てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

面白いほどよくわかる 世界の宗教/宗教の世界 著ひろさちや ―を読んでのコメント

面白いほどよくわかる 世界の宗教/宗教の世界/春秋社

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 ひろさちやさんの『世界の宗教/宗教の世界』と柯 隆氏の『中国が普通の大国になる日』の読書メモが溜まってるんで公開。

 ひろさちやさんは大乗仏教の信徒だからか、その視点から分析しているから非常に偏っているというか、独特という感じがした。もちろん偏りもなく公正中立みたいものは何の味気もなくつまらないものだと相場が決まっているものだけど。ホンモノ・ニセモノ宗教みたいな定義はあまり有効でない気がする。

 多分、己は社会や歴史背景から宗教を分析するから、この人の視点・宗教学はあまり有効でないと感じるのだろうけど。宗教・信仰といったものを第一に考える人から宗教を論じるとこんな感じになるのかな?とある種納得。

 初めて宗教学の講座が設けられたオランダライデン大学のティーレ教授の宗教の定義は<神と人との関係>。マクスミューラーは<無限なるものを認知する心の能力>シュライエルマッハーは<ひたすらなる依存感情>と定義している。きっと神だけでは捉え切れない宗教体系によってこうなっていったのだろう。

 無論、この定義が正しい、正解などというものは存在しない。しかしウェーバーの宗教の定義、エトス・行動様式に触れていないのはなんでだろう?この時点で正直宗教学の研究としては不完全なものになると思うのだが…?社会学の視点は完全に無視なのだろうか…?

<余談>

 そういや宗教社会学なんていう言葉があるけども、そもそも社会学を抜きにした宗教学って存在しうるのだろうか?それは神学ではないのか?社会学から独立して宗教学単独で存在する意義があって、きっちり領域がわかれている・住み分けがなされているのだろうか?うーん。

 無論ここで己が使っている「神学」という言葉は宗教の論理・教理を研究するという意味でして、仏を扱って神じゃないから「神学」ではないという意味ではありません。広義の意味ですね。いろんな宗教に当てはまる用語、神学・仏教学などをも包括して一般化・抽象化する用語としては宗教の教理を研究するという意味で教学」なんかふさわしいんじゃないかな?という気がしますけど、どうでしょうか?メキシコにふく風の熱風という意味でサンタナというのがふさわしい理屈と同じですね(どこがだ(^ ^;))。

 社会学からすると宗教社会学として分析される、社会学以降はそれぬきにして有効な機能を考えられなくなったと見るが、思想・哲学の観点からするとそれ単独で研究する価値・異議ありとなっているのかなまあ個人的には宗教社会学>宗教学でもはや飲み込まれてしまったと考えるんですけどね。

 宗教学単独で有効なことが言えた時代はもはや終わった、仏教とかキリスト教とかそれを専門でやって、おお!この人はすごい!というロジックを打ち出せなくなっていると思いますしね。無論そういった研究の積み上げを応用せずに宗教社会学はありえないんで、どっちが上とかとかそういう話ではもちろんありません。

 宗教社会学はそれによって新しい視点を提供し、その新しい知見宗教学は応える。またそれはこういうことではないか?と違った答えを提供したり、先の新しい視点が出てきたので、宗教学はこれを解き明かさねばならない→社会学右宗教学→∞―という風に相互連関してお互いがリンクして初めて有効な分析を出来るものだと思うんですよね。お互いなくして成り立ち得ない相互依存関係にある、共存が不可避な体系にあると見ています。

 というかこういう時代になって、学問性複数領域にまたがって研究する重要性が高まっている時代に、宗教学の人、一つの宗教を専門に研究している人があまりにも他宗教との関係性、宗教社会学相関性を軽視しているのではないか?という気がしてならないですね。まず相互連関の重要性を認識しなきゃいけないのにそれがかけているんじゃないかという気がしてならないですね。最近そういった人達の言説に触れる機会があって、その視点の認識が殆ど無いような気がしています…。

 だからこそ不思議なキリスト教で「このキリスト教理解は正確ではない」というような見当違いな批判が起こっている気がします。

<余談おしまい>

 イスラム教徒に「今食べたのは豚肉だよ」と日本人が冗談を言ったら、全部吐き出して引きつけを起こして救急車に運ばれたというエピソードは、日本人との意識の違いを示すいい例だなぁ。おそらく日本人で言う「人肉」にイスラム教徒の「豚肉」は当てはまるんだろうね。

 政府が目的を持って創ったから国家神道をニセモノ宗教、初期に宗教ではないと宣言しているし、戦後に天皇人間宣言をしたから、まさしくニセモノとか国家神道系の人が聞いたら訴訟モノだなぁ。国家神道の人がこれを見てどういう反応、あるいは反論をするか気になるところだ。

 この人のロジック、ニセモノ宗教・ホンモノ宗教で気になるのは、じゃあ仮に戦争に勝って国家神道が存続した場合、んで日本が豊かになっ国家神道の信仰者が日本で圧倒的多数で国民が幸せ!と感じている状況でもニセモノになるのだろうか?(無論、その後の問題、社会病理の登場で国家神道は叩かれ揺らいでいくだろうけどね、キリスト教が今でも欧米の信仰の一番手であるように残り続けることは間違い無いだろうし)。

 そもそもイスラムは宗教と政治は一致している。ニセモノ宗教の要素がゼロとはいえなくなる。そう言われたら、氏はどう答えるのだろうか?まあ作品いっぱいあるので、そこら辺で論じられているかもしれませんが。

 政治と宗教は無関係ではありえなかった。近代化してもセンシティブな問題で在り続けたし、政治と宗教の分離の原則が成立したのもつい最近。政教分離原則も政治が宗教に関与すべきではないであって、宗教が政治に関与することは世界の常識。政治的性質を軽視、スルーし過ぎだという気がするなぁ。

  競争・資本主義の論理を欲望を煽るものとして否定している。ふむまあそりゃそうか現代の宗教需要、心を癒すのはまさしく近代化=個人化=資本主義社会化のそれで傷つく、孤独になることだからね。でも片手落ちという気がするんですよね。そういう性質が現代には不可避だよ、とかワンクッションないんだよね。資本主義&民主主義滅べ!消えろ!なんて土台無理ですし。

ユダヤ教でも豚肉は禁じられている。ユダヤ教の食物規定は数多い、その中でイスラムが豚肉を禁じたのは環境問題や伝染病などもありそうだが、階層の問題なんかありそうだな。豚の肉食が産業化すると食べられるものと食べられないもので階層がより開く。社会が不安定化してしまうとかそういうのがあったりしないかな。

 中国人が豚を好んで食べるということの裏返しかもしれんなぁ。無規範な紐帯を作ってしまうから好ましくないとか中東の事情で成り立つのかも?あとは人口が過剰に増えてコントロールしきれなくなりやすいとか?色々考えられそうで面白い。

 豚肉を食う都市の人間と、豚肉を食わない草原の人間で全く違う行動様式が生まれやすい=広範なエリアを支配する国家の内部分裂を招くとかもあったりして?もしくは伝染病で遊牧民と交流ができなくなるからかな。ヤーウェとユダヤ民族の契約が不平等、一種の敗戦・降伏条約と見る人もいるのか、なるほどね~。

 ヒンドゥー民族宗教で外国人は寺院の参拝を許されない。昔の日本も神社で外国人の参拝が許されなかったところがある。だが民族宗教特有なユダヤ教国家神道のような選民意識はないと。国家神道に選民が教義としてあったのか?という気もするけどなぁ。臣民=現人神の奴隷とか、それは穿ち過ぎでしょ。神の平等な奴隷という発想が身分制度の打破、人権の基礎となったこととか知らないのかな?

桓玄が慧遠に必勝祈願をお願いする。祈祷が終わった後で曰く、私は敵の将軍の必勝も同時に祈りました。仏教はかくも政治に関わらない。立派といえば立派だが、政治が滅べば宗教=理想もクソもない。バラモンが政治的意味をも持っていたのと考えると仏教が廃れるのは当然か。現実の支えなき理想は廃れる。

 仏教は常に政治から距離をおいておくべき!うーん、戦争の時の協力を非難しているが、むしろそれが普通の感覚だったろうからなぁ。宗教の自立、教団の自立という話にもつながってくるんだろうけどね。あの時代の宗教環境考えるとそうなるのは当然でしょ。その反省生かしてどうするかのほうが重要。

 現代ならともかく、宗教が強力な社会勢力となっていた当時において、宗教つまり教団が、政治と係るなってのはまず無理がありますからね。政治権力と独立した領域を保ってられるってのはまずありえないですから(ですから逆にその独特の事情、西欧で教会が独立して存在したという特異性が後の民主主義&資本主義&近代化を生み出したことになったんですからね)。仏教がインド・中国で廃れていったのもそのためでしょうね。逆に日本で畸形となりながらも生き残っていったのは政治に関わったから。

 本来非政治的な仏教が独自の変化を遂げ「日本仏教となった。もはやこれは新興宗教で仏教とはいえない。仏教足り得ない。仏教に似た別物、日本初の宗教と見るべきだろう。この新宗教、新興宗教は、本来の狭義と違う!インチキじゃないか!ニセモノじゃないか!邪教!カルト!って思いがちだけど、社会上の要請があったわけですからね。

 インドどころか中国という超大国ですら仏教が滅んでしまった…。とば次は我が身と日本仏教界がそれに応じたリアクションを取る、社会の問題を解決する社会組織として生まれ変わる、現実化路線を歩むのは至極当然の流れでしょうから。

 どうもそういうことをあんまりわかってないのではないか?という気がしますねぇ。文章を読んでいると、すなわち前述の宗教社会学視点不在だからこうなるのでしょうか?

 イスラム教ユダヤ教ヒンドゥー教・神道は日常生活を規定する「生活宗教」(おそらく儒教も、儒教は多少弱いからその分を仏教・道教で補っているとも言える)。マヌ法典に生き方の指針が書いてある。神道も明文はなくとも世間の慣習法となっていた。仏教の彼岸の論理もそれに似た効果があったはずだが葬式仏教化してしまった。日本の問題はその2つが廃れたこと。

 リグ・ヴェーダに最高神という観念はない。神は皆横並び。特定の祭祀毎に特定の神が交代して出てくる。故にマクスミューラーは交替神教と名付けた。バラモン教は知識階級を担い手にしている。ヒンズー教はそのバラモン教の民衆化。主要三神も皆同じで役割毎に出てくると考える。

 ブラフマーヴィシュヌ・シヴァも性格の違いにすぎないと。しかしそれぞれの神が結婚しているとなると、そこら辺はどうなるんだろう?奥さんは優しい時もあれば、怖い時もあるだろうその違いだって説明しているけど、子供もそう説明するのかね?ややこしくないのだろうか?

 バラモン教リグ・ヴェーダはご利益と祟を回避する呪術だが、ヒンドゥー教の後期になるとバクティという熱烈信仰・信愛と訳される思想が出てくる。利益を排除した神への愛。神が上位で、一神教絶対神に近い発想なのか?そこにご利益を求める気持ちはない。バガ・ヴァッド・ギーターに出てくる。

 日本人は楽天的欧米は悲観的、英語でWeatherは荒天を意味する。良い時はfine weather。薬は毒から作り出しだものだから副作用があるんが当たり前。言霊信仰で日本人は悪いところから目をそらすから薬害が何度も起こる。悪いことは起こっていけないという姿勢だから目をそらし続ける。

 十年前の原発事故の対応のまずさ、説明が二転三転して明確な対応が出来るようになっていない。これを見て、なんどでも同じ問題が起こると既に予見していた。言霊信仰で悪いことには目を向けない。しかしそれはそれとして信賞必罰を徹底しない理由にはならないからなぁ。言霊は有効な説明にならん気がする。

 釈迦の真意は教団が大衆にも布教をすること。しかし小乗仏教は自分達の悟りのための教団になってしまった。だから大乗が生まれた。大乗では如来=人間を超越したものとして扱われる。釈迦の入滅から誕生に四~五百年かかっているが、キリスト教など一神教絶対神の影響を受けたのだろうか?

 釈迦は太子でも輪番制の王国だったから、王位を継承できたとは限らない。マガダ王への仕官も断っている。イエスの悪魔にパンを出せ!とそそのかされたように宗教の政治との決別を意味する。宗教と政治が同義だった古代においてきっとこれはコペルニクス的大転換だったのだろう。

 宗教が政治から独立する!この歴史的重要性は強調し過ぎても強調しすぎることはない。ユダヤ教民族宗教、そこからさらに政治を切り離したというステップアップこそキリスト教の凄さがある。仏教も政治を切り離したが無論廃れた。日本仏教のように政治と再び結合しない限りは。そしてイスラムの登場を論じるまでもなく、再び世界宗教となって広まる一神教政教一致だったことが何より、宗教と政治の結合の重要性・不可避性を物語る。

 そもそも前近代において宗教と政治は密接不可分という当然すぎる事実を見逃しては何もわからなくなるのだろう。こういう当然の重要な事実に気づけたのは収穫だった。宗教と政治は近代まで同義ですからね。

 キリスト教では貧しいものこそ幸いだし、仏教でも欲を否定している。古代では消費は悪だから、こうなるのが当然である。が、近代化以降社会状況が全く違う現代において、古代に基づく宗教の本義を探っても、現代に有効な宗教として機能しうるかといえば、ちょっと違うと思う。その理解に欠けてると思う。

 呪術的な道教、「民衆道教」と「教団道教」がある。もちろん民衆道教は「生活宗教」。ふむ、儒教はある意味教団宗教であるが、民衆宗教や生活宗教の性格はないとは言わないが乏しいといえる。儒教道教の二重宗教があるから二重規範になると説明しやすくなるかな?

 重要なのは仲間意識であり、平等意識。競争はそれを壊す。彼岸に目を向けるべき…。うーん、どうも社会学、近代化の本質を押さえていないから有効な解答になってない気がする。大乗仏教が脱葬式仏教になってプロテスタントのような新教を!というのはわかるけどね。まあ、こんな感じでおしまい。