てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

中野美代子『中国の妖怪』

中国の妖怪 (岩波新書)/岩波書店

¥756 Amazon.co.jp

 中野美代子『中国の妖怪』こういう胡散臭いの大好き(笑)。皇帝の庭園、武帝の上林苑が初めてでいいのだろうか?司馬相如の上林賦で有名だが、それ以前の王が似たような庭園に世界中から動物を集めたことはなかったのだろうか?この庭園造りは単なる珍奇な風流趣味ではないことは言うまでもない。

 神獣・聖獣・妖怪・幻獣なんでもよいが、こういった未知の動物がまだ現実の存在かもしれないと認識されていた当時、時の権力者が現存する動物を収集することで、どんな動物が実在し、また存在しないかを研究・証明することに非常に役立ったのだろう。中野氏は武帝・漢以後宗教観の変化を指摘している。

 四獣の観念、東が青龍で北が…といった伝統的中国の聖獣もこの時代以後あまり目立たなくなってくるというのも、この中国統一&武帝の庭園の影響があるのだろう。聖獣としての龍が大した意味を持たなくなっていくのもそう。しかしそれならなんで西遊記の猿が出てくるのだろうか?人に近いからか?

 関係ないが、聖獣の角は男根の象徴、ファブリックシンボル。一角獣ユニコーンを捉えるのに、処女を野において、それに引き寄せられてきたユニコーンを捕獲するというやり方があるのだという。なんというお前ら(笑)。ユニコーン処女厨だった!アニメヒロインが非処女なら発狂するタイプなんだろうw

 角の聖性か、やはり肉体からあんな逞しいものが作られるというのが古代の人間の驚嘆するツボだったのかな。そして蛇の脱皮という現象から蛇も神聖視される一面があったか、なるほどね。人間を完全と見るか、不完全と見るか。不完全と見ればそこに翼・角などのアイテムを欲しがるようになると。

 ふむ、漢統一による合理主義の台頭に、朱子学・新儒教においても自然科学の追求はなかった。この不思議・謎が気になっていたが、今この時点で不完全ではなく、世界は完全である、何の不思議もないとみなしていること、そういった思想基盤が存在して、中国の自然科学の発展を妨げたのかもしれないなぁ。

 妖怪のパターンで、人体の過剰・欠如・転倒(本来あるところにない)というパターンが有る。人体の部位が多かったり、少なかったり、あるいは配置が違うということで怪異を示す。戦国時代に玄武、龍・虎・鳳と一緒に亀という観念はなかった。インドだと龍の逆鱗は痛がるだけ。それが、中国に伝わると怒るに変わった。

 土器に見られる幾何学的な文様(ラーメンのドンブリにも未だに用いられている)は、文字・文様の呪力、聖力が込められている。龍という文字はこの渦模様から派生した。蛇が聖なるものとみなされるのも、トグロをまく様から。この饕餮文について色々書いてあるけどよくわからんから、こんなざっくりしたまとめ。螺旋にエネルギーを感じるのはジャイロでもグレンラガンでも同じやな。

 動物・植物・鉱物、ましてや人間といった区別は古代人にはない。マンドラゴラのように区別明らかならぬものにパワーがあると考える。動物文、植物文と言った区別も本来その渦巻き文様からの派生。それぞれ分化されずとも成り立つ。龍がそこに潜り込むのはその力を更に引き出して、竜の力を引き出すため

 女禍=人身蛇尾のようなかたちをしているのは、本来人になりそこねた姿。神が人になる途中過程を示唆する。本当は神だから霊頭霊身なのだが、絵で表現できないからそのように表現される。中国の妖怪は欧と真逆で人→妖怪ではなく、妖怪が人になる。いわゆる変化というやつが圧倒的に多い。

 変化=時間が経つと物でも生命を持ち妖怪化するという観念があり、動物は人になる、西遊記に出てくる妖怪が人面獣身ではなく、動物の頭に人の身体という人になりそこね、これからなる存在というのが象徴的。同じ論理で仮面を身につけることで人は霊性を帯びる。仮面を身につけることで人ならざる者になるわけですね。んで演劇・神事で仮面が重宝されるわけですね。ギャラリーフェイクで仮面は民族のエトスってはなしがありましたが、そりゃそうですね。

 そうか上林苑一つとっても始皇帝の統一事業武帝は継承しているわけだ。蛟龍・麒麟・鳳凰といったものを上林苑に集めていた。実際何の動物がそう呼ばれていたか謎だが。高祖が龍の霊験を受けたように武帝も至極当然黄龍の祥瑞を得る。白虎も鳳凰もその後出てくるが玄武は出てこない。

 国家権力、あるべき規範として世界観を上から作り変えようとしたっていう性格はあると思うが、武帝は当初順当に既存観念を整理して黄帝になろうとしたはずだから、あんまり人為的意図を武帝に見るべきじゃないと思うんだよなぁ。それは封禅→昇仙の失敗においてなされたから結果的副産物っぽいと思う。

 むしろ気になるのは伝統的中国の世界観・宗教観の延長でなされた武帝の昇仙が失敗して、それがありえないとわかったあとの思想展開。その後出てくる儒教による宗教観・世界観はこの武帝政策の失敗無くしてありえない。神仙思想→儒教(特に王莽)→合理主義といった思想系譜・展開だよねポイントは。