てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

E・H・カー著 『歴史とは何か』(四章)

歴史とは何か (岩波新書)/岩波書店
―の続きです。
一章、歴史家と事実
二章、社会と個人
三章、歴史と科学と道徳
四章、歴史における因果関係
五章、進歩としての歴史
六章、広がる地平線
―の第四章、歴史における因果関係です。

 歴史の研究は原因の研究 偉大な歴史家・思想家は常に何故と問い続ける。ヘロドトスギリシア人・野蛮人の戦闘の原因を書いていたし、トゥキティディスは因果関係の明確な観念を持っていないと非難された。モンテスキューはローマ考で一般的原因とは?と考えていた。
 モンテスキューは全ての王朝に勃興の精神的・物質的原則があり、それを明らかにするというテーマを持っていた。よってモンテスキューは『法の精神』で盲目の運命を否定し、人間の行動は「事物の本質」に基づく法則・原理に従って行動するものだと、法を通じて一般化を図った(社会の本質を解き明かそうと試みた)。

 前述通り、歴史の法則・原因と言った観念は廃れブームが終わると、何故起こったかということよりも、いかに起こったか(機能的見方)という見方にシフトすることになる。しかしこの機能的見方においてさえ何故と問う因果的それが不要になったわけではない。

 歴史家は原因の単純化と同時に多様化も行わなくてはならない。
 多くの理由をあげることは重要だが、だからといって一つの決定的に重要な理由をおかずに、ただ理由を羅列をするだけで分析を終えてはならない。どんな究極の原因を見出すかで歴史家の手腕・性質が明らかになる。ギボンはローマ帝国の衰退と没落を蛮族と宗教の勝利と見た。

 また19世紀の英ホイッグ的歴史家は立憲的自由に基づく政治制度を英の繁栄の理由とした。今日では経済的要因に触れていないために古く見える。歴史に関する議論はすべて諸原因の優越性という論点の周囲を周回している。科学と同様、多様化と単純化という矛盾したものが同時に求められている
 一つの優越する要因を論じたからといって、決定論=それが全てを決定するという非難は当てはまらない。自由意志と決定論のジレンマは日常生活では起こり得ない。人間のある行為は自由で、ある行為は決定されているもの。見ようによって自由でもあれば決定されているものでも、どちらにでも見えるのだ。まさに甲野さんの運命は決まっていて同時に自由だって話ですね。

 原因と道徳は別の範疇に値する。原因を研究して、そちらをしなかったら道徳を無視することにはならない。犯罪学は原因の研究をするが、それによって犯罪者の道徳的責任を軽視することにならないのと同じ。【道徳の研究は確固たる価値基準がないのだからあまり意味が無いと思うが、今は何学がそれを行うのか?倫理か?】

 選択が自由の中で不可避的と表現することに疑問を持ち異議が挟まれることがある。が、数あるコースの中でどうしてその事件が起こったか―が問われているのだからその不可避性に注目しない訳にはいかない。蓋然性が高いと言ってもいいが、歴史家の役割として不可避性から目を背けることは好ましくない。

 ロシア革命は不可避だったか?というのは思考実験として有意義なところがあるが、中世古代の領域、薔薇戦争は~と同じ問いをしても最早そのコースの変化は現代に意味が無いので論じてもしょうがない。
 昔の事件は独立した一章として扱っても問題ないが、現代史は抗議がくる難しさがある。
 ボリシェヴィキの勝利に対して抗議をしたい人達がいるために必ずこういう問題が起こる。このような「歴史的不可避性」に対する反対キャンペーンは根強いものであるが、歴史学はそれ以上に今起こったことに対する原因を解き明かすほうが重要であるのだから、それにとらわれ過ぎてはならない。

 クレオパトラの鼻の逸話に代表されるように歴史とは偶然の連鎖であるという説が時に力を持つ。バヤジットが痛風のために欧州進撃が中止された。1920年ギリシアアレクサンドロス王が寵愛の猿に噛み殺された時、チャーチルをして、「この猿によって25万人が死ぬことになった」と言わしめた。
 1923年秋、トロツキーがジノヴィネフ、カーノネフ、スターリンを相手に争っていた時、鴨狩猟の際発熱して行動を封じられたことがあった。この時彼は「戦争・革命を予見できても秋の野鴨猟が予想することは出来ない」と言った。しかしこういった偶然と決定論は無関係。
 我々が問題とする「偶然」とは、それにより歴史家が考える最重要な因果関係が中断させられてしまうかどうか。もしそうならば一体どうして歴史が書けようか?些細な偶然が大きな結果をもたらすことはあっても本質的因果関係を作用することはない。

 【というか作用するようなものなら、歴史家はそれを本質的因果関係として歴史を書けないというべきか、それで歴史を書いてしまえば歴史家としての問題設定能力が疑われるだろう】

 偶然というものを最初に大きく取り上げたのはポリビオス。ギボンいわくギリシア人はローマの繁栄を長所より幸運と見た(前述の試験の結果なんて運次第偶然さ!というものに近いものがありますね、偶然の要素を取り上げるのは。まあ歴史において偶然が作用することは往々にしてあるので全て決定づけられているという理性オンリーの物の見方を否定する際にはいいんでしょうけど。それだけで語られるのはまた問題になるわけですね)。タキトゥスも没落時代の歴史家であったが、偶然というものについて長々と語る第二の歴史家となった。そして英歴史家違が偶然というものを語り出したのは1914年以後、不確実と不安が実感となってからだった。英で初めてこれを取り上げたのはピュリ。サルトルのような哲学が仏で勃興したのもまた一因。
 ドイツではマイネッケがチャンスという観念に取り憑かれ、これを十分に顧慮しなかったという理由でランケを非難した。マイネッケが過去四十年の不幸を偶然の連鎖で語るようになったのはその歴史家としての精神が破綻したことを物語る。国が落ちぶれるとチャンスや偶然を強調する理論が優勢になるもの。
 同じくギリシャアレクサンドロス王が若死しなければローマは成立しえず、ローマもギリシア王の支配下にあったろうという「未練」のゲームが流行ったのは興味深いこと。【あれ?織田信長が死なずに東アジアを制覇していたっていう思考実験というかifストーリーモノって結構ヤバイんじゃない?日本の斜陽を象徴しなければいいが…】

 モンテスキューはこのような偶然の侵入から歴史の法則を守ろうとした人物。例えば、一つの戦闘という偶然的な結果が国家を滅ぼしたのではなく、そのような戦闘一つで国家が滅びることに一般的な原因があったとした。
 おもわぬ偶然によって大ダメージになることがあるにしても、それで滅びたり、決定的な敗北をするのであれば、内部にそのような破滅の論理がかならずあるということ。またマルクスはチャンスというものについて三つコメントしている。
 それはあまり重要ではなく、事件のコースを遅くしたり早くしたりスピードに影響を与えても、根本的な事柄に影響を与えない。第二にチャンスはプラマイ0であり、第三に諸個人の性格がチャンスの例になる。無論、バランスが働いて最終的に帳尻が合うという事を立証は出来ないし、疑問にも思う。

  「遊星」はその法則が理解されていなかったときは、勝手に動き回っている星だと見られていた。このように理解できないときには、それをただ単なる「偶然」として処理してしまう。時に偶然にすぎないことも歴史の大きな枠組の中で意味を与えることが出来る場合がある。
 偶然もまた解釈次第であり、新しい物の見方においては必然と解釈されることもありうるわけですね。これも時間・未来による解釈待ちの性質があると。偶然もまた解釈次第であり、新しい物の見方においては必然と解釈されることもありうるわけですね。これも時間・未来による解釈待ちの性質があると。