てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

曹操=袁紹路線、周公旦・霍光になる可能性

選挙前でも関係ないことを書く、(`・ω・´) キリッ。

 曹操の公国から世襲したい!世襲認めてよぉ!っていう大きな流れがあったんでしょうね。晋の王国制もつまる所その延長と。世襲化して身分制度にしないと治まらないという背景があったんでしょうね。妄想すると曹操が特定の功臣とかに世襲を容認するような制度にしていたらどうだったのかなぁ?と思いますね。無論皇族第一になるんでしょうけど、そういうシステムなら魏晋革命を防げたのかも?率先して貴族社会のようなシステムを曹操は導入できなかったのか?そうしたらどう変わっていたのか?まあ遊牧民の南下・内紛になったでしょうけどね。大体普でも司馬家以下の世襲ががっちりした形であったわけではないですしね。

 冀州に魏を作ることが曹操の権力に最も貢献する。これまでの屯田制とか考えると権力基盤は兗州や故郷周辺にある。普通はそちらに領国を作るもの。しかし冀州を選んだ。君主論で言うように、獲得したての新領土は君主自ら移り住むべしという原則なんだろうけど、曹操にとって冀州支配は容易だったのだろうか?

 204年冀州牧で、208年赤壁、213年魏公。公国に昇格するまで9年かかっている=それだけ冀州統治が難しかったということなのか?公告というさらに独立した権力を築く形でないと収まらないという状況・背景があったのか?実際は、赤壁が間に挟まってますし、公国設立というのが当初の予定に入っていたがどうかも不透明なんですけどね。どうなのかなぁ?あながち袁尚の袁家の支配は覆せん!というのはホラじゃないのかも。

 そうか魏公路線、公国設立というのは当初の路線ではないと考えたほうが自然なんだよな。荀彧がこんなのは君子の取るべき道ではありませんぞ!なんて怒ったんじゃなくて、本来の曹操&荀彧プラン、当初の戦略図からズレたから反対したんだよな。禅譲とか漢朝への忠義とか全然関係ない話だな、これ。

 とすると魏公国は曹操の強さというより、弱さの表れと捉えるほうがより正確なのか。どうしても公国じゃないとダメなら、冀州牧じゃなく魏国建国をもっと前から準備してただろうからなぁ。袁紹禅譲は考えていなかったし、荊州も降伏孫呉も降伏。するとそもそも馬超も反旗を翻さない。そういう天下統一の権威が出来たら、多分曹操は魏公とか就任しなかったんでしょうね。

 魏国→禅譲というのが本来無いプラン、アクシデントというか偶発性・異端とするならば、まあ当然システム的にどこか無理があるわけで、晋の登場はそれを克服するという要素があったのかなぁ?

 やっぱり問題は「軍部」の問題に尽きると思うんだよね。曹操政権といえば軍部・軍閥ということになるのだけども、本当に魏という器は彼ら軍人のためだったのだろうか?それもあるがむしろ軍部封じ込めという要素もあったのではないか?

 魏がなければ、軍人の生活が保証されない。その安定のためにという要素。それともう一つ。曹操死後、軍人が好き放題暴れだすという要素を無視できなかった。日米安保のビンのフタ論じゃないけど、そういう二面性があったのではないだろうか?要するにシステム化によって、曹操死後の社会を安定化させること、安定の確保こそが本質。

 そういう面もあったと思うのよね。だからこそ青州兵なんか暴れだしたし。もし魏という器が存在しなかったら、もっといろんな軍人が「曹丕?あんな小倅相手になるか!」と袁尚のように見捨てられた可能性が高い。まあ袁尚曹操のように孫権劉備曹丕となる状況を作れるかは疑問だけど、可能性はあるからね。どうも根底から南部・江南が長期独立を選んで中央に対抗してくるという思考をしていなかったとしか思えないですね。

 要するに曹操の勝利とか、軍人の勝利とか一面的に見たらあかん。むしろ魏建国が妥協の産物なんだろうね。名家と寒門、文人と軍人、既存階級と新興階級そういう対立を安定化させるための装置。曹操としては革命してやるぞ!皇帝なったるデェ~!という野心よりも、あらゆる妥協の産物、安定化を求めた路線なんだろうねぇ。傍目に海賊王くらいに見えるが、実は公務員みたいな。

 青州兵の反乱は象徴的な事例だが、半分宗教勢力とも言える彼らが反乱を起こしつつも、それほど大きな勢力に広がらなかったことを考えると、曹操の事前の対策、教祖張魯みたいな組織化がうまくいったんだろうなあ。魏以後は統治階級にも広がってたみたいだし、温和な方に行ったんだろう。こういう組織化もやはり冀州の治世が難しかったから安定化させるために導入したのだろうか?

 そもそも民衆の生活が安定すれば変質する。第一の目的は生存だったろうからね。亡天下状態が回復されれば、強硬的な軍事勢力は自然と衰えていく。槍から鍬へというやつだ。魏というのはやっぱ「槍から鍬へ」の過渡的性格を持ったんだろうなぁ。その移行が完成した結果が魏晋革命かな?

 もし曹操孫呉降伏で乱世おしまいチャンチャン状態なら出身地は劉邦みたいだけど、統一の功績からやっぱり光武帝になぞらえられたんだろうな。もしくは劉邦2+劉秀8みたいな感じ。袁紹光武帝ルートをまんまパクったんじゃないかな?袁紹がそ光武帝路線を整備していただろうし。

 統一の功績→光武帝になぞらえる→霍光どころじゃない興国の功臣として曹操の名前が残る。10年も絶対的権力を握って、改革をする時間があれば、それで十分ということなのか。曹操出身地的にも劉秀だもんな。劉備劉邦になぞらえて漢中王を名乗ったのもその光武帝路線反対!のスローガンなんだろうなぁ。南に近い出身地の曹操に、呉が反旗を翻すなんて思わなかったんだろうか?

 軍隊・軍部としては曹操赤壁もなくて、活躍の余地もなく外交のみで乱世が終わってしまったら一体どうしたんだろうか?あっという間に膨大な失業者が発生してしまう。まあ暫くは小さな反乱とか多少仕事はあるんだろうが。赤壁で一番喜んだのは曹操配下の兵卒かもね。赤壁は最大の公共事業という所か。

 不可解な孫権荊州攻め、関羽狩り。&漢ではなく曹魏を選択し、降伏したというのもこう考えるとすんなり理解できる。不安定な曹操死後の社会を安定させようというのは軍人の溜まり場のような孫呉からすると至極当然の発想だから。孫呉末期の混乱も軍人政権の文治化という側面があるんじゃないか?

 曹操の魏公国→漢魏革命のステップに最も貢献したのは実は孫権劉備なんだよなぁ。劉備孫権が逆らわなかったら、曹操は魏という器を作る必要がなかった。それで二人が漢朝復古!なんていう大義名分を掲げているんだから矛盾もいいところですわ。漢朝復古(相手は死ぬ)ですね。

 劉備の入蜀、漢中王宣言は劉邦になぞらえた行為で前漢回帰。袁術董卓路線ですね。んでVS曹操=劉秀という図式。山東・北海勢力と汝南・頴川(南陽もかな)勢力と長安・関中勢力の三大勢力の長安系・山東系連合という非常に変わった政権だなぁ、劉備政権は。大抵汝南・頴川系が必ず入ってるのにね。

 劉備の入蜀で司馬懿劉曄の「今攻めちゃいましょう!」という進言は別の意味がある。もし蜀を落とすことが出来れば、蜀から荊州→呉攻めor呉の降伏で統一の目処が立つ。元のプランに回帰できる可能性が出てくる。もちろんそのリスクは非常に大きいのだが。この二人は本来の路線に戻したかったのか?荀彧系統の人だしね、司馬懿は。劉曄もそうだったっけか?

 そんなことを考えると、魏公→魏王には別の意味があるかもしれない。魏公の時点では漢朝体制と魏システムは併存可能だった。魏公で最悪の場合もカバーできる保証という意味で、革命はまだ100%じゃなかった。そしていよいよタイムリミットが迫って魏王という事に本格化したということではないか?

 魏公就任は、結果から先に見て、魏王・禅譲のワンステップと見えてしまうが、必ずしもそうではないという要素を見落としてはならないのではないか?無論保険だから、魏王→魏皇帝という要素も孕んでいるんだけども。併存路線も含んでいた。そのルートの両義性を見落としてはならないだろう。曹操の体調次第でやっぱや~めたになってたかもしれないですからね。

 しかし淮南の反乱なんか見ても軍人・失業者問題というのは容易に解決しない根が深い問題。曹操が統一に成功したら、一体どうするつもりだったのだろうか?門生・故吏みたいにコネで曹家ネットワークみたいのを築いて、何とかしたのか?袁紹曹操もやっぱ中原の人間。中原第一であとは辺境感覚なのかな?

 袁紹の本来のプランだと、漢の臣のまま再建するはずだったんですよね。多分それを曹操もそのまま踏襲すると思うんですけどね。霍光みたいに事実上の皇帝みたいな形で終えた可能性もあると思います。まあ袁紹なら可能で、曹操には無理という要素がどれくらいあるかがポイントかな。

 曹操系の人間でその政策立案に進めていたんでしょうね。曹操系の功臣で朝廷が占められれば革命せずとも軍人系の身分も保証されただろうし。軍人としての曹操という面と政治家としての面、後者の曹操を考慮すればそれも可能だったんじゃないかな?既存体制内でもイケるっちゃあいけるのかな?と。コネも何もない遊牧民なら100%新王朝なんでしょうけど。

 曹操のキャリアでは不可能なのか、それとも可能なのか?このプランは袁紹しか出来なかったことなのか?そこが重要なテーマで非常に興味深いポイントですね。

 まあ、ですからかなり微妙に揺れ動いていたんでしょう。統一の目処がサッサとたってしまえば、既存体制内の絶対権威者として改革でおk。統一が進まず時間が足りなくなるなら革命へと。赤壁で権威が傷つかなければ曹操に意見出来る者は朝廷内でいなかったはずですしね。

 軍隊を基盤として乱世を治世にまとめあげた以上、革命抜き=新王朝なくして終わらないという意見は以前から己が思っていたことなんですけど、袁紹光武帝モデル。漢王朝の重臣、中興の祖という可能性がある以上、そちらの可能性を当然検討しなくちゃいけないですよね。

 袁紹プラン=光武帝路線を引き継いだ曹操がどうするのか?本当に禅譲路線に行くのか?それとも袁紹をなぞるのかっていう可能性を検討しなきゃならないと思うんですよね。曹操はそもそも袁紹と同じ政策グループにいた仲間で、彼が袁紹にとって代わってトップになって、その政策集団を引き継いで、既存路線を踏襲することはありえないことではないですからね。

 梁冀とかは禅譲で目的を達成しようと思ってた存在ですが(禅譲は手段でその後改革を実現化というプロセス)、曹操は既に権威を備えて目的を達成してますからね(禅譲は目的冠水、安定化の最後の儀式という感じ)。やっぱ自分一代じゃ無理だor既存体制とどうしても折り合いつかないとか、そういう要素があれば革命でしょうし。可能なら改革で、子孫に世襲させないとか、あるいは袁紹のように子孫潰しのリスクを覚悟をするんでしょうしね。

 まあいずれにせよ、魏王という器・装置は曹丕に即、禅譲で新王朝開いちゃいなよ!みたいなモノではなかったのは確かでしょうね。短期間で統一を達成して、第二の曹操になれないから革命・新王朝に移行するしかなかったんでしょうね。

 繰り返しますが、曹操のキャリアで漢王朝再生は可能になるのか?周公旦や霍光のような並ぶ者な摂政として、漢王朝のもとで執政するプランはありえなかったのかを見落としてはならないと思いますね。このプランは袁紹でしかありなかったことなのか?そこが重要なテーマで非常に興味深いポイントですね。

 ※ああ、あと袁紹はあの時点で重要なパートナーの劉表生きていましたが、蓋勲とかそういう仲間・同輩がいなくなっていますから、そこら辺どうだったんでしょうか?まあ袁紹なら下の人間にも顔が利くから、中原とっちゃえば自分たちの意見をはっきりしていない、日和見の下の世代をツキ従えさせることができるんで、なんとかなるんでしょうけど、監察系のパイプでつながっていた劉表が仮に早く死んだとしても物事をうまく運べたりしたんでしょうかね?