てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

中国の群雄 (9) 国をゆるがす女たちと中国ペガソス列伝―政治の記憶

中国の群雄 (9) 国をゆるがす女たち/講談社

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中国ペガソス列伝―政治の記憶 (中公文庫)/中央公論社

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 うーん、唐周辺。武則天の話見てから、ココらへん興味湧いてきた。面白くて仕方ないな、この時代は。ココらへん唐代の文章読んでいていて、唐代の女帝・女性の強さというのは!高宗に始まる女性保護!女性の地位向上のためだった!いわば生類憐れみの令の女性版だったんだよ!!!Ω<な、なんだって~という珍論を思いついた。唐代の女性真っ盛りの時代は特異で面白いやね。

 周の明帝、隋の文帝、唐の高祖は独孤氏でつながっている。この時代に中国伝統の倫理観・家族観はない。安史の乱・盛唐時代が終わってむしろココから中国の時代が始まるのだろう。その後がむしろ重要。

 太祖李世民はクーデターにより即位、以後高祖を監視下に。最高指揮官李世民が皇太子に選ばれなかった=文治政治を高祖は選択したことになる。それを実力で太祖はひっくり返した。北魏以来(もっと前からか)、政情不安であすどうなるかわからない当時の中国政治を象徴する出来事、不安定に注目すべきですね。

 武則天、武照の父武士彠は李淵の故吏みたいなものか。李淵の挙兵を支援した。材木商というから政商に近いものがあったか。隋の楊氏を娶り、武照はその血を引いているというのもポイント。利州都督であり、彼女が蜀出身というのも後の楊貴妃に共通する。この重要な要素に注目しなくてはならない。

 何の後ろ盾もない=門閥貴族でない彼がのし上がったのも太祖をヨイショしたから。そして封禅=皇帝権力強化プロジェクトの中心人物だったということがあるだろう。武則天VS長孫無忌・魏徴といった建国の功臣、門閥との対立は既に父の代から始まっていたというわけですね。

 荊州大都督に栄進して、そこで亡くなる。武則天は故郷并州かもしくは長安の邸宅に移る。14歳で後宮入り。縁故があったこともあるし、彼女は美人だった。当時の美女はおでこが広いこと、顎・エラがはってること。彼女は龍門石窟宝泉寺の盧遮那仏に近い顔だったという。当然今の美人基準とは違う。

 美人ということに宗教的な正統性が存在したのかな?太祖は長孫皇后亡き後、楊皇后を皇后にしようとしたが、煬帝の娘ということで反対された。そしてそのかわりに引き立てたのが楊氏の血を引く武則天楊氏の血を引くものを何としても皇后にしたい!というこの力学を決して見過ごしてはならない。

 もしくは山東貴族と関隴貴族の対立と見るべきか。しかし関隴貴族ならば楊氏以外の貴族でも良いはず。あとの事例を見てもわかるようにやはり楊氏でなければダメだったのだろう。嫡出皇子で最も若い治=高宗が選ばれるが不自然な武則天との出会いは高祖に彼女と組めと命じられていたと見るべきだろう。

 蕭淑妃で漢文検索かけても、ヒットせんな。王皇后は父が出てくるけど、出てこないってことはあまり高い身分ではないということか。王皇后が武照を引き立てたというのは高宗一人では引き立てたくともいかんともしがたい背景があったのだろうか?後宮はいるのに伝がなく嫌われたら計画がパーだからかな。

 武照の娘が死んでこれを期に権力を掌握していくのだが、安定公主として皇子に準じた葬儀が行われた。女性の政治的地位が高かった当時、彼女が他に何らかの重要な意味合いを持っていたのではないか?長孫無忌が高宗の兄格、及び一族を粛清したのと同様に、武則天を担ぐ一派は王皇后を厭勝の罪で蹴落とす。

 わざわざ立皇后の詔で父が私に与えたと書いているところが興味深い。当時の唐には中国伝統のタブーなどあまり関係なかったのだろう。ポイントは開祖のカリスマを背景にした理由付け。鄧小平が江沢民胡錦濤を選んだゆえに正当性があるのと同じ意味合いがある。朝臣は本当にモラルの面から反対したのか?

 高宗は権力闘争に敗れ失脚した王皇后・蕭淑妃を牢から出す、救うという愚行を犯すが、これはひょっとしたら本来の目的=長孫無忌失脚を達成させたから武則天の権力を抑えにかかったのかもしれない。それを高宗が思う以上に後宮を掌握していた武則天先んじて潰た=両人処刑ということではないか?

 異母兄の皇后不敬、姉の韓国夫人の死、その娘魏国夫人が高宗に寵を受け、武則天に毒殺されるのも、高宗により武則天失脚の動きがあったからではないか。上官儀による廃后失敗でもはや高宗はなにもできなくなる。魏国夫人の兄、賀蘭敏之は武后が選んだ太子妃に手を付けて武后に殺されている。

 この時代の倫理観の無さは、この一件を見てもよく分かる。ちょうど平安時代源氏物語のような貞操観念だったのだろう。皇太子の急逝は高宗の追悼の詔にまさに位を譲ろうとしたとあるが、武則天への嫌みか?もし武照の手によるとすれば政策対立が原因だが、太子弘の政策は、政策対立は何だったのか?

 更に太子賢の謀反容疑での失脚を考えると、やはり武后主導の失脚なのだろう。その後高宗とセットで天皇・天后になって権力固めをしているし、後の中宗・睿宗が無能というより、能力つけたら殺されるとわかっているから処世術だろう。有能な兄二人が除かれたのだから。まあ中宗は失言王だったけども。

 武承嗣を皇太子にという動きがあったが、それほど周王朝をゴリ押しするつもりはなかったか。彼が死ぬと何としても武姓王朝を!といったかんがみられない。封禅→浄光天女の再来、弥勒の下生→昇仙と、儒教的価値観から仏教・道教と変わっていく。晩年の彼女の思想は道教か?

 唐の美女はむっちりタイプ楊貴妃がそれ、牡丹が花の王様で次が芍薬。後宋になると蓮が愛され美女もスレンダータイプになっていく。価値観の転換があった。玄宗の愛寵は武恵妃、武則天の従兄弟の娘であり、皇后に立てようとしたが、もちろん重臣の反対でダメ。後に寵愛する楊貴妃は楊氏の娘とされていた。

 寿王の妃であった楊貴妃は道観に入って女冠となって女道士となる。一旦そうなるとこれまでの身分がチャラとされていたらしい。そして改めて玄宗の後宮に入った。武則天の母の楊氏がなくなった時、娘の太平公主は供養のため女冠となったが別に道観に入ったわけではなかった。格好だけで宮中で暮らした。

 吐蕃太平公主を和蕃公主として求めた時既に一生不犯の身だからと断った。辻褄合わせのために急ぎ道観を作ったこともあった。しかしその後平気で降嫁させている。外交問題になりそうなものだが…、当時の情勢が気になる所。楊玉環をあえて後宮に入れたのは死後の政治のため皇太子への継承のためだろう。

 改めて韋昭を寿王には与えるわけだが、この韋昭はもしかして韋后の一族か?楊玉環を変則の武則天として利用しようというのが玄宗の目的だろう。彼の死後、寿王瑁に政体が安定して引き継がせるために女性の繋がりを作ったということですね。ヘタしたら皇帝即位後再婚したかもしれない。

 楊貴妃が息子の嫁から玄宗の元へいって、大ショック!みたいのありましたけど、別に当時ならふつうのことでしょ。トレード感覚ですよ、糸井のトレードでしょ。744~758まで年じゃなく「載」と表現されていた。いわく夏は歳で、殷は祀で、周は年で、唐虞は「載」だったからだそうで、なるほど堯舜をイメージしていた。理想政治、理念が尭舜だったことは玄宗文治政治・政策の一環ですかね。

 武則天は洛陽を好み、玄宗も五回行幸している。まあ遊牧のあれだろう。楊貴妃の叔父は士曹参軍、洛陽への運輸に携わっていた。これもポイントやね。いかに民を食わすかで、江南の食料を洛陽に運ぶというのがこの時代の生命線ですから。んで煬帝みたいに江南逃亡じゃなくて、蜀というのもまた一つのポイントなんでしょうね。関隴に近いということで。

 旧唐書食貨志に楊国忠と裴が問題と特筆されてますが、未だに経済制度をどうするかというノウハウがない以上、こういう官についた人間が腐敗するというか必要以上に罵られるのは当然ですね

 李VS楊VS武、武恵妃は皇太子を立てられず、粛宗=楊氏の勝ち。つまりバランサーとしての楊貴妃というシステムですね

 逃避行・都落ちした皇帝が農民が差し出した食料を手づかみで食べるってのは西太后でも見たけど史書のお決まり・筆法なのかな?

 楊貴妃は蜀州司戸の楊玄淡の四女。兄に楊銛、姉に後の韓国夫人、虢国夫人、秦国夫人がいる。幼いころに両親を失い、叔父の楊玄璬の家で育てられた。またいとこの楊国忠、釗。

 学問を好まず酒とばくちを好み、行いが定まらず、一族の嫌われ者=任侠。楊貴妃の父の死後、楊貴妃の姉・後の虢国夫人)と私通していたという。30歳の時に蜀地方軍に入り、軍功を挙げて新都県尉。剣南節度使の章仇兼瓊の幕僚に。章仇兼瓊と蜀地方の富豪・鮮于仲通は楊釗を通じて、資金を長安にいる楊貴妃一族に送る。

 楊国忠は、金吾兵曹参軍という近衛将校に任命された。章仇兼瓊もまた戸部尚書(大蔵大臣)・御史大夫に昇進した。経理、計算などを間違ったことはなく、玄宗は「好度支郎(すぐれた出納官)」として監察御史に任命した。その後は宰相の李林甫(も学なし)、御史中丞・王鉷と結託して、ともに楊慎矜を謀殺し、李林甫の手先として旧来の貴族や太子の李亨に関係するものを排撃した。虢国夫人を使って玄宗の機嫌をよく探知し、調子をうまく合わせたために有能と判断され、度支員外郎に任命され、15以上の使職(唐代の財政などを扱う役職)を兼ねた。だが、この頃から李林甫との対立が始まったという。

 楊釗は虢国夫人の間昼夜をわかず往来し轡を並べて参内。夫人の義務、障幕をたらさずに出かけたので人は目を覆ったという=伝統的価値観からのかけ離れですね。杜甫の七言絶句に虢国夫人というのがあって、さっと眉を引いただけで玄宗に拝謁したというのがありますが、これは素顔に自信があるからと。薄化粧美人ですね。楊銛、弟(いとこ)楊錡と3人の姉の五家併せて、楊氏五宅長安で権勢を振るう。玄宗の公主(内親王)の公平公主の御者と楊氏の下僕が諍いを起こしたってのがあります。

 安禄山は李林甫を恐れていたというのも一つのポイントかな。安禄山楊貴妃に養子にして欲しいと頼み、楊貴妃は「養母」になる=人的紐帯を築きます。そして玄宗より先に拝謁する。いわく母が尊いと、玄宗が喜んだのも楊貴妃を次代の後継者の一人、擬似則天と見ているからでしょうね。んでオムツプレイして、安禄山は後宮に出入りできる特権を得る。家族内に入り込むわけですな。公権ではなく、私権で動かす所は面白いですね。

 南詔とタラス河畔での敗戦は唐の拡大路線の限界ですね。これ以降は縮小路線、文治政治型、国家基本路線を転換させなくてはならなくなったわけです。んで楊国忠VS安禄山になるわけですね。

 粛宗になっても一族内で血で血を洗う遊牧系王朝、ターキーエンパイアの時代は終わらないわけで、一体いつこのターキー性格が中国的な王朝に変わっていくのか、中華ナイゼーション・中国ナイゼーションが始まるのか。そこら辺がひとつの見所なんですが。まあ両税法とかね、そこら辺にあるんですかね。

 宦官の専横というのが強調される唐朝ですが、宦官がある種の政治機構として作動しなければまたしても皇室内部、王家内での騒乱が続いたこと。母としての政治介入&混乱に終止符を打ったという功績になんで注目されないんですかねぇ…?これ極めて重要なポイントだと思いますが。遊牧流の思想・常識が消えて、儒教化していくのかなぁと思いつつも、結局唐が崩壊するまでその要素は薄かったんですかね?宋になるまで出て来なかったんかな。

 モンゴル・元みると唐はやっぱり遊牧的性格が強いんだなぁってよくわかりますよね。オゴダイハーンでトゥルイが国、オゴダイ死後、太后ツラキナの称制年、二年グユク挟んで、またツラキナの称制。母が強い。太后ツラキナの時代があったのなんで見過ごされがちなのか?

 フビライが弟アリク・ブカを倒して政権についたのは玄宗にそっくり。フビライは唐・玄宗を意識していた。竇黙・李冶を呼び出して魏徴のような存在はいるかと聞いたり、即位後王鶚が太宗の文政策をモデルにするように進言したり、奉じられた文の名天子のなかに玄宗が入っている。父トゥルイに追贈した廟号が睿宗。

 フビライのパスパ重用はモンゴルの宗教平等という伝統精神に反する。やはり漢化を恐れて、モンゴルでもない中国でもないパスパ文字・宗教による人種・階層を生もうとしたのか?パスパ人?フビライ人?まあ全員変えるまでは考えてなかったと思うけど。

 と、まあ気になったことをメモってみました。もうちょっと唐はやりたいですねぇ。その後の元ももちろん。