見えてしまう。最初に、「これは凄い!」とアイデアを思いついて、そこから突っ走って論文を書いてしまう人がいる。そこで一歩立ち止まって、「待てよ?これ本当に正しいのか」と、ちゃんと成立するかどうか検証したかどうかは読み手によく分かるもの。典型的な暴走論文・論者ですよね、これ。
 
 普通に、どうもウェーバーの史料の読み方・使い方は誤りがある。これはこういうことではないのか?とただ提唱するだけなら、評価されたんじゃないでしょうかね?梅津氏がコメントしているように「張り子のウェーバー像」に間違いだ!と云々カンヌン述べて、悦に入っているとしか思えないのですよね。勝手に虚像を作り上げて、勝手にその誤りを批判して得意げになっているようにしか見えない。
 
 大学者の論理・通説を覆した!学問・学界に存在する歪んだ構造・論理を解き明かした!!と自分の主張・学説に酔っているだけでしょう。大発見をした偉大な自分に自己陶酔をしているだけですね、これ。
 
 要するにウェーバーが都合のいいように資料操作をしたクソ野郎だと言っているが、その前にウェーバーが何を主張しているのか、そもそもそれ自体を読み取れていない。この羽入氏こそ自分にとって都合のいい「資料操作を平気でするウェーバー」という虚像を勝手に作り上げて、自分の主張に極めて便利になるように批判しているだけだと思いますね。
 
 巨像に良いように操られる学者(笑)を否定したいようですが、虚像を勝手に設定して、その虚像を蹴散らして我こそが英雄なり!と主張するさまはどこかのドンキホーテにしか思えません。
 
 己が疑問に思ったのは、まずウェーバーのプロ倫のまとめをしていないこと。ウェーバーはこれこれこういうことを述べたと。そういうまとめをして、次にではこの資料解釈が誤りなら、ここの部分は成立しなくなってしまうとか、破綻してしまう。ウェーバーとしてはこの部分が誤りであり、論理を成立させるならこうこうこういう推論・立論をしなければならないだろうとか。そういう提案がないこと。
 
 部分的にはい、これが違う、これも違うでは意味が無い。部分は全体とリンクしていて、全体・部分およびそのリンクが正確に理解されてはじめてまっとうな批判ができる。全体の正確な理解があって、そのつながり・論理構成の内、決定的なロジックが成立しなくなるから、論理が破綻するとはじめて主張できるのであって、そのポイントがあやふやなままスタートしたら批判がぐちゃぐちゃになってしまう。
 
 普通批判をするときにテーゼ・主張がそもそも成立しない、リジェクトなのか。それともそれはあっていて成立するけど、1・2・3章のうち、2章のAの部分が正確ではないとか、2章と3章の整合性が~とか全体の構成の話をする。ところが、そういう話が出てこない。まず、ウェーバーは資料操作をした!だからインチキ!という結論ありきだから。
 
 この人は全体の主張については触れないとか本末転倒なことを主張していますが、全体の主張に触れなかったら、じゃあ何のための批判なのよ?としか言いようがないですよね。そうしなかったらそもそも批判として成立しないでしょ?と。なのに最後のおわりにで、これによってウェーバーテーゼは崩れたとか、ウェーバーの主張は成立しないとか言い出すのですからね。何を言っているんでしょうね。それこそ当たり前の論理を無視して、自分の都合の良い所だけ好きな時に好きなようにかいつまんでくるという「犯罪」でしょう(笑)。ウェーバーが資料操作をしたと言うなら、この人は論理操作(笑)をしているわけですからね。
 
 あとBerufと書いてないから成立しないとか分けのわからないことを主張していますよね。書いてないから成立しないっていうのはどういうことなんだ?その時点で成立していなかったとしても、現にBerufという観念は存在した。そう考えるに足る事象はいくらでもあり、十分観察可能なわけですから、問題になるのはではどの時点でBerufが成立するようになるのかという点でしょ?
 
 書いてないとしたら、ではどうしてそういうことが事実として通用するのか?そこが問題でしょう。どこをどうみてもウェーバーの言うようなことは成立しないとか、それなら、明らかにウェーバーの誤りですから理解できますが。ただBerufが書いていない。はい、失格みたいなところで打ち切っているわけです。そっから先でしょう?重要なのは。ウェーバー=犯罪者だからと、そこでもう十分だと打ち切ってしまっている。たいていのウェーバー読者はそっから先を知りたいのに問題を矮小化してしまってますよね。
 
 次にウェーバーがこういうことを言いたいのか?と彼の意図を組んで好意的に解釈をしてみる、あえて都合のいいように解釈して、それでもこれは成立しない。そうなってはじめて公平なスタンスは維持できるわけです。それがなくて、自分の都合のいいようにしか書いていない。失格で打ち切っているんですよね。ウェーバーが言っていることを理解しようとしないで、言葉尻だけで捉えているからきっとこういうふうに捉えてしまうんでしょうなぁ。
 
 梅津さんのコメントにあるように、しっかりウェーバーの言わんとしていることを理解したら、別におかしくない。しっかり論理整合性は通るんですからね。梅津さんは学者さんでしょうから、公平に書くためにあえてウェーバーと羽生氏を等距離で扱っている。だから己のようにおかしくね?とこんなのダメだろと書いていない。だからこそ公平さがあるゆえにその説得性は増すわけですね。羽入さんにはそれがない。え、己にもないだって(笑)。まあ公平さは梅津さんにお譲りしておきましょう(笑)。
 
 ルターにしろ、フランクリンにしろ、その主張がウェーバーの主張とまるで異なる。実際は真逆であった。これなら確かにウェーバーは自己の主張に都合のいいようにねじ曲げたでしょうね。しかしそうではないわけです。大目に見てBerufの観念が成立したのは、言い出したのはルターではなく、ルター派だと。後世にようやくBeruf観念が成立したのだと。それなら分かります。でも、そういうのは間違いではなく、不正確というやつでしょう。言葉足らずというやつであって、間違いではないでしょう。
 
 そういう指摘だとしたら、確かにみなルターがBerufと言い出したと思い込んでいるからこそ、それを取り立て問題にしなかったのですから、ああそうなんだ~と有意義な発見になったでしょうね。大体沢崎さんという人がすでに60年も前にBerufって書いてないよ~って主張をしていて、それが問題にならなかったという時点で普通わかりませんかね?大した問題じゃないから、大騒ぎにもなんにもならなかったに決まってるでしょう(笑)。Berufがない!ウェーバーロジック崩壊だ!なんてよくそんな単純に考えられるなぁ…。
 
 もちろん大した問題じゃないというのは、ウェーバーが資料操作をしたクソ野郎なんだ!っていう意味不明な主張のことですよ。Berufを考察する上で重要な指摘であることには違いありません。それよりウェーバーが何を言わんとしていたか、それを理解することに当時の人の主眼はあったはずですからね。見過ごされてもおかしくはないでしょう。
 
 大体ウェーバー自身がルターの訳でBerufではなく、ゲシェーフトであったと、ウェーバー自身が書いているんですから、おかしいと思わんのかな?梅津さんが言うように、rufでも独語として殆ど似た意味になる。ルターからBerufという観念の萌芽であって、そのルターの時点で100%Berufでないとダメだとか、そういう変な思い込みがあるのかしら?
 
 フランクリンのとこでも「全く」という言葉に食いついてどこが全くやねん!ほとんどの間違いだろ。でいいのに、それを持って資料操作ですからね(笑)。この人にかかると何でもかんでも資料操作ですね。それもおそらくは前後の文脈を正確に理解していないから、因縁つけているだけでしょうね。
 
 ちょうどいい機会だったからプロ倫を読んでますが、思った以上に読みやすい。ウェーバーにしては。ウェーバーみたいな天才は理解能力が高いので、文章めちゃくちゃになって前後不明瞭なんて日常茶飯事ですからね。そのウェーバーにしては読みやすいです。まあ、小室・大塚読んでますから、事前に論理展開知ってますからね。
 
 しかし、今ウェーバーのテーゼってあんまり意味無いですよね。時代背景・環境が変わりましたから、ウェーバーの主張が正解・間違いという以前に、彼の主張自体があんまり今意味がない、薄れているっていう感じですからね。ウェーバー研究している人って有意義な主張している人っているのかな?「日本資本主義の精神」、資本主義・民主主義の機能不全を論じて、そのためにどうすれば日本社会が復活するか!?的な主張・研究をしていないとウェーバーやってもしょうがないとしか言いようが無いんですけどね…。
 
 そもそも合ってる・間違ってるなんて人文科学では論証しようがないですから、今の学生にとっては古典としての価値、研究をする上で方法論のひとつくらいの価値しかないのかしらん?
 
 ろくなもん書いてないから、もう見てないと思うんですけど、以前社会学者の卵さんが良いコメントをくれたんですが、どうなのかなぁ?社会学者の間でこの人の評価は?もし見ていたら、聞いてみたいところではあるんだけどなぁ。しかしドイツやフランスにこんな珍論文出したのか…。どういうリアクションがあったのか気になるなぁ。
 
 んで、

ヴェーバー学のすすめ

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ヴェーバー学の未来―「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ

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大衆化する大学院―一個別事例にみる研究指導と学位認定

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 なんて感じの本を批判者の折原さんが出しているようですけど、まあ素人が読んでもわからんでしょう。そんなことをさしおいて、ウェーバーが間違っている・合っている以前にあさっての方向に話が行っている気がしますね。

とか、この人が出した本を読むと、なんかアカハラを食らって大学院で通らなかった!んで、学問の世界なんて真っ黒だよ!みたいなことを言いたい、変な怨念がこもってますよね…。もう明らかに立脚点がおかしくなっている。んで、既存の研究世界がおかしいことはわかりますが、東大の誰々がおかしいとか、そういう話をしてどうするんだろうと?
 

 折原さんの批判本も、普通に羽入本はここが間違っているという指摘をするだけでいいのに、山本七平にまでウンタラカンタラとか変な論を乗っけているし、論争というかケンカになっている(笑)。こういう意味でまた日本の学会っていうのはレベルが低いというか、なんかおかしいなあと実感させる事件ですね。この羽入論争というのは。
 
 しかしまた東大教養学部なんだよなぁ…。與那覇さんに続いて、二人目か。いや時間軸的に言うと、この人が先駆者なんだろうけど。東大教養学部は、こういう人材を輩出し続けて、そのうち世の中から糾弾されそうで怖い。そもそも教養学部というのは学部止まりで、院があっていいものじゃないと思うんだが…。普通に歴史学なり、政治学なり、そっちの院で指導受けて論文書けよとしか言いようが無い。本当に指導教官はちゃんとした人がいて、ちゃんと審査されているのか?大丈夫なのか?と思わざるをえない事件でしたね…。

*1:本来のウェーバー像に傷がつくどころか論理補強をしているだろうという一節があったかと思いますが、そういう段階・ウェーバーの資料読解解釈についてで、やめておけば論文として成立したんですけどね。アクセル全開で明後日の方向に旅立ってしまいましたからね…