てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

渡辺さんの新刊―「三国志」の政治と思想

「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち (講談社選書メチエ)/講談社

¥1,785 Amazon.co.jp

 渡邊義浩さんの新刊手に入れて、本の内容とは関係ないんだけども色々呟いたんで、まあまとめを載せておきます。名士論って川勝さんの清流論を当たり障り無いようにうまくごまかしたような気がする。だからあんまり後漢を読み解くいいロジックにならないと思う。「儒教国家」論もなんか氏の名士論を都合いいように補完するためのものとなってしまってるから、よくわからないんじゃ?氏の提唱する儒教国家が何を言いたいか、そういうテーマを設定することで何がわかるのかいまいちよくわからないんだよなぁ。

 毎度人のものを引用しているのにもかかわらず、あんまり有効な引用・考察になっていないのは、拙クオリティだな。さて需要無視して図書館に渡辺さんの新刊返しに行かないといけないから、『三国志の政治と思想』つぶやこうかな。まあそんなに大したこともないのだが。疑問というか、?ばかりだけど

 

 『三国志の政治と思想』より、本文とは関係ないが、黄巾は冀州と汝南・頴川の乱を中心とする。まず豫州の乱を鎮圧。これで都の危機を取り除くと、本拠である鉅鹿を叩くという流れになる。盧植董卓皇甫嵩と司令官は代わり、6月包囲の11月張宝処刑で片がつくわけだが。これは果たして成功か?

  偶然張角が十月に病死したために、十一月に乱を平定することができたわけだが、前もって張角の健康状態が良くないと知っていたならともかく、これは偶然の結果にすぎない。反乱鎮圧はただ叩けばいいというわけではなく、日常秩序の復帰のために、いかに早く制圧するかが問われる。そのための董卓派遣。董卓の任務は短期鎮圧であったことは間違いなかろう。

 短期鎮圧が董卓に課せられた使命であり、董卓自身も割と簡単にできると思ったから引き受けたのではなかろうか?それが短期で相手の戦力を打破することが出来なかった。ひょっとしたらこの時の失敗こそが、乱の長期化を董卓に 感じさせ、董卓の権力奪取=クーデター・秩序機構の再編の思いを固めたさせたのかもしれない。

 盧植が賄賂を送らなかったというのがあるが、単に短期・長期戦の思想の違いだけだろう。董卓が負けたというより、勝てなかったという点が重要。指揮官を冀州と関係のない皇甫嵩に据えて長期戦というのもポイントか。盧植の賄賂云々よりも地元と利害関係が深いということがネックになったのだと思われる。黄巾の乱のポイントは、正面からぶつかって反乱勢力を根絶できなかった事。真正面から力抜きで反乱を根絶できなかったことが重要。よって結局翌8月の再蜂起に繋がってしまうのだから。

 青徐に主流が移ったのは黒山のように山に依って自立秩序を構成しやすい=侠のような独自秩序があるからか?とにかく残党は闇に潜る結果となってしまった。黒山は山に依って抵抗を、青徐は山や沼など少単位のゲリラ秩序で統治者は散在する抵抗勢力に手を焼く構図となったのだろう。結局初期の反乱対策の失敗が原因だろう。

 この一回こっきりの反乱で鎮圧して、諸地域に複合的に連鎖させないことが重要だった。勝ったとは言えども、何だやれるじゃん!あるいはやらざるをいけない地域に反乱経験者を流入させて、終わりのない害虫駆除のような形にしてしまったことは大きな汚点となって残った。潜在的に中央が少しでも揺らげば、またあっという間に地方に反乱の火の手が上がる構造となった。

まあ、霊帝の死・董卓の政権奪取・袁紹の蜂起などなど色々中央政治が混乱したことが大きいのだけど。蒼天=昊天上帝というのは賛同できるのだが、「儒教国家」の否定のスローガンってのはどうだろ?蒼天の世が衰えたなら、それよりいい天=黄天という主張であって、儒教の否定は彼らの論理にないと思うが

 黄巾が儒教ごと、「儒教国家」の否定というのは違うだろう。彼らは道教儒教で、儒教思想孔子死ね!なんていう発想はない。そも儒教道教の違いがあったかどうか?道は治国の秘術であるから、儒教の改正・治療という方向から切り込んでも、儒教打倒・棄教の思想はない。

 儒教を修めている儒将の能力の方が優れている。盧植皇甫嵩董卓というのはどういう理屈なんだろう?兵法を当時の儒教学校で学ぶうちに身につけたということ?前述通り戦略目的が違うため、董卓の指揮能力が低いという理由にはならない。もし皇甫嵩に短期鎮圧を命じていたら、出来ません。長期戦にすべきですと反対しただろう。仮に無理やりやらせても都合よく勝てたかどうかは定かではない。彼が勝利したのはあくまでも都合のいい相手首謀者の病死なのだから。後漢衰退の理由が外戚・宦官の対立という因果の逆転もあるなぁ。

 渡辺さんが使う「名士」は抽象性が強すぎるんだよなあ。そも当時名士間の格付けはさほど広範な影響力を持っていなかった。後世貴族制が固まってからの昔からありましたよという名声の後付け強調だし。まるでなかったことはないけど、さほど相互間の格付けは重要ではなかっただろう。郷里秩序内ではともかく。

 文化を基盤とするのが名士。豪族→名士というポケモン進化は一体どうやって起こるのか?経済基盤なしでもおkってのはどうかな?経済力・中央政治キャリア・門閥故吏という人的資産・学力(諸学に精通する)。そんなところだろうけど、誰が氏の言う名士で、誰が名士でないのか、一体どうやって判断するのか?

 三つの要素(経済力・中央政治キャリア&門閥故吏・学力)を完全に満たしているものもあれば、そうでないものもあ るだろうし、半名半豪みたいな准名士だってあるだろうし、最も重要なのは出身地が違えば外国人みたいなものなのだから、その土地土地における名士の思惑の違いを考慮しなければならない。それがスッポリ抜け落ちていないか?

 「儒教国家」というけども、じゃあ儒教国家になってそれ以前の体制とどのように変わったのか?孔子のお墨付きの聖漢をイデオロギーにしただけ?名士の価値基準は儒教?豪族+儒教=名士!ってことなのか?党錮の禁の中心地 だから名士の中心となったって論がもうなんというか…。明らかに既存の清流論の誤認の基盤を引き継いでしまっておるなぁ…。

 漢室匡輔とかもそうなんだけど、表向き誰もが納得する理屈を掲げてはいても、その本質は漢室匡輔(自分たちの利権確保)でしょう?自分たちの利権が守られる範囲内で漢室匡輔をするわけで、もしそれが真っ向から利権と対立するなら掲げませんよ。君側の奸とか、天皇親政と目的はおんなじでしょ?

 夢想封印(物理)みたいに、誰もが漢室匡輔(自己の利権・都合のいい政治)を言ってるわけですからね。漢室のためになるから自分たちの利権を放棄しますって例有りましたか?無いですよね?天皇親政でクーデター起こしたら、その あと天皇陛下のいいなりではなく、自分たちの都合のいい「天皇親政」をするだけと同じ。

 どうもそういう本音と建前をしっかりわからない、政治学の基本がわからない人がまれによくいるんだが、学者さんでもそうだからむべなるかな。儒教党錮の禁→聖漢!→名士(→清流政治?)。これじゃあ川勝さんと同じでは…?清流論をうまく修正したのかと思ったら修正されてないなぁ…(^ ^;)。

 名士の中心である汝南・頴川。三輔や北海の名士も軍事力次第で中心となり得ただろう。政治資産・人的資産が豊富な袁紹曹操のような人物がいれば…。結局のところそういう人物を排出できなかったことがポイント。汝南・頴川でそういう人物を排出できたのは、やはり経済力、中央に近いところ故かな。

 袁術が中央と三輔=西重視、袁紹が汝南の地元と冀州・北(東)を向いていたという指向性がまた面白いところ。董卓とあわせて西側が敗れたという、前漢時代とは考えられない状況がね。袁術が三輔=長安を取っていたら、また違ったかもしれん。ホーム(長安・洛陽)と遠く離れた寿春という地点でもうオワゲーですね。

 袁紹が名士で君主権確立ができなかった。公孫瓚は逆。人的紐帯に酷吏(法家)関靖を使う。名士と軍閥のハイブリッドってのはなるほどっと昔思ったんだけど、結局は敗戦で組織が瓦解したからなんですよねぇ。もし戦争で勝ってたらそれすら問題にならなかった。結果論という感じが否めない。

 袁紹曹操に勝ったとして、君主権確立されていないからダメでした―にはまずならないでしょうからね。そもそも曹操だって西北列将、袁紹に連なる名士ですからねぇ。名士曹操VS名士の方々?構図がわからん。そういえば曹操橋玄の故吏でしたね。族子の橋瑁の仇討ち=劉岱を倒す!とか考えなかったのでしょうかね?一族の族主、宗主じゃなかったのかな?彼は。もしそうだったら早々は仇討ちをしなくてはならなかっただろうなぁ。

 石井先生もおっしゃってたけど、徐州虐殺=名士離反で曹操ピンチ論。これはない。兗州の人の動きを見るとどうも洛陽に利権があるのか?献帝奪還か?とにかく西を向いている。曹操支持も董卓討ってくれる人で、牧推戴で青州兵から守った後は李傕討ちがメインだったと思われる。李傕は荒らしに来てたしね。

 前述通り徐州は荒れていた、ゲリラでどうしようもない。そこに猛政(※おそらく酷吏的統治)でしょ?まあそんなことは置いといて重要なのは辺譲の虐殺批判じゃなくて、徐州攻めるんなら、洛陽・長安だろ!そっち攻めにけ!ってことでしょ?兗州にとって死活的利権は西にあって、東にないって言うことでしょう。

 袁紹献帝?何それおいしいの?と完全に新秩序宣言=袁紹曹操劉表ラインとその他献帝ラインに分割されるわけです。陶謙献帝を救うぞ!と第二次反董卓がありました。その後あっさり日和りますが。それでも献帝主導に変わりはない。結局陶謙の曹騰殺人事件は反献帝派への挑戦状ですね。

 陶謙が曹騰殺人事件を起こさなければ、曹操兗州人の意向を組んで、西に一旦展開して、その後徐州攻め(袁紹の意向上やっぱり徐州攻めかも?)という選択肢があったわけです。それができなくなった。とすると陶謙の隠れたファインプレイということになるわけですね。曹操兗州に封じ込められますから。

 呂布がやってきたからってゲームみたいに呂布だ~には本来ならないわけです。兗州人がなぜ呂布を選んだか?曹操と比べて、呂布曹操ならまだしも、事実上呂布袁紹という選択になりますからね。それは兗州人の意向・利権が反映されたという結果なのでしょう。陳宮も張邈も、生きてたら鮑信も?多分裏切ったでしょうね。地元の意見を反映して行動せざるを得ない状況に追い込まれたでしょうから。

 であるからこそ程昱の兗州人としての利権・主張をさしおいても曹操を選んだこと、正確には袁紹陣営を選んだことは、先見の明があったというわけです。誰にも付かず離れずで、官渡の時も中立を図り身を全うした処世術は本当に凄いなぁ(小学生的感想)。兗州・徐州もこれを期に名士がいなくなったのは結果ですね。

 名士の反発が先にあるわけではなく、単に地元の意向を優先して敵対しただけで、協力するほどの勢力だったわけでもないというだけ。徐州虐殺→離反ではなく、そもそも政治力学上、相容れなかっただけ。そもそも名士が反発するならその本流の荀彧は真っ先にブチ切れるでしょうに。

 兗州人は「無辜の民を虐殺なんて許せない!(`・ω・´) キリッ」で、荀彧ら豫州人は「徐州人?あんなん家畜と一緒だから殺されても仕方ないね!」というレイシストだったんでしょうか?兗州人が日本ユニセフ的な理念で動いて、豫州人は徐州wwメシウマwwですか?常識で考えてありえないでしょう。

 

 記録に残されているのは、徐州からこの時南下していった人たちであり、彼らが蜀や呉政権の中心であるという事情を割り引いてみるべきかなとい思いますね。赤壁で降伏論中心でも、この時の南下=旧敵対者ですから、それほど中央で安定というわけでもないという事情も考慮すると面白いかもしれませんね。

孫堅孫策は軍事力で、将軍としてその政権を築いていったわけだが、兄と違い江東名士と妥協的、関係を深めていった孫権の将軍としての性質はどれくらいあったんだろうか?孫権に軍事的においがしないこと。参加勢力の意見をうまく聞いて調停する、調整的リーダー。そういうところが孫権は決断しない。ちょっと揺すったら降伏するだろうっていう予見だったんだろうなぁ。赤壁周瑜中心だったしね。

 程普が代替わりして周瑜にいじわるしてたのも、自分たちが脅かされるという恐れがあったんだろうな。二世三公の周瑜なら軍事政権から変質を選択する。これまでの軍事路線を転換して自分たち旧来軍人を排除する!って怯えるのも当然だろうな。んで、その姿勢がないとわかったから、ほっこりして周喩を尊敬するようになったと。むしろ逆に彼ら孫堅世代の軍人たちが声を持っている以上そういう方針転換は無理だ、じゃあ…と周瑜が路線転換した可能性もあるなぁ。ソッチのほうが話し的には面白いね。

 そうすると孫権が江東名士と関係改善したとき、北来人士特に軍人は不安になったりしなかったのかな?劉璋政権の東州兵みたいなもんだしね。やっぱそこら辺は徐州と揚州という距離感の近さってのが大きいのかな?東州兵は全く縁が蜀とないけど、徐州と揚州は関係が深いという。そういう事情を比較して考えると面白いかも。

よく言われる魯粛ら名士は降伏しても中央で出世可能。ただし孫権、 テメーはダメだ。だから曹操と戦いなさい論っておかしいんだよな。僻地とはいえあんだけ一大勢力を築いた孫家を何の特別扱いもしないなんて考えられないからね。強行的に弾圧する!ぶっ殺すぞ!なんていう姿勢もなかったし。

 降伏勧告したなら話はまだ分かるんですけどね。どうも初めて長江をみて川下って遊んでた。TDLに修学旅行にきた学生みたいにはしゃいで遊んでたら、千葉のヤンキーにシメられたみたいな感じがするんですよね。本当無計画というかなんというか。

 一緒に狩りしようぜ!ひと狩りいこうぜ!みたいなあれは信憑性に乏しいと思うんですよね。挑発して対決するなら、もうちょっと荊州の統治が治まった後でやると思いますしね。のほほんと江南を視察してたら、あるいは劉備攻めの準備してたらいきなり襲われたっていう感じ?

 孫賁孫匡使って孫氏の内部を揺さぶる交渉は曹操の常套手段というか外交交渉の材料の一つであって、そこまで孫権を軽く見てたってことですかね?まあこの頃の孫権は後継いで可もなく不可もなくですからなめられていてもおかしくはないですね。

 ただ孫賁孫匡とか使って工作・交渉がうまくいくか、両者が孫権裏切ってくれるかとか色々あやふやな段階でどうなのかなぁ?と。曹操が現トップの孫権に交渉持ちかけないで二人を利用して内部瓦解だけで十分と思うくらい舐めてたんですかねぇ?

 魯粛は仮に降伏したとしてもまず出世できない気がする。何か学を修めてそれで優秀、名が知られていたとかならともかく。魯粛孫権さんを口説いて降伏させました(`・ω・´) キリッ」曹操「え?誰お前?」になるでしょうからね、魯粛の知名度なんてまず無いでしょうから(笑)。むしろ強硬に独立を解く魯粛の利権ってなんだろ?鉱山開発権でも持ってたんかしら?南下民使っての屯田大土地所有とか?

 一代での統一が不可能になってしまいましたからね。敗戦による被害より、天下への宣伝効果が大きかったかもです。孫劉調停、荊州貸与までは、まだ「同盟破綻して孫劉自滅するし(震え声)」くらいの余裕があったかもしれないですけどね。

 中立見込み違い説がやっぱり一番大きいですかね?遊びっていうか、劉備攻め&長江の北岸の治安維持・視察を大して準備もなく進めて孫呉にやられるという展開かと。孫策とか劉表の予見は人物評価のための誇張なんであまり信用してませんが。

  岡村繁氏いわく「文章は不朽の盛時、経国の大業」は一家の言の重要性を謳っているので文学>儒教ではないと。まあ曹丕もいきなり文学>儒教!って訳にはいかないしね。①儒教②文学くらいの文学の価値称揚のデビュー戦・お披露目だろうね、典論。いずれ将来的にその文学・儒教の地位をひっくり返そうという思いはあったかもしれんけど。俺の継承は正しいし(震え声)って書いてるのがいいね。

 明帝が司馬懿を警戒→公孫淵撃ってこい。名士を警戒しての曹爽政権→名士のクー デターが司馬懿のそれってどうなんだろうな…?ざっくりすぎやしませんか?んで、劉備の呉攻めが私怨とかどうなんだろ?相当前に荊州・蜀両面から攻めないと行けないから既存路線の踏襲って中林史朗さんあたり言ってなかったっけ?諸葛亮は内政担当で軍事権なかった。孫策に対する周喩みたいに信頼されてなかったってのは語弊があると思うけどなぁ。構造の問題で感情じゃないでしょ。

 漢魏革命を認めないぞ!ってのが劉備の即位っていうのが常識なんだけど、別の側面から見ると皇帝即位は孫権との関係解消なんだよね。これまで荊州貸与、雇い主と雇われの関係だった。それが皇帝即位で呉に攻め込んで、皇帝と臣下の関係、上下関係逆転させようってのが劉備荊州攻めの本質かね。

 前漢儒教国家→魏→西晋儒教国家の流れがよくわからんのだよね。儒教を尊重した。国家理念だから、儒教国家だと思いますまるじゃあ作文なんだよなぁ。その儒教化の本質は一体何なのか?その考察がない。そも宗教とは何か、それもない。名士=変則の清流論がそもそもおかしいかな。

 漢室復興と大義を言いながら、誰もやってないからね。結局漢室復興 (実利)―を見落としているから、変なロジックになっていく。結婚式の新郎新婦のご紹介みたいなもんで、その紹介は当然盛っている。その話を盛っている部分を割り引いて史料を読めてないからおかしなことになっているのよね、多分。

 あと、司馬懿がなんか着々とクーデターを起こすような感じで書かれていたけども、あの政治的主張のない淡々と仕事をこなすだけだから信頼されたっていうタイプの彼にそれはないでしょ。曹爽の政治・改革(あるいは本流回帰?)あって初めて司馬懿はクーデターせざるをえなかったんだから。

 名士が後漢政治の要→名士の中心は儒教曹操(も立派な名士だと思うけど)VS儒教→魏VS名士→名士代表の司馬懿による儒教国家晋の誕生。結局一番初めのスタート、立脚点がなんかおかしいから、こういうことになるのかしら?文化資本ブルデューのことを持ちだして説明していたけども、うーん。

 後漢政治で官僚という言葉を使うんだけど、これには注意が必要。帝国・国家の側から見ると=官職から見ると、官僚でいいけど、前漢はともかく後漢になるとその官僚は領主的要素、封建領主的性格が強くなるのよね。上から見ると官 僚、下から=地方から見ると、政治家って要素が強いのよね。その両義性がこの時代、古代史を理解する上で重要よね。政治家・官僚の未文化という。

んで、貴族制というとはじめは封建領主からスタートするわけですよね。国家・帝国内の一貴族が皇帝より強い権力を領内で確立する。ハードパワー政治力・経済力でその地位を保つんだけど、途中から文化力・芸術とかハードパワーと関係ないところの文化資本でその地位を保つようになるわけですね。

 本来ハードパワーによって支配者にあるはずなのに、ソフトパワーというか文化・芸術ですごい才能を持ってるから支配者・貴族として社会上層に君臨するという変な環境が成立するわけです。もっと時代が経ってそれすらなく、単にン十代前から支配者だから支配者という状況が成立するようになる。

 まあ、貴族制にも初期・中期・後期と幾つかパターンがあるというわけですね。もっと変則的なものもあるでしょうし、大体貴族制で連想するのは実力ないのに数百年前から支配者だから今も~という伝統的支配じゃないでしょうかね?門生故吏みたいな人的資産が、先例は絶対という社会構図を支えるわけです。

 ブルデューのところでグローバル化云々見かけたから思いつき。反グローバル化というのはグローバル化、社会構造を変容するゆえに絶対生まれる反動的な動きなわけです。それがないと適応できない人たちは落伍したままですから。グローバル化は反グローバル化を必然的に内包するわけですね。

 ですから反グローバル化を理解しないグローバル化賛成!という立場は本来有り得ないんですね。極論すると弱者・ついてけない奴は死ねってことですから。逆に近代化は変容・社会の再編前提ですから、近代国家を志向する以上、ブータンでもない限り、グローバル化も志向しなくてはならないわけです。

 何が言いたいかというとグローバル化論者・反グローバル化論者いると思いますけど、どちらか一方を主張するというのは本来有り得ないということですね。一方だけを主張するのは本来おかしいわけです。割合の問題になっても、どちらか一方の主張にはならない。そうなるのは本質をわかってない証拠ですね。まあポラニーの話を書いたように、それを踏まえてつい余計なことを書き足しました。

 文化資本=名士?知識人のことを言っているのだろうか?経済基盤を有する豪族は利害にとらわれる。そうじゃないのが名士っていう考え方?つまり私権じゃなくて天下国家を考えられる儒教的知識人が名士っていうことなのかね?公益と私益は必ずしも矛盾しないし、地方によって名士同士対立する筈だけどね。まあ、ようするに渡辺さんの名士論はよくわからん、ということね。

 そうですね。赤壁のちょっと前まで孫権(呉夫人)状態で中の人は呉夫人、殆ど彼女が主君でしたからね。張紘のパイプとか考えて敵になるという発想がなかったんですかね。孫呉とは外交関係で別に敵対する要素もなかったし、上手くやっていたし。彼女が死んで何も出来ないだろうと思ったら、周喩が出てきちゃったわけで。

 孫権中立想定論が一番妥当なんでしょうね。しかし周喩をどう見ていたのか?二世三公だから大人しく帰順して出世選ぶだろう、ですかね?いずれにせよ荊州と違い呉はあんまり内実調査してなかったのかな?やっぱ。

 曹操政権の外交綱渡りの性質を否定しませんが、最大勢力は袁紹で彼が勝った場合と曹操が勝った場合では、後者の方が周辺の弱小勢力にとっては都合がいいですから、彼らは基本曹操に協力する。そこまでギリギリの綱渡りという気はしません。結構理があった綱渡りでしょう。やっぱり孫権がこれまで中立&主君の呉夫人が亡くなったというのが大きいのでしょうね。

 赤壁のダメージがどのくらいかわかりませんが、被害より挑まれたという事実のほうが大きい気がします。すんなり統一されない=内外からイケる!と反曹勢力を炊きつけてしまいましたから。統一後のプラン・戦略が根底から狂ってしまいましたからね。

 孫権中立が外れても別にいいんですけど、それならそれで、どうして引き返さなかったのか気になりますね。敗れたら統一プランが崩壊するわけで、やべえ孫権出てきた。一回江陵帰ろうで良かったはずなんですよね。そっちが気になりますね~。

 なんというか被害もそうなんですけど、結局のところ戦争に持ち込ませちゃダメだったという所に帰結するかと。本来引き下がって一年荊州固めてからという策を取れないような環境だったからこそ、赤壁→大敗→三国っていうことなのかな?と。

 個人的には周喩魯粛孫権のホットラインがあって、周喩の独断・勝手じゃないと思うんですよね。妄想すればもっと前から劉備魯粛は繋がっていた。であるからこそ素早い提携が可能だったという気がします。

 まあ、かなり?と思うところが多い本でした(汗)。明帝が司馬懿警戒してたら普通に要職から遠ざけておしまいだろうと。儒教というか、それぞれの派閥が必ずあるはずですから、その差異を比較しないと意味が無いというべきでしょうか。官僚とか政治家くらいにざっくりと分類しすぎていて…。そこから~~派とか分けて分析深めないと意味が無いんじゃないかと思いますね。

 

※おまけ

夜の垓下の戦い(意味深)ですな。色小姓っていつまでいたんだろう?恵帝で終わっちゃったのでしょうか? RT@Golden_hamster[前漢]男の娘 http://t.co/ZkzIk8lj

 哀帝が寵愛した男に位を譲ろうとしたという話を受けて>なるほど、それは哀帝を是非調べないとwktk弓削道鏡真っ青っていうか、多分孝謙天皇がこれを参考にしたんでしょうなぁ。とすると王莽の前に既に禅譲ルートが引かれていて、否応なくそれに乗っからざるを得なかったという見方もできますなぁ。面白い。

 多分きっと、儒教の教によって衰退した国運を復活させよう!今じゃメテオ(ry的な感じで、禅譲を真剣にやろうとしたんでしょうね。んで哀帝にとって都合のいい何か要素がその男の娘にあったような気がするんですね。そこのところを調べると面白いことが分かりそう

 という着想を得てこんな時間に興奮してきた。もちろん男の娘にでは ない(笑)。渡辺センセーの新刊の感想書くより、こっち先にやろうかな。もしかしたら禅譲後→漢復活とかそういう思惑なんかもあったかもしれんしね。革命を下からではなく上から皇帝が主体的にやるという着想は面白い。