てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

天下二分の計の話

 以前から、徳操さん(@daradara3594)さんのツイートを面白いなぁと拝見して、たまたま目にした孔融あたりのやつをメモって、まとめておこうと思いながら、全然公開するきっかけが掴めなくて、ちょうど思いつきもあって、いい機会だからまとめてみますかと。

 天下三分で魯粛の先見性とか渡辺さんが本で書いたのか?その影響からなんか魯粛評価があるのかな?超あやふやですが(^ ^;)。んで天下二分の話をちょっと。

【天下二分の話】

 魯粛甘寧が早くから江東割拠、→荊州→蜀と行って南半分とろうぜ!という天下二分を主張していたのは有名な話。で、それが優れていた策・戦略かというとうーん、どうだろ?南半分って言っても、当時の南半分でも国力で言ったら3分の1どころか、全体の4分の一くらいの国力だからなぁ。それで独立!って言われても、滅ぶのを待つだけでしか無いと思うんだけど。そこから独立を維持できる主張が入っているのならともかくね。

 天下三分の計なんて、今から東大行って、そこを主席で卒業して、かつオリンピック出て金メダルとって、最先端の物理学の研究をしてニュートリノで前人未到の業績を上げましょう。そうすればあなたの人生そこから日本社会に重要な影響を与える人物になれますよくらい当り障りのない話しですからね。

 まあ要するにそりゃ、それができたら苦労しないよって話。宝くじ買って一億当てて、そこからその資金を元手に事業を起こして金持ちになるくらいざっくりとしたプランですからね。まあそれよりはもうちょっとは現実性はあるんでしょうけど。

 んで、天下二分とか魯粛の話云々を見て、ああそうか劉備孫権の部下になった。しかし、実はそれって前々から諸葛亮通じて工作があったとしてもおかしくないよなぁと思いついたわけです。南郡支配とか、江陵譲渡とかは蜀攻めの布石。もし周瑜が死んでいなかったら、そのまま周瑜の指揮下にあって劉備は蜀攻めの尖兵となっていたでしょう。周瑜が死んで一旦蜀攻めの戦略が破綻したからこそ劉備独立の余地が発生した。龐統周瑜の部下で死後帰順したから、一時期劉備に疎んじられたわけですからね。

 その劉備孫権の部下入りは魯粛が急転直下ホーイ、劉備ちん、我が孫権様の部下、爪牙(だから契約社員?)にならない?的なノリで勧誘される。切羽詰まってるから、渡りに船と(本当に長江に船だから渡りに船そのものなんやね(^ ^;))ホイホイ付いて行って、ブラック企業孫呉にこき使われる50代の劉備新入社員。俺は孫呉に仕えているんだが、もうダメかもしれないなんていう状況になったと。

 まあ、それが一番筋が通っている説得力ある説だと思うんですけど、実は孫権のエージェントになるというストーリーはもう既に諸葛亮劉備の腹心・参謀として参入する時点で、完全ではないにせよ、ある程度話がついていた、整備されていたんじゃないか?という説をピン!と思いつきましてね。諸葛瑾孫呉にいるんですから、彼経由で孫権と繋がってたんじゃないか?というね。

 三分の計も、孫権を味方に二者の勢力範囲ではない残りの空白部分の荊州・蜀取って、魏に当たりましょう。―とかいうイミフなものではなく、劉表の部下になって曹操の軍を迎撃して、信望を集め乗っ取る。成功したら次は蜀。んで、それが失敗した場合は孫権の部下になって、または援助を受けて荊州を取る。そういうステップがあったんじゃないかな?って思うんですよね。

 プランA劉表部下→独立→蜀

 プランB劉表部下→失敗→孫呉荊州→蜀

 まあ、ざっくりするとこんな感じ。ABの間にいろいろな変則・変種パターンはいくらでもあると思いますが、基本は劉表部下からあっさり成功するか、失敗して孫権頼るかの二つに一つ。劉表政権の非主流派に属する諸葛亮と組み、勢力を着々と蓄えて劉表に警戒されるのもそりゃ当たり前ですわな。

 諸葛亮三顧の礼というのはまず、諸葛亮が挨拶に行く。次に独立工作、孫権との秘密交渉を要求するから、劉備のウチじゃ出来ない。だから孔明ハウスでじっくりその後の戦略を話し込んだって言うことだと思うんですよね。だったら納得がいく話です。

 エージェントでないにしても、孫呉とある程度話をつけておかないと、劉表死亡→独立&乗っ取りの時に孫権から攻められたらエライことになりますから、そういう点でも何の交渉もしていないとは考えられないんですよね。例えばVS曹操南下の時点で、新野で最前線で戦って撃退→襄陽で籠城→包囲に力つき撤退。そして見事にもはや荊州劉備様でないと…→禅譲される。そうなったら孫呉は南部を頂くとかね。孫劉同盟の条件としてそういうのがあってもおかしくはない。

 この可能性はもっと検討されてもいいんじゃないかな?と思います。

 劉璋も馬鹿みたいにホイホイ劉備を呼び込んだのではなく、孫権からの離反・離間工作という意味合いがあったわけですね。だからこそあの歓迎。劉璋の安保を脅かすのは劉備孫権だけなんですから、その劉備を篭絡するのは当然すぎる話ですね。別に劉璋はお人好しのバカじゃないでしょう。劉備を利用して曹操が来たら降伏して見捨てたでしょうね。独立保って、自分を高く売れればそれでいいわけですから。五斗米道と同士討ちしてくれればこれ以上ない最高の結果だったんですが、まあ当然そんなうまい話はありませんね。

 劉備の不義理とか問題にならなかった!なんていう話がありますけど、そもそもどっちも相手を利用しようとした結果で、劉備が勝っただけですからね。劉璋が勝って、曹操様こやつが不届き者でごぜえます!と付き出して劉璋が出世しても別に劉璋は卑怯者!裏切り者!なんて言われはしないでしょうし。

 劉備は以後劉璋につくか、孫権につくかの板挟み。蜀入りは孫権様のためでございますというふりをしつつの蜀攻めだったわけですね。荊州系の人を引き連れての入蜀というのは孫権様に荊州の人間のすみかも引き払いましたから、譲り渡す算段がつきましたよ~というアピールでもあるんですなぁ。

 三郡をあっさり陥とされたのも、エージェントの雇い主である孫呉がなにもせずに、江陵をただくれてやったわけではなかったからではないでしょうか?譲るステップとして拠点かなんか開放しておいた。んでそっから力抜きしようとした場合難しくなかった。そういう背景があるんじゃないですかね?あっさり陥落しすぎですもんね。

 本来、この失陥は関羽無能論の第一歩でしょう。不思議ですね。この時の失陥を関羽はアホだとか、軍事指揮能力がないとか、そういう話にはあまりならない。北方・対魏に戦力を向けていたなら、そちらの防衛に力を注ぐ方面責任者・副将クラスを配置しておかないと話にならない。そういう必死さがないんですよね。三つを譲ること自体はある程度ステップとして入っていたんじゃないかな?

 ココらへんは面白いんでいずれ検証したいところです。

赤壁孔融の話】

 で、本題。引用はRT。拙意見はきのこる:~表記で。

 RT後漢紀によれば建安九年に孔融の建議により潁川・陳留・南陽・上党の四郡が司隷校尉部に編入され、皇帝の直轄区に昇格している。曹操冀州牧就任と同時期の事で、おそらく皇帝直轄領の拡大により河北に河北に基盤を得た曹操を牽制しようと図ったのだろう。孔融司隷校尉鍾繇を信頼していたのだろうか。

 

 きのこる:なるほど、だからこそ孔融処刑につながったってことですかね>

 RTこの建議が原因になった可能性はありそうですね。曹操にしてみれば劉協を制御できなくなる可能性もありますし。 

 きのこる:漢が魏に対してやったこのような抑制策みたいなのは興味深いですよね。しかし鍾繇が色気出してVS曹操なんてなりうるわけ無いと思うのだが…。孔融は冤罪というか喧嘩売ったら殺されて当然というか…。その後この司隷校尉強化策は取り消されてなくなったのかなぁ?やはり。

 RT元々、持節して直属の奴隷兵も抱えた武官でしたから、丞相曹操を掣肘できる程の強力なポストにも変化し得えたんじゃないかなと思いますね。曹操は九州制復古によって司隷校尉部そのものを解体してしまってますね。九州制復古は孔融によって拡大された司隷部=皇帝直轄領の解体を目的とする面もあったのかもしれません。

 きのこる:なるほど。献帝自身に権力が集まることは混乱を経ているのでないと思いますが、司隷校尉が軍権としての面が強化されていったら、あるいは?という気はします。屯田とかで地方実権はないから無理と思いますが。袁紹司隷校尉時代の経験・コネが影響したとかあるのかな?個人的に鍾繇にそういう野心、冒険を侵すような感じがしないんですよね。息子と違って。そもそも年齢的に無茶が出来ないですから、無難な路線でどっちつかずかな?と。もっと若くて曹操の基盤も不安定ならあるとは思うんですけどね。

 

 ―というレスをしといてあれだけども、より整理して考えてみると、鍾繇が取り立ててVS曹操!という強硬な人間になる必要はないわけだ。曹操の存在意義とはその軍部のトップということだから、いくら軍人としてナンバーワンでも、政治家としては多くの諸政治家の一人にすぎない。

 もちろん政治家としてもナンバーワンの位置にあるけど。ナンバーワンでも軍人のそれと比べて政治家の能力・ランクはダントツというわけではない。むしろかなり危うい。孔融とか鍾繇とかそういう地方のナンバーワン・顔役と肩を並べるくらいの政治力だと思われる。

 このような司隷校尉の権限拡大は、曹操の政治力の囲い込みを意図したものだろう。他に比類する勢力を作り出すことで、埋没させようという試みだろう。政治力で突出していない曹操を2位・3位(またはそれ以下も)連合で囲んでしまえば曹操が身動きがとれなくなることは十分にあり得るから。

 むしろ曹操と距離がさほど遠くない、結構近い?鍾繇を就けたのも、鍾繇ならテメェふざけんなよと司隷校尉拡大案を潰して彼の面子を潰すことが出来ない。配慮せざるを得ない人物だったからかもしれない。彼が失敗することはそうそうなくて、移す口実も見つけにくいという観点からだったかもしれないなぁ。

 この事件は曹操の政治基盤の不安定性を如実に実感させることになった。もしかしたらこの時点で曹操禅譲・革命を想定していなかったかもしれませんね。ああ、自分が死んだら軍部の新しい台頭者・平定の功績を上げたものたちの利権がひっくり返されてしまうかもしれない。じゃあ魏という新しい器を用意しないと!―と、孔融事件こそが曹操およびその支持者たちに革命・禅譲論を呼び起こした、もしくはそういう意見を確実に固めることになったのかもしれません。

 曹操献帝拉致は袁紹への反逆なんですが、仮に袁紹に勝ったとして、魏・清王朝を開くド~!という明確なプランを本当にこの時描いていたのかもちょっと疑問に思っているんですよね。

 荀彧やら崔琰やら、結局この孔融事件から始まっていると思うんですよね。これがわからないとそっから先の王朝や跡継ぎとかもよくわからないんじゃないか?という気がします。特に荀彧の魏公反対は額面通りに反対と受け取るか、表面上・婉曲的な反対なのか両方考えられますからね。もし本当に漢朝のままいくという主張が本気なら、やっぱり曹操献帝を手に入れて、孔融事件があるまでは禅譲という手段を選択肢に入れてなかったということも考えられますからね。

 とすると荀彧に曹操死後、曹操軍団の漢朝組織への組み込みプランがどうだったのか?ということになります。それがしっかりあれば、荀彧の言うとおりもし曹操が死んでも十分に漢朝でやって行けますからね。まあ荀彧が死にそうってなときに、どうだろ?という気もしますけどね。曹操より荀彧のほうが長生きしそうな状況があればまた違ったんでしょうけどね。荀彧の息子あたりがそれを引き継げる目処が立っている油の乗り切った世代なら、それもまた可能だったんでしょうけどね。

 曹操にとっては魏建国はベストプランじゃなかったかもしれないというのはちょっと念頭に置いとくことかもしれません。

続き―というかおまけか。

 きのこる:司隷校尉というポストの性質を考えるともちろんありうると思うんですけど、許昌という土地で曹操を上回る権力を獲得することが可能なのかな?と。洛陽みたいな中央コネが生きていて、曹操より良い家柄& キャリア持ちの人達がしっかりいたら、有りえたと思うのですけど。あと司隷校尉を一人の人間が長期間独占できれば。

 そういや鍾繇司馬懿並みの長生きなんですよね。馬超が蜂起せず、魏諷問題とかなくてキャリアが順調に行っていた場合、魏で司馬懿より偉くなる=第一の重臣→鍾会司馬炎的に!?無理か。もう一人二人優秀なのがいれば 司馬家みたいになったかもしれないなぁ。

 どうでもいい話か(笑)。司馬家って本当に三代続いて人いたからこそだよね。一人でも居なかったら革命なんて絶対に無理だった。鐘会の行動の根底には司馬懿なんか俺の親父の下でペーペーやったやんけ!なんて思いがあっ たのかもしれないね。舐めがあったのかな?俺のほうが余裕で上だ!っていう

 まあ、結局今回の話はいつもしている(だっけか?もう忘れた(笑)。)そういう曹操軍侵攻→劉備南下→赤壁という一連の急転直下の謎の流れや、関羽の襄陽攻めで呉が背後突いたりとか、そこら辺の不可解な流れが全部つながってるような気がするから。その根源がわからない…。それを解き明かすのが孔融事件なんじゃないかとね。だから孔融について最近ちょっとはまってwktkしているわけです。

 

 RT「被甲する者少し」と言う一方で、「輜重数千乗」とも書かれており、何も持たない餓民では無く、曹操の南下により一切合財担いで土地を棄てた土豪じゃないかなと思います。劉備様なら新天地を用意してくれるさって感じじゃないかなと。

 RT民衆っていっても実態は沔南一帯の豪族だったでしょうから、彼らへの宣伝効果は抜群だったと思います。魏延・霍峻を初めとした沔南の土豪がこぞって劉備に従ったのは赤壁での勝利だけでなく、長阪の一戦も影響してると思います。

 RT博望の敗報は曹操の頭痛を吹き飛ばしレベルの一報だったろう。鄴で袁兄弟にボコされた曹操が無理して西平まで進出したのは「実は離間の計でした(・ ω<)」とか言ってる場合じゃなくて、マジで劉備に許都を衝かれかねないという恐怖にかられていたのだと思う。現に劉備は許南方の葉まで出張れたし。

 RT荊南の人々にとっては数十万人が自分達のテリトリーに乱入してきたのですから、摩擦が生じたりしたと思います。荊南に居場所を持てなかったから、黄忠魏延・霍峻ら荊北の豪族は劉備の入蜀に従ったんじゃないかと思います。

 上でチラッと書きましたけどこういう沔南一帯の豪族も蜀入の一つの要因、そして孫呉荊州もうええやろ!よこせ!返せ!となった一つの要因なんでしょうなぁ。いや、参考になりました。m(_ _)m