魏書釈老志
- 魏書釈老志 (東洋文庫)/平凡社
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解説p20、仏教3老子1の割合。
p23、北魏~東魏の仏教教団腐敗への批判が書かれている。北斉も同じ傾向有り。道教は寇謙之一代だけ。仏教の隆盛とそれを政治権力の側から操りにくいために、その対抗としての道教の意味合いがあったか?廃仏や唐の道教国教化など君主権強化と仏教化の必然で二項対立で見ることが可能だろうか?
p25、政治の中心大同・洛陽・鄴の三つ。大同はどうなった?洛陽が☓で鄴が残っていたというのがポイントか。鄴は洛陽と違って混乱してもすぐやられて崩壊したりしないからなぁ。
p28、洛陽伽藍記、霊太后胡氏の父胡国珍が80で仏行事。のち四日後に死去。強い仏教とイベントへの思い入れ。父の死がこの太后体制の崩壊のきっかけかな?西域の僧がこんな精麗な大寺は世界のどこにもなかったと感嘆する。寺の大きさは関係ないはずだが、とにかく彼女の永寧寺というでっかい寺が意味を持っていたのは確か。
p33、奉仏興仏寺、建築競争。任城王澄はこれによって寺が民居の3分の1を占めるとした。寺院の私造の厳禁。よって他にも仏教抑圧主張が増える。北魏から北斉は二度クーデターを経ている=不安定。西魏にはそれがない。北周もどっちかって言うと禅譲に近い?北から軍人が中央を破壊したという図式の有無が大きいのではないか?石窟とか仏教=中国人だったこと。その重要性始まりは宋から?(もっと前か?根本的に変わる。ご飯とお好み焼きの関係=儒と仏で矛盾しない両教信仰という形態。そもそも中国に儒と仏が矛盾する。どっちか一方の思想・信教しか許されないという考えは唐末の韓愈頃に始まるもの。朱子学はある種の儒教の一神教化だといえる。)
p49、高歓も奉仏。爾朱は違うのだろうか?反乱の要因かな?反仏教か?
p60、伽藍記には、貴族仏教である東魏の鄴仏教への粛清願望が込められている。
p73、北斉鄴の寺四千、僧尼八万。講席二百万余、常講一万人という栄えっぷり。儒学の英俊も出家や聴講。
p78、孝文・文宣の時の僧たちは信任されても出世を求めなかった。しかし僧官でも栄達を望む傾向に。慧光系と道寵系の派閥対立。
p81、平安仏教・貴族諸説法要中心に対して反発した聖から親鸞・法然が生まれたように同じ反発・実践仏教への流れ。
p87、武成帝、造営・売官・奢侈。皇太后胡氏は曇献と通じた婬婦。太后のもとにいた尼二人が男だったので曇献は処刑された。北周武帝によって全教団廃毀と。
ほんとうに短いメモ程度やったね。