てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

AKB丸坊主事件と小学校廃校抗議の小学生自殺の共通点―本質は脅迫

 AKBの誰かが丸坊主にして騒動になりました。まあどうでもいいことなんで、特に取り上げることもありませんでしたが、ちょっと小学生自殺の事件と2つ合わせて考えると面白いのでまとめて書いてみたいと思います。

 アイドルが丸坊主にして海外に「日本異質論」、日本ってやっぱりおかしい国だわ~とマイナスイメージを振りまいたことくらいしか思うことはなかったのですが、この事件には別の側面を読み取ることができると気づいたので指摘したいと思います。

 アイドルなんて言っても結局は鵜飼いの鵜、商品でしかないわけです。だからスポンサー・プロデューサーの意向にそぐわない・逆らうことをするとその世界で生きていけなくなる。アイドルは親会社に絶対服従、この構図は昨今話題になっている体育会系閉鎖社会の体罰問題に共通する構図ですね。

 そんなことはまあどこかで誰かが当然指摘しているでしょうから、おいといて、問題は坊主にするという発想。そもそも坊主にしていったい何の意味があるのか???10代くらいの子にはさっぱり意味がわからないのでは?ちょっと昔は謝罪の意味を込めて丸刈りをするという風習があったわけです。しかしここんとこそういうのを全く見かけなくなった=廃れた風習なのです。なのに丸刈り…?

【丸刈り=謝罪は成立しうるか?】

 まあつまり一昔前は、丸刈り=反省ということで「ああ、この人もこんなに反省しているのか、じゃあ許すか」みたいなものがあったのかもしれません。己が記憶しているのはガルベス事件長嶋監督亀田大毅かな?それを見てもやっぱりなんで丸坊主にしてるの?という違和感しかありませんでしたけど(むしろ小学生・中学生など若者になにか悪いことしたら丸坊主にしろよ!貴様ら!っていう空気を生みそうなので嫌なことするorさせるなぁ、といった感覚ですかね?)

 そこで件のAKB、しかも女性!なんかハリウッドの女優が映画でそうしたのをチラッと見た記憶がありますが、それ以外記憶に無い。小学生でも女の子で坊主っていませんからね。少なくとも己は見たことありませんでした。尼さんでも剃り落としたら頭巾を被るものですし、正直度肝を抜かれました。

 彼女の意図なのか?あるいは入れ知恵かなんなのか知りませんが、あれをせられて、「ああ反省しているんだな、じゃあ許そう」というより、「気持ち悪!何コイツ!」とドン引きするんじゃないでしょうか?己はそうなりました。「私は悪い事しました、すいません!」なんて言って自分の体を切り刻み始めるようなもんでしょう。ドン引きですよ。

【謝罪の本質は他人の許しをえること、自分本位の謝罪は謝罪にならない】

 すいません許してください。なんでもしますんで。→ん?今なんでもするって言ったよね?くらいありえない流れです。意味がわからない。謝罪をしたいなら、謝りに行く、誠意を見せるために自分ができること最大限のことは一体何なのかを考えて、相手の許しを得る行為を行う。まあ普通こうなりますよね。

 罪を謝ると書いて、謝罪。ならば当然、罪を償うを受ければいいわけです。もしくは代償、補償をする。損害を与えた分に応じた償いをする。しかし罰っていうのは他人がこうすれば許してやるよ!と社会や組織や他人が裁量すること。決して本人が決められることではないですよね

【本質の一旦、責任は組織の管理ミス、組織の長の監督責任にこそある】

 なのに彼女はこうすれば許されると勝手に判断して、あのような行動に出たわけですね。ほとんど暴走行為です。あれをして許される!と考えた、よっぽど切羽詰まって追い詰められたからそ、ああいう奇天烈な行動にでてしまったと考えられるわけですが、本質はまだ20前のハナタレ小僧くらいの女性に対して監督責任・管理責任を怠ったことではないでしょうか?

 アイドルとう生き物が恋愛禁止なんて言うルールの是非はまあどうでもいいことだと思いますが、それがルール違反ならルール違反として、どういう罪、第何級の罪であって、制裁としてどういう罰が与えられるというルール化が整備されていなかったことが問題の本質でしょう。社会がどう感じる、思うかは別としてAKBという組織を動かすトップの無責任体質がその問題の根源にあることは言うまでもありません。

 このアイドルグループが5~10くらいなら個々人との契約であり、別にそんな法制化はいらないでしょうけども、この組織は100~200人いるわけでしょ?ならば犯罪者も出てくるし、今回のように恋愛、果ては性接待のような事件まで発生するのは当然のこと。そういう危機管理が全くできていない。この件で本当に責任を問われるのはトップの秋元本人でしょう。彼がなぜ辞任しないのか、己には全く理解ができません。

【今回の謝罪の本質は脅迫、弱者としての脅迫】

 まあ、そんな歪んだ業界の話はさておいて、己が話したい本質というのは。この謝罪が脅迫、弱者としての脅迫だということ。何回か書きましたが、板垣恵介が『どげせん』という漫画で土下座の本質は脅迫と喝破しました。土下座という謝罪の本質は暴力!とね。悪いのは向こうで、謝罪されているのに、圧倒的にこっちが悪者に見られる―その逆転の構図が面白くて漫画にしたと語っていました。今回のケースもまさにそれですね。

 彼女は丸坊主にして脅迫しているわけです、「ここまでしているんだぞ!もうええやろ!許すよな!」と。多分本人にはそんな意識はなく、上で書いたように、パニック状態に陥った結果、一番これが自分にできる最大限の謝罪行為だと思ったからやったのでしょうけどね。本人にそんな意識がなくとも、過激な行為をしてしまうと社会・周囲はこれを脅迫、テロ行為と認識します。普通テロとは相手の弱いところをついて卑劣な攻撃を仕掛けるものですが、これは自分を人質にとったテロ行為になってしまうのですね。

 例えるならば、動物が身を守るための死んだふり、擬死といったところでしょうかね?死んだ者をこれ以上攻撃するものはいないッッッ!!!死ねば勝負なし!またバキネタですが(^ ^;)。

【死ねば許されるという歪んだ社会風土】

 小学生のケースも同じなのですね。本質は脅迫、テロ行為です。このについて詳しい事実背景を知りませんから、ほかの細かい事情を捨象して考えてしまうことになりますが、目的を通すために自殺するという一点のみを論じることで、その点許容してください。無論彼個人についてあれこれ言うつもりは全くありません。個人についての価値判断とは無関係に本文を書く、論を進めていくことは言うまでもありません。

 これが自分ではなく他人を人質にとったら、評価はどうだったでしょうか?異常事件としてメディアは面白おかしく騒ぎ立てたのではないでしょうか?本質が脅迫である以上、自分の命であろうと他人の命であろうとやっていることは犯罪行為なので絶対に許容してはなりません。

 松本人志がかつて、遺書か何かの著作で「自殺した奴はアホ」と報道しないと自殺すれば周りが良いことを言ってくれると誤解して自殺を招きやすくなる社会になるといってました。まさにその通りで自殺報道については国際基準でガイドラインを守るように定められている通り、自殺報道はそれを許容してはならない。かわいそう、悲劇の人物のように扱うと自殺を後押ししてしまう幇助につながる。

 今回彼が自分の命と引き換えにという観念で自殺したのはそもそもピント外れです。命を交換するというなら彼が一生奴隷にでもなって、労働力などを対価に提供しなければ「交換」になりません。彼は一方的に自分の命を「捨てた」のにどうしてそれが交換になると考えたのか?それは報道・教育で命が重い、大事なものと教えて、かつ自殺が引き起こされた場合、社会が初めて問題を真剣に考えるということを肌で感じたからでしょう。

 問題が起こって初めて考えるという日本の報道の質の低さを考えれば、いつも社会が動くのは人が死んでから。バスケ体罰事件を見ても、今までも到底許容出来るはずがなかった、見過ごされ続けてきた社会問題でも、自殺者が出ることでようやくメスが入ることになった。犠牲者が出ることで、真剣に社会が検討を始めた。ならば自分が…。こう考えて何ら不思議はありません。

 この問題は思慮の浅い暴走行為と断言できない問題をはらんでいると思います。社会が問題を解決するのに正常なルートが存在していない、あるいはわかりにくい。そういうことが言えると思います。まず小学生くらいなら、自分が日常生きる社会トラブルについて、誰に相談して、どういう公的機関に筋を通して手続きをして、問題解決をするなんてわかりようがないでしょう。また、そういったことを知らないだけではなく、自分がこれは問題だ!なんとかしてほしい!と思った時に誰も自分の思いを聞いてくれないと絶望したのではないでしょうか?

 日本の社会は問題が起こった時に解決する制度が明確・理路整然と整備されているとは到底思えませんからね。なし崩しにごまかす・揉み消すというのが教育委員会を見ても実情ではないかと思います。

 もし、反対署名やら、維持のための寄付金募集、ビジネスとしてマネーを落とすまちづくりなど、簡単に社会を動かすことが出来れば(簡単にというか、100あるうち5でも10でも変えられるという僅かな可能性が残っていれば、ひょっとしたら…と希望が残る社会ならば)、彼は僅かな希望にかけて地味な作業を10年・20年と続けたのではないでしょうか?

 自分が何をやっても社会を変えられない、社会は変わらない。この絶望感が彼を死に追いやったという気がしてならないですね、己は。

 結局、偏狭な・抑圧的な社会が簡単に人を追い詰めやすい。そして歪んだ価値観が自傷行為で目的を達成させることができる、そうするしかない!と個人を変な方向へ追いやっていく。そういう傾向が読み取れるのではないかと感じました。そしてこの傾向は今後も続くような気がします。