てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

【安部 聡一郎】 郭太列伝の構成過程 ―人物批評家としての郭泰像の成立―より

金沢大准教授の安部さんの論文を以前薦められたので、読まなきゃなぁ~と言いつつ最近全然時間が取れなくて、やれなかったのをようやく手を付けます。まあ、そんなに大したことを書くわけでもないのですが。

 未だに前回読んだ増淵先生のメモの文章起こしも終わってないし(´-ω-`)、最近は母権論に手を出して、こりゃ面白い!と食いついて、なんでもかんでも母権と絡めて考える癖がついている(笑)。中国の始原・最初の母権制の形とその発展はどうだったのか?

 オリエント・ギリシアあたりをみればいくらでも母権制の名残を確認できるわけで、では中国の神話ではどうなのか?ローマの家族法なんか非常にデータが豊富だから、運用から家族の実態・母権の名残を見ることが可能。母の財が娘に婚姻資産として受け継がれるとかね。

 典型的な進歩史観ではギリシャ・ローマに至って母権制父権制に順調に発展していった。進化・進歩を欧州だけが着実に歩んだという発想になるのだけども、それはおいといて、じゃあ当然同じ時代の中国ではどうなの!?ってことになりますよね。

 多分、唐とかならともかく、漢代においては、そういう法がない気がする。民法、多分刑法史中心になるのだが、刑法で志というジャンルでまとめられるような史料は残っていても、民政に関係するようなこまかな結婚・離婚、財産分与などそういった民法のような記録は殆ど無いのではないかという気がする。

 中国法とローマ法、すなわちローマと中国の同時代の違いを端的に説明するとなると、このような民生の法の浸透度合いというものが大きな違いの一つとしてあげられるのではないだろうか?ローマの場合は家族法でしっかり生活におよぶまで法の支配が確立しているが、漢の場合はそれが確立されていない。自治に任されている。そのような違いにもっと注目すべきではないだろうか?

 ローマにおいては一人の個人単位での支配、ローマ市民であるかがどうかが重視される。故にローマ法というのが統治の重用な柱となる。対して漢では漢民族という同じ民族を前提にした支配。郡県秩序もその有力者が大きな意味を持っているように、そこに個人・ローマ市民のような戸籍の有無・権利の有無という発想はない。

 まあ、そもそも人口規模から言って、一人ひとり把握しようなんて発想が生まれようもないのだが、ローマ市民権の発想も人が少ない植民都市であるがゆえに生まれた発想であるし。

 話は戻って母権から父権への移行というものが当然中国にも一つの大きなテーマとなってくるわけで。しかもこの漢時代にはそれが大きく進んだ時代でもある。うーん、下倉先生の母権の話を書いた論文が読みたくなってきた…が、当然今のところ山積みになった所業でどうにもならん(^ ^;)。

 ブログだっていくらでも書くことあるのに書く暇がなく更新が滞るくらいだし、もう後何日もツイッターやる暇ないだろうなぁ…。政治ネタで動いて面白そうなのに。1つ2つと何気なくやりたそうなこと、やらなきゃいけないことを積んでいったら、いつのまにか三桁近いことでどうにもならん、全然やってもやっても終わらん(゚Д゚ )。

 愚痴は置いといて、漢代・三国時代の母権論なんていう三番煎じくらいの大学生でも思いつきそうな単純なテーマを誰もやっていないとは思えないのだが、誰かやっていないのかなぁ?いま母権論ってどういう形で展開されているんだろう?バッファオーフェンの序論読んだだけなんで今どういう展開になっているか知らないしなぁ。しばらくはこれで色々調べると思うんだけど。今現在どういう形になっているか全然知らない。

 官制の内と外、外の完成。そういった漢代の変質と母系から父系への移行というのはどれくらいリンクがあるのか?リンクというか同じ要因から派生した結果であるっていう気がするけど。軍事が国事=「内政」に並ぶ重要な機能を備えるようになっていくというのは、戦乱特有の現象なのだろうけど、呉においてその軍の機能強化がそこまで顕著に見られないというのはどういうことなのだろう?官制上の権限を与えるとパワーバランスがひっくり返りそうだから、それを懸念して与えなかったということかな?

 まあ、官制の内と外という話からして、あんまりよくわかっていないのだが

(^ ^;)。

 母系の影響、母の影響力を見て取れる呉において、そういう傾向があるというのは未だに呉が母系から父系への移行が進まなかったことと関係があるのかなぁ?そういう軍制と関係するのだろうか?

 唐というのは既存制度を統合していく、旧制度を纏めあげて整備した結果という気がするのだけど、宋という時代になると制度がなんというか全くの別物という気がする。宋に於いてはエネルギー革命というか、石炭が現実の生活・社会に浸透して商業化が進んで分業化が進んだ。宗族という制度も完成して、これまでの社会と基礎が異なる社会になった。貨幣経済に分業、そういった社会の上に成り立った国家なので、自ずと官制というものもより洗練された違うものになったような気がしないでもない。

 なんといいますか、軍事の現場の指揮官はその軍隊の指揮だけで、中央の司令部(?)が命令権を完全に握っているように、細かく権限・指揮系統が分離された結果ああいうかたちになったというか。まさに官僚制という感じがしますね、宋の制度は。専門家・分業化・指揮系統の上下一本化などなど。そういった点で唐の官僚制というのは未だに人・状況に依存する人為的な要素が大きかったような気がします。

 皇帝権力の強化というより、近代的な官僚制の方向に進んだ結果必然的に起こった矛盾の現れが諫官という気がします。本来近代的な官僚制なら、官僚制というか政治制度なら、もっと権限がはっきりしているわけですよね。しかしそういう政治家と官僚の明確な区分がないゆえに起こる問題かと。

 トップの宰相の決定に対してナンバーツー・スリーあたり財務大臣だったり、軍の大臣だったりが拒否権というか、ここはこうこうすべきですという提案する権限があったり、意見が合わないときに合議制の結果多数決で決めるとか、一定の期間の後政治の実情を振り返ってトップの執政官としての続投・交代が決定するとか、そういう正式な制度化がなされていないから起こってくるような気がします(まあ、合議的な側面ももちろんあったわけで、説明がうまくないなこれ…)。

 何でもかんでもできるフリーダムな権力だと監視・抑制力がなく、有効に機能しませんからね。もちろん皇帝のそういう権力は名目だけでして、実行に移すようなことはなかったのですし。宰相を決める人事権という点で突出していたわけで、まあ何といいますか現代の大統領と首相の関係といいますか、諫官の掣肘・諫言による異議申立てというのは宰相にその政治権力を一元的に委任しないための装置でしょうね。宰相を通じてだけのルートでなく、諫官を通じて異議申立てのルートとなって、意見が上がってくるという。内閣の政策が皇帝の意図したものと違った時に報告してくれたり、実情が隠されて皇帝まで登ってこないことがないように、自ずと異なったルート・機関、目付けとしての価値ということでしょうかね。であるから、必然的に口を挟んでほしくない改革をやっているときにもこれおかしくないっすかね?と余計な口を挟んでくるわけで。

 

 官僚が行政やって、政治家が立法するというような分担がこの時代にはないですから、官僚なのか政治家なのかそういう分担・役割がないので、皇帝に唯一決定権があるというたてまえでやってしまったゆえの歪みが諫官の諫言じゃないでしょうかね?

 最高行政官の地位・権限とそれに対する対抗機関の存在を明確に法的に決めていない故に起こったアンバランスな現象。そんな気がします。チェックアンドバランシスという政治上の基本が古代・中世では基本的にありませんからね。でも、それをやらなくちゃいけないということで、諫官が諌める、一句申し上げるという感じかな?まあ皇帝にとって政治の実情を伝えてくれるいい別ルートでもあれば、諫言をして邪魔をしてくれるめんどくさい面も同時に備えていたのかな?という感じですね。

 さて、ここまで書いて本文に一つも入っていないのだが(^ ^;)内容に触れて行きましょう。細かく言うと主体・客体が違ったり、正確な表現になってなかったりして誤解を与えかねない表現になってますが、まあそこら辺はざっくりとした適当な読み方をしていますので許してください。

 まあ、当然郭泰と言えば人物評の中心人物でございまして、川勝氏が言うようにその評論によってできた清流勢力の中心だと。んで増淵さんが批判して、逸民的な形になったと修正。んで渡辺さんも郭泰を各地の評価を全国的にまとめる役割を果たしたと評価するわけですね。

 しかし筆者が袁宏や范曄の史料批判してみると、批判っていうか成立の精査か。そうしてこれをチェックしてみるとこれらの史料が生まれたのは、三国・西晋時代の主流思想を反映したものだと。つまり当時代の意識を必ずしも正確に反映したものではないし、後代に成立したものであるから、当然そこには勝ち組の結果論・後付けだったり、歴史を都合のいいように解釈して自分たちの正当性を確保するために操作された可能性があるわけですよね。貴族制にむけて歴史が、史料がそれにふさわしいように書き換えられていった可能性があると。

 彼の人間としての背景より、その人物評が重用だと考えられていたのはその列伝構成、文量から明らかにわかる。しかし人物評をする人物についての背景があやふやっていうか重視されないってのはどうなんでしょうね?他人を評価するものは中立でなくてはなりませんから、あんまり高貴だったり、何らかの勢力の一員では務まりませんから、レフリーみたいなもんなんでね、あんまり日の当たらない存在だったということですかね。

 なんというか、当時はそんなに大して評価された人物でもなかったけど、後世人物評、貴族や士大夫の横のネットワークが重要になったから、そういう人物評価をする人間・レフリーが重要になったから、後付けでその先駆者である郭泰の権威付けを行なっているような感じがしないでもないな。

 他の人物評価の人間は史料があまり残っていないが彼だけは各史料に十分な文量を持っている。蔡邕の碑文を書いた時期の考察があるけど、それってそんなに重要なのかな?蔡邕という碩学とつながりがあって、彼が碑文を書くってのが大事なような。まあ蔡邕ほどの碩学なら依頼は山ほどあっただろうが、在野時期も長いしね。蔡邕って各地を渡り歩いて学を修めたっけか?郭泰も彼も活動範囲が広いというのが、意味があるのではないか?

 関係ないが碑文というものによって功績を刻んで残しておくのは、わしの爺さん、父ちゃんはこのように優れた人物なんだぞという証明。社会・共同体にその地位を引き継ぐことの証文のような機能をもたせるんだなぁ。葬式は子孫への社会的地位の継承という面があるのか。今更確認したわ。

 隠逸の評価、社会から身を引いて引退すると余計な争いが避けられる。そういった意味での隠逸の評価。また、高い地位にあるものが余計なこと、中途半端な改革をして現場を混乱させるという悪例を封じられるとか、そういう面があるのかなぁ?

 范曄の描写だとその人物評価の能力の高さ故記されているのに、碑文には一文もその人物評価について触れられない。隠逸としての評価のみ。

 隠逸という政治的スタンスを公的に認めさせる役割を果たしたのが皇甫謐。西晋初期の高子伝で政治社会への抗議としての隠逸を除外する・隠逸とはみなさないという主張を明確にした。そういうものとは関係がなく、隠逸する階層はやはりインド社会の宗教階層・仏教の影響かな?中国にもそういう階層を取り入れようという動きは面白い。

 皇甫謐は隠逸に名声が備わることを否定しない。学識→弟子→名声あるいは弟子→名声=学識かな?いずれにせよこの時期まで范曄のような評価はなく、皇甫謐・蔡邕とも隠逸としての評価に主眼が置かれている。

 そして次、葛洪・抱朴子についての検討。あまり歴史文章として参考になりやすいような記述がされている文章ではない。葛洪の主張が強力な君主権と官僚制、そしてそれを支える礼教と厳格な刑罰。強力な統治は外に私情を認めない発想。しかし隠逸が外にあってもいい、在野での王臣として教化をすすめるという発想は面白い。

 余計なことを言うと、統治をする上でのイデオロギー・思想としての礼教は当然人の内面まで干渉する。良心の自由はありえない。教会法のように、内面は国家法とは別に存在するという発想がそもそも他の社会で有り様がないか。インドのような宗教観だとあってもおかしくないような気がするがどうだろう?宗教法>世俗法で結局宗教法と世俗法の分離・二元論的考え方はできないかな?やっぱ。

 范曄の評価に近くなり、人物評価についての能力が認められている。葛洪の批判の中に各地を周遊し、交際したのが浮華だ!というものがある。浮華という批判はいつどこで始まるものなのだろうかね?浮華というよく出てくる批判の観念は後漢時代や魏の時に本当にあったのか?後から浮華という観念が出て、歴史をまとめる上でこういうのをまとめて浮華としましょうという認定・追認がされたってことはないかな?各地を巡り歩くってところから孔子がすぐ引き合いにされるのが中国ゆえですね。

 葛洪は呉の人たちが郭泰を批判していたことを挙げていますね。殷礼・諸葛瑾・周昭などがそうだったと。隠逸として、また浮華であるという批判です。呉という土地柄を考えると中央と距離が遠かった人たちですから、そういう辺境の人たちが中央の社交界から取り残されたゆえに、その中心人物であった郭泰の高評価に反発したってことですかね?

 流れとしては①隠逸の評価の確立→②更に進んで亜聖・孔子ばりの名声→③そこまで評価することはない!という批判を受けて隠逸としての評価に逆戻り&④呉を中心に人物評価に疑問が付けられる―とまあこんなところでしょうか。重要なのはこの流れの中で未だに人物評価としての名人!達人!といった従来の郭泰像はまだ出てこないということですね。あったとしても隠逸という価値観の従属物・おまけ程度のものだということ。呉の否定的評価のところではじめて人物評価が出てきてはいるものの、それも名人・達人といった好意的なものではないこと。それがどうして范曄の「人物評価としての名人」につながるのかがポイントになりますね。

 さっきチラッと触れた皇甫謐の隠逸で名声を得てしまうことはやむなしっていうのはそういう階層の登場を予期したもの、またそういう階層の誕生を視野に入れていたとかではなく、本人はどうも荘子万物斉同思想から無名を是としていたようですね。うーん、そういう意図があったら面白かったのになぁ…残念(> <)。おもいっきり個人的願望から無茶なことを言ってますが(笑)。

 で、袁宏の思想は例の教化という観念が強く反映されており、優れた人物の持つ徳を「流」、それによって広がる感化を「風」なんていう思想を唱えていたように、郭泰にもこの思想を応用・延長、投影した可能性が高い。これまでの評価とは違って、否定されてきた聖人観念を持ってきて、郭泰を語る上で中心テーマだった隠逸という評価は彼の思想ではほとんどとるに足らないものになっている。袁宏によってこれまでの郭泰像とガラっと変わる評価が登場してきたと。

 当然、時代の経過によってより正確にモノを見えるようになった当代の偏見から解放されたとするか、それとも後世の都合によって史実がその時代にふさわしいように塗り換えられた、あるいはそういう時代の要請に合うピースとして整えられたか見極めないといけない。まあなんといっても、孔子級の亜聖なんていう大仰な評価が後の時代になって成立してくるというのはどう見ても前者ではないわな。

 

 そもそも佚文を考慮しても、郭泰の文章は諸家後漢書後漢紀に少ない。范曄の編集スタイルはそれぞれの先行文献のまとめ直しで、かつ佚文が多い郭林宗別伝を中心としてまとめられたと考えられる。

 曁艶=陸瑁という関係、在野の隠逸陸瑁が執権者である曁艶に人物評価の批判をする、その観点から郭泰が取り上げられたのは面白いですね。隠逸であれば政争・政治的混乱から身を守ることができると。孔子とまでは行かないけれども、郭泰を聖人かな~?っと取り上げた(あやふやで判断できない)陸瑁の意図は当時の呉の政争、どこを見ても派閥だらけで一触即発になりかねない。そこで隠逸というスタンスを広めて、それを緩和すべきだという発想があったんじゃないでしょうか?ということで呉で割りとホットな話題になったんじゃないですかね?郭泰のスタンスというか評価は。

 蔡邕がその後董卓のもとで政治的権力を担うに至っているのに、郭泰に対する再評価などは一切ない。つまりこの当時に郭泰の名声は確立されていない。

 風俗通に出てくる徐稺の名も告げずに葬式に現れて祭礼を行なってすぐ立ち去るエピソードに、後漢紀では天下名士の存在が出てきて郭泰が人物評論を行う話が付け足されている。袁宏や范曄では隠逸は薄れ、人物評価が前に出てくる。

 まあ、結論として劉宋までの幅広い時代の層があるわけで、後漢の人物に対する史書の記録も魏だったり、普だったり後の時代の、それぞれの時代の評価が混ざっているからその分別に注意を要するというわけですね。納得いく主張であり、慧眼というべきでしょう。

 ただ最後に出てくる清流とか逸民とかそういう関係からこの隠逸→人物評という変化を考えたいってのはどうなんですかね?清流とか逸民人士とかそういう考え方自体が不適当だと思うんですけどね。清流にしろ、名士にしろ、その時代の士大夫ネットワークの過大評価じゃないかなぁと思いますが。無論それがあってその社会である一定の役割を果たして、後世の貴族制につながっていく事はそうなんですけどね。後漢とかそこらで後世ほどの役割を果たしたわけではありませんし、政治・後漢を読み解く上では現実の有り様に注目したほうがいいと思いますけどね。

 官制、職責・権限のありようとか実際の運用のされ方に注目して、一つ一つ分析するのがベターでしょうね。大将軍とか三公九卿の合議による権力の実態・運用を見たほうがいいでしょうね。貴族制成立から逆算された、貴族制の権威付けのための誇張表現じゃないんですかね?郭泰評価の変遷って。

 結局史書の後付けの人物評価、この人はいい事した。逆にこの人は悪い事した~という評価に引きづられて、一番まず先にすべき政治制度のパワー分析などを怠ったところに、清流とか名士とか、そういう大雑把な枠で時代・社会を説明しようとした無理が来たということではないでしょうか?

 まあ史書読んだら、一番初めにそういう価値判断が否が応にも目に飛び込んできますからね。この人のこの改革は良かった、悪かったなんてのは。ただ、それをそのまま鵜呑みにせず、史書の主張として正確に理解しておきつつ、一旦保留して、そこからでは実情はどうだったか?とパワー分析に入っていくのが歴史家として一番重要なところかと思いますけどね。

 史料を記すのは大抵同じ階層、同じ意見を持った人間が多いんだから、その価値判断に引きずられたらダメだろうと。まあ今さらですがね。

 史料に時代ごとの変遷を追わなくてはならないか…。うーん、それだけで大変な作業だなぁ。後漢末直後の意見、魏・晋の意見、劉宋の意見、混乱している時の基本的な通念、安定した時の通念、魏晋革命でその正当化を図る時の通念、都落ちして南朝という一地方政権・さらには貴族制が成立したという特殊な状況での通念。それらを分けて考えなくてはならないのか…。まあ諸後漢書とか後漢紀とか東観漢記とか、そういった史料を逐一正確に違いを把握しながら読む・考えるとかは学者さんにお任せしよう(^ ^;)。絶対そんなこと無理だわ、ざっくり派の己には。

 ※そうそう結局のところ、法治国家・立法の絶対的な観念が成立していない近代国家以前においては個人がモノを言う。その個人・人間に権力が付随するわけで、時には公式な制度さえしのいでその人であるからという理由で権限が付与されたり、権力の源泉になってしまったりする。まあ人格カリスマというやつですが、結局のところこういう性質がモノを言う。

 最近これを政治資産、アセットとしてより明確に一つのテーマとして考えるべきかな?とか思ってます。ポリティカルアセットというか、個人に所属する資産だからヒューマンアセットというか、まあなんでもいいですけどこれの多寡を決して軽視すべきではない。袁紹のそれの大きさとかね。改めて考えてみたい話かなとよく思うのですが、いつも忘れる(> <)。董卓の失敗なんか完全に政治資産が欠如していたからにほかなりませんからね。

 三国のそれなんか曹操以外ありゃしませんから、そんなに重要なテーマにはならないと思うのですが、後漢末の混乱期には重要なテーマですわね。あと魏晋革命、司馬懿が政権とって晋という枠組みに移行する際の政争なんか考える際にもこの政治資産の多寡が物を言った面があるので、特に権力争いではそれが重要ですからね。色々考えてみたいという捨て台詞、メモでした。