てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

宗教はすべからくカルトである、カルトでなければ大成しないという話

キリスト教本質的にカルトである。というツイートをしたのでそれをまとめました。

 比較社会学的視点の話で、決して宗教学なはなしではありません。まあその両者で「カルト」がどう定義されているか知りませんけども。

 ※追記、「カルト」というのが本で何を指しているかちょっとわかりづらいので補足。カルトというのはインチキ宗教というのではなく、非合理的ロジックで信者の願望を達成しようというものですね。世に言うカルト宗教、宗教をベースに信者から金をむしり取ろうとするニセモノ宗教という意味で使うカルトとはちょっと意味合いが違います。その宗教を信じれば救われる、普通ではかないっこない願望が達成されるという意味ですね。

 というのもカルト的性質がない限り宗教というのは広がらない。社会の需要を満たさないんですね。宗教は本質的にカルトである。というかカルトでなければ社会的に力を持たない、意味が無い。ユダヤ教は信仰すればユダヤ人が世界の主役になる!という論理キリスト教は信仰すれば来る神の国で祝福されるという論理。そこに論理性はなく非合理・非論理的であるのは言うまでもない。どうみてもアレである。面白いことにイスラム教は緑園(来世※正確には一神教にはあの世という発想がないので、最後の審判後の世界)での祝福がありながら、現世での救済が約束されている。

 性質の異なる二つの世界の救済のセットという変わったロジックを展開しているいわば来世&現世の二本立てと言った特異性がある。彼岸の論理だけでなく、此岸の論理が盛り込まれているところから、イスラムはより現実世界をテーマにした一神教であるといえる。

 イスラム教一神教でありながら「来るべき救済」を約束するのではなく、現世救済を約束するという点で既存一神教と一線を画す。イスラムの論理が三位一体などわかりにくい論理ではなく、極めて明確な論理であるのも、奇蹟がないのも特徴。実現不可能な願望を信仰によって叶えようという性質は薄い。

 イスラム教は前二者と比べ、カルト的性質が乏しくなっている。にも関わらず過激主義と呼ばれる存在がカルト的行動を取る。この矛盾が非常に面白い。カルト教理がないため論理が転倒していく。イスラムの教理を貫徹すれば現世救済・幸福になるはず→実現しないのはイスラムの教理を妨げているから→ムハンマドの時代に帰れ!

 ―と本来の教理にないカルトがたちまち姿を表してイスラムの説得力ある一つの顔として定着してしまうようになる。宗教の教理にカルトが内在するから宗教は危険なのではない。社会に危機があれば、宗教は細胞が生体反応から風邪をひくが如く、カルトとして社会を変革しようとその姿を変えていくのである。

 オウム真理教の教義が危険というより、オウムがカルト化していく、カルトの論理が表面化して、それが説得力あるように受容されてしまうこと。そこに本質があるといえる。オウムは社会の危機の生体反応のような側面がある。それを論ぜずして、解決せずして、オウム問題は終わったと言えないだろう。

 仏教というのはこれまた興味深い。宗教の教理にカルトがない。ブッダの解脱、欲望を抑える論理に出て来ようがない。このカルト性の無さがインドに定着しなかった一つの要因かもしれない。事実中国、日本では教理より加護・現世利益が求められた。浄土教法華経もカルト的要請から派生したものだろう。仏教と言えども社会の要請する非合理的・実現不可能な願望を達成したい!という欲求を無視できない。仏教の新展開はカルト的要請に応えたもの。

 こんなことを考えるとプロテスタントの登場をまた別な性質から解説できる。彼らは現世救済ではなく神の国での救済を求めた。厳しい戒律下の暮らしを重んじた。厳しい戒律、また投資・計画的労働で富を増やすことに価値を見出したわけだが、こうすることでカルト的要請を「個人の能力と努力」の枠組みに制限することができたわけだ。これは非常にうまいやり方だと感嘆する。集団での行動・目的達成がカルト教団の特徴だが、個人である以上カルト的暴走はない。

 ―と思うのだが、プロテスタントにカルト化はありうるのだろうか?無知なために知らないのだが、興味深い所。こんなんを徒然つぶやいていたらプロ倫を放置していたのを思い出した。朱子とThe sino-soviet splitを読んだらやるかな。いい加減終わらせたいし。

 日本でキリスト教が広がらないのは、新仏習合、神道との親和性とか、戒律嫌いとか言われますね。現世利益もポイントなんでしょうけど、今のような社会では連帯を作り出す組織が入り込む余地はありますから(社会に需要があるから)地域密着で貧民救済に勤しめば結構布教が広まるんじゃないかな?と思わなくも無いです(曖昧)。まあ、戒律が嫌いというか、要は拘束されたくないんだろうなぁ。政治もそうだし、宗教も社会組織・団体として大きくなりたいのなら「メリットを多く、拘束は小さく」という原則を守らないと無理だろうなぁ。

 連帯を作り出す場であるはずの教会が、なぜその機能を果たせないのかは興味深いことです。答えは簡単、日本の場合自分だけ救われればいいと思っている所がどこかにあると思います。それを、他者も救われてほしいという方向に持っていくことも宗教の役目ですね。

 日本の場合宗教を中心として共同体・縁を作るというのが文化的にこれまでなかったですからね。一神教圏ならフツウのことですけど。教会にしろモスクにしろそうやって共同体を作るのに必要な財源がない、パトロンがいないっていうのが大きいってのもあるんじゃないでしょうか?

 一連のツイートつぶやくうちに、本質的っていう表現は強すぎるなぁと自分でも思いました(笑)。本質的っていうか宗教には必ずそういったものが内在される。社会が要請した時にはその面が発露する―とかそういう言い方のほうが適切ですね。

 なんというかカルトと言っても、社会を健全化せしめる上で付随する不可避的な現象としてのそれと、全く関係ないただ教祖の個人的欲望として発露するカルトというかそういったカルトもあって、それをわけて論じないとわかりにくい話になるな~。前者を「カルト」という言葉で説明するのも誤解を招きそうだし。

 宗教の「カルト」化。社会病理を癒そう!社会を健全化するぞ!というロジックは民主主義のロジックにちょっと似てるんだよなぁ。革命権を考えるとそういうところが確かにある。ときに暴力をまとって現れてくるのが民主主義。だとすると民主主義を一種の宗教・信仰体系と見ても間違いではない。

 信徒なき宗教は衰退するように、民主主義の信徒少なければ民主主義も廃れるのは当然な論理ですわな。