てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

議員辞職勧告決議案は議会政治を殺す

 国会の中味 という記事で、鈴木宗男議員に対する議員辞職勧告決議案という話がありました。それを己は知らなかったのでこういった話を書いておこうかなと。当時中学生か高校生だったか?もっと後か記憶にありませんが、とにかくそういった状況になっていたのを知らなかった(忘れていた)ので、書いておきたいと思います。議員辞職を議会が論ずるのは民主主義を殺す暴挙であるという話ですね。


  『日本の「一九八四年」』よりまとめました。昨今の小室直樹著復刊ブーム・再出版の中でこれが手に入りづらいし、面白いので再出版されるんじゃないかな?と思っていますが、されませんね。面白いので是非して欲しいですね。

 p150前後を適当にまとめましたが、これを読めばいかに河野太郎の論理が筋が通っており、日本の議会政治が腐っていたかわかりますね。河野太郎GJです。一体いつになったら、憲政の常道と議会政治が日本に復活するのでしょうか?「日本の民主主義」こそ「とりもろす」して欲しいですね。悪しき全体主義をこれ以上「とりもろさ」なくてもいいと思うんですけどね…。


 近代デモクラシーは、議会政治であり、議会を軽視する罪こそもっとも重いもの。田中角栄暗黒裁判というより、一連の逮捕劇。これが日本のデモクラシーの死を招いた。国会が、今や検察という思想警察の手下に成り下ってしまった。国会は真理省マスコミの国会局にまで自らを矮小化してしまった。


 田中角栄に有罪の判決が出る以前から、検察の論告求刑があっただけで、早くも飛鳥田社会党委員長は「角栄御用」の提灯行列を行なうセンスの無さ。なんで一回の議員の逮捕云々を野党の議員が追随するのか。自己の弁論で議会において論じるならともかく、検察に追随することはありえない。まさに検察の提灯持ちに成り果てるとは…。

 問題は田中角栄に対する議員辞職勧告決議案。これほど珍妙なものも考えられない。「丸い三角形」というのと同じ。議会の決議は議会の意思表明。法律上は無効でも、政治的には強制力をもつ。そうでないとすれば議会は国権の最高機関ではなくなる。デモクラシーも、その前提たる議会政治も成り立たなくなる。

 辞職とは自発的に行なうものだ。これでは「辞職」ではなくて「免職」ではないか。辞職勧告決議なら、「自発性を強制する」ということになる。まことに珍妙な事態。

 もし、この決議案が国会を通過して、田中角栄がそれでも辞めなかったとしたら国権の最高機関たる議会の意思が蹂躙され無視されたことになる。その瞬間にデモクラシーは頓死したはずだった。

  かつて、十七世紀イギリスのスチュアート絶対王政の下においてすら、チャールズ一世の首相ストラッフォード伯爵は、議会の意思を軽視した罪で死刑になった。絶対王政下においてすら議会の重みはかくのごとし。 こうでないと、議会政治は育たない。議会政治を母体とする近代デモクラシーは、堕胎させられてしまう。流産してしまう。

  「議会主権」が確立された以後においては、議会の重みはプラック・ホールのごときものとなる。 例えば一九六三年、世界をにぎわしたかのプロヒューモ事件。プロヒューモ陸相は、売春婦キーラー嬢のポーイフレンドであることがパレて首になった。とは言っても、キーラーの恋人だったという理由によるのではない。キーラー嬢がソ連要人とも関係があり、スパイに利用されたのではないかという疑いも一要因ではあるものの、それが理由ではない。問題になったのは彼が議会でキーラー嬢と全く関係ありませんと答えてしまったこと。

 議会で嘘をついた結果どうなったか?議会を踏みにじるという重罪を犯した彼は、議員をやめさせられ、政界から引退し、一切の社会生活を中止して、慈善事業に余生を費すしかなかった。デモクラシー国家において、政治的責任を考えるとき、「議会を軽視する罪」は収賄やセックス・スキャンダルなんかとは、くらべものにならないほど重い。今の時代、死刑はないとしても、政治的生命が断たれることは確実。社会的生命も。これほどの重みを議会がもたないことには、デモクラシーは動かない。

 議会の意思が公然と無視されれば、近代デモクラシーの母体は死んだも同然になる。すんでのところでこの危機を乗り越えた。「辞職勧告決議案」はデモクラシーを毒殺するところであった。仮にそうなった場合、「デモクラシー殺し」の責任は、一体誰が負うのだろう。「世論」を無視して暴れに暴れた田中角栄であろうか。 断じて、そうではない。デモクラシー国家においては、誰しも(もちろん政治家を含めて)あらゆる手段を使って、自分の権利を守ることが正当化される。また、それは一種の義務でさえある。政治家の責任とは、あくまでも結果責任であって、このさい心情や手続は一切考慮されない。 しかし、この場合の責任とは、政治的決定political decisionに対する政治的責任である。

 それ以前の問題、たとえば権利を守るための行為に関する責任はそうではない。 基本的人権を守るための行為は、それがいかなる結果をもたらそうとも、正当化されることがある。個人の個有の権利は、それが正当に発動されるかぎり、いかなる結果が生じても、これに対して責任を負う必要はない。

 かつてある冬、ニューヨークでストが発生して、その結果として暖房ができなくなった。寒さに弱い人がかなり死んだ。しかし、このストは労働者の権利を発動したにすぎないのだから、めぐりめぐって幾人びとが死のうと、ストをうった労働者のあずかり知らぬことである。よって誰も何の批判もしようとはしなかった。 ひとは誰しも、あらゆる手段を行使して、自分の「権利」を守るべきである。かくのごとく行動してよいのであって、また、かくのごとく行動しなければならない。近代法は、「権利の上にねむる者の『権利』など守ってくれない。

 だから田中角栄が、自分の固有の権利を守るために、どんなことをしようと、それは正当なのだ。これが正当な行為である以上、当然の権利なのだから、その結果に対して責任を負う必要はない。では、その責任はどこへ行く。「辞職勧告決議案」なる化物をでっちあげた方に当然責任はある。

 これは重大なことである。デモクラシーヘの挑戦である。野党と自民党反主流派は、共謀して、議会政治、デモクラシーを毒殺しようとしたのである。 もちろん、彼らにはそんな意図は少しもないのであろう。しかし、「知らずして犯した罪は、知って犯した罪よりずっと重い」のである。この責任を、いったいどうするつもりだろう。 田中角栄は、自分の権利を守るという意味で、議員を辞職しないでもよいと主張したが、議会政治を守るという意味で、辞職してはならなかったのである。 こんな前例が出来たら、たいへんなことになる。田中角栄は、世論の集中砲人をあびせられても、あくまでも議席にしがみついて離さなかったことによって、議会政治を守りとおした。これぞまことの折檻(あくまで正しいことを主張して譲らないこと)か。日本国民は彼に感謝すべきである。

 
国会議員に対するリコールはあってはならぬもの
 「国民の八〇パーセント以上が角栄はやめろと言っているんだから角栄は辞めるべきだ」という意見をよく聞く。 これは、一党独裁の論理である。国民の八〇パーセントが望もうが、九〇パーセントが望もうが、そういう理由で国会議員がやめたという前例ができたら最後、議会政治が終わるに決まっている。ナチスドイツでも、最後まで議会が廃されることはなかったが、「一党独裁法」が成立して、ナチス以外の政党が禁止され、議会政治にとどめを刺している。

 議会政治が一党独裁になれば民主主義が死ぬのは言うまでもないが、これを防ぐには反対党、少数野党の存在を許すかどうかポイントになる。この最後の一線をこえたとたんに議会は独裁官の娼婦に成り下る。

 少数意見が議会に代表をもつ―この大原則、この論理が貫徹されてはじめて、近代デモクラシーの前提である議会政治は成立しうるのである。この意味では、西独の「五パーセント法」(得票率が五パーセント以下の政党は議席を得ることができないとする法)も問題である。しかし、これは過去の苦い歴史的体験からする、のぞましくはないがやむをえない措置だとして目をつぶっておくしかあるまい。

 しかし、論理としての「少数意見の議会における代表権」が否定されたらどうなる。議会政治の大原則は否定され、一党独裁の原則が横行することになる。 それゆえ、国民の過半数が辞職を要求しても、そしてその過半数とは八〇パーセントでも九〇パーセントでも、その理由では決して国会議員は辞職してはならないのである。

 地方自治体は直接デモクラシーであり、リコールがある。しかし、国会議員にリコールの制度はない。なぜか。それは、間接デモクラシーだから。デモクラシーを喰い殺すのは群衆の熱狂であるゆえ、直接デモクラシーではなく間接デモクラシーを取る。デモクラシー諸国は、なるべく国民投票にうったえないように工夫をこらす。また、国民の直接の意思表示と政治権力との間に、いくつかのクッションを置いておく。

 今だに英国には国民投票制なんぞ無い。またアメリカも、今だにニューヨークの地下鉄よりも古色蒼然たる大統領選挙制度を維持している。国民が、大統領選挙人を選ぶという制度は、単に技術的に言えば、アメリカのような巨大な国では、馬車ぐらいしか交通機関が無かった昔なら必要であったかもしれないが、今ならそんな必要性はない。大統領を国民が直接にえらぶことは、いとも容易である。しかも、昔の制度を残すというのは、間接デモクラシーの叡知である。

 ここに一つの補助線として首相公選論にコメントしておこう。 中曽根康弘は危険な男だと論ずる人はすこぶる多い。これについてはよくご存じのとおり。しかし、中曽根康弘における最も危険な点は、首相公選論である。これぞ直接デモクラシーであり、下手すると、独裁への道をまっしぐらにつっ走ることになる大きな危険性をはらむ。中曽根康弘は、今は、首相公選論をひっこめたのか。それとも今もそのつもりで、実現のチャンスをねらっているのか。これについて誰も問題にせず、中曽根康弘に質問もしないのは、どういうことだろう。 直接デモクラシーは、これほど恐ろしいものである。

 間接デモクラシー、代表デモクラシーが独裁者を生みにくい最大の理由は、必ず、少数野党の存在を前提とするからである。少数意見にもまた国会の場で代表されるチャンスが与えられるからである。 このことを厳重に保障するために、国会議員に対するリコールの制度はない。もし、国会議員に対する全国民によるリコールなどの制度を認めたら最後、過半数の国民の強い支持をもつ政党が現われれば、反対党の議員をリコールして、これを全滅させうるではないか。

 全国民に対する世論調査には、法的効果はない。が、国民投票同様に独裁へむけての直線街道になりかねない直接デモクラシー的性格を備える。マスコミのこの種の世論調査は民主・議会政治を殺す暴挙である。

 この意味で、田中角栄世論調査の結果や、マスコミの要求や、まして野党の要求に屈することなく国会議員を辞職しないことによって、彼は、議会政治とデモクラシーを守り通したのである。その大功たるや、不朽の大理石の石碑にきざみ永く国民の感謝をうけるに値する。 しかし、いつまでもつことやら。今や、デモクラシーも、その母体たる議会政治も気息奄々。最高裁もひっくるめて現行の諸制度は、とても田中角栄の有罪確定まで持つわけはないから、田中角栄もその一味も、最終審で有罪か無罪かいっさい今から気にする必要はない。


 山村新次郎委員長は、田中角栄に対する「議員辞職勧告決議案」を握りつぶして本会議に上呈せしめなかった。これによって議会政治を守った。しかし、野党はそれを理由として審議を拒否した。

 この国会空転の責任の所在について誰も気付いていない。例えば、渡辺恒雄読売新聞論説委員長は、 氏(奏野章氏=引用者注)の発言には、政治の結果に対する責任論が触れられてないのは欠陥です。法律的責任は最終審でいいが、国会を空転させ、国政を混乱させたり、選挙で自民党に与えるマイナスなどの政治的責任はきちんととるべきです。(「週刊文春」五十八年十一月十七日号 三一頁) と述べている。

 たしかに、そのとおりなのだが、では、一体だれが責任をとるのか。渡辺恒雄氏は、マスコミや大多数の評論家同様、田中角栄にこの責任をとれと言うのだが、何の役職にもついていない一無所属議員に重要法案審議拒否の責任を取れ、と言いたいのか。政治はたしかに結果責任には違いないのだが、その責任をとるのは当該事項に関する責任者に限定される。このように限定せず無限に責任を取らせる者の範囲を拡大してゆくとたいへんなことになる。 この「無限責任」を、丸山真男氏は、戦前の天皇制社会において分析した。そして結果として、この「無限責任」は「無責任」になることを証明した(『日本の思想』岩波新書一九六一年 三一~三二頁)。

 それはそうだろう。ちょっとでも関係ある者がみんな責任を負わなければならないとすると、本当の責任者が誰かボケてしまう。誰も一身に責任を負う者がいなくなってみんな無貢任。赤信号、みんなで渡ればこわくないの論理だ。

 戦前の日本では、政治責任の中心が、かくのごとくボケてしまったから日本は破局へむけてまっしぐらにつき進んで行ったんだと丸山真男氏は分析している。では、今はどうか。

 この丸山モデルがはるかに昂進して悪化したのが一九八三年末の国会空転劇である。本当の責任者の責任はきれいに蒸発して周辺の人間に責任が帰せられる。国会空転の責任者は、一体だれか。 田中角栄が当然の権利を行使しているのに、それがけしからんと、理由にならぬ理由でダダっ子さえ呆れるような狂態を演じているのは野党のほうだ。そして、重要法案を審議しないと言って国会議員最大の義務を放棄したのだからこの政治責任は重い。

 この責任をとって、野党代議士が総辞職したらどうだ。これがまともな責任のとり方というものである。しかし、こう主張する者は、天下ひろしといえども、太田薫氏ただ一人。どうしても田中角栄を国会から追放せよといきまくのなら、野坂昭如氏のように、新潟三区から立候補して田中角栄に挑戦するのが筋である。その結果田中角栄を落選させてはじめてけじめかつく。立憲政治である以上、これ以外に方法はない。

 また、田中角栄と直接対決することが不可能ならば、せめて徳田虎雄氏のように、田中角栄の子分と一騎打ちすることだ。これで主旨は生きてくる。鳴呼、天下ひと多きこと一億二千万、立憲の本義を知る者両三人とは! まさに、一九八四年の日本は、デモクラシーが死滅して、オーウェル的世界が完成されたのである。

アイキャッチ用画像

日本の「一九八四年」―G・オーウェルの予言した世界がいま日本に出現した (二十一世紀図書館 (0031))