てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

【続】 学校では教えてくれない日本史の授業+α

学校では教えてくれない日本史の授業 2 天皇論/PHP研究所


  学校では教えてくれない日本史の授業の続きです。んでこっからはあんまり量ないけど、日本史の授業2から少し。逆説シリーズで触れた内容の繰り返しだから。まあそんなに個人的にメモる所ないしね。

 宮内庁天皇陵認定は無茶苦茶。間違ったまま押し通している。未だに考古学者に発掘が許されない。壁画など下手に発掘して劣化・損傷する恐れがあるからそれまで待つという手ももちろんあるが、それなら手入れをして伐採などをちゃんとしないと木の根などで石棺が破壊される恐れがある。宮内庁ェ… 。

 装飾・文字・墓誌がないという天皇陵の形態は世界中から見て非常に珍しい。それは生き返ってはならないと考えられているから。怨霊となって生き返られてはたまらないという発想。エジプトのピラミッドのように魂の再生装置だったり、過去の栄光をたたえたりするのが普通。

 天皇は祭祀で忙しいということもあって、関白に政治権限を奪われることになった。よって前天皇上皇となれば煩わしい祭祀に邪魔されることなく政治が取れる。で院政が始まるわけだが、院政という新しい政治制度の登場は平清盛の台頭に後の源氏と合わせて考えても、最早藤原政治の限界が表面化したのだと見ていいだろう(または寒冷化による急進的な政治再編の必要性、関東特有の寒冷化の影響で生まれた信仰とかありそうなんだけどな。八幡とかそういう要素が多分にある気がするが)。

 藤原氏は無駄な政治システムを換骨奪胎して地方のニーズに応えたが、中央貴族として馴染みすぎた、あるいはいい加減地方から疎まれたか?鎌倉幕府のように相続問題に対処できなくなったか、いずれにせよ時代の変化についていけなくなった。

 成功(じょうごう)、ある種の売官で平氏上皇が結びついたのがいい例で、新しい力を持ったもの(新興勢力)と、新しい政治を始めようとした権威が結びついたのは従来の体制では新しい課題に対処できないから。西国の平家が真っ先に結びついたのも、その商業力、経済力から当然といえよう。

 清盛は太政大臣になることでその政治システムを確立するわけだが、どうして武士達のために幕府を作らなかったの?という疑問が出るが、これは当時の日本が大まかに、西・中(機内)・東の三つに分かれていたからだろう。九州→機内と大和朝廷が成立(定説はない)したように西と中の一体性は強かった

 九州・中国・四国・関西と海でつながっている。中国との交易もあって九州から機内まで経済的ルートで一体性が強い。既存の政体下に組み込めば十分やっていける。対して関東は開発して日が浅い。領域の最前線の経験、征夷大将軍の幕府があった経験がなければ幕府という発想は出てこない

 関東は主に農業武士が主体であって、そういう支持層が故に幕府という制度のニーズが強かっただろうが、西にはそこまでではないから幕府という制度は出て来なかった。そもそも背景の前提が西と東で大きく異なったと思われる。

 ではどうして幕府を作った頼朝や鎌倉幕府の継承者は朝廷を滅ぼさなかったのか?世界的に稀な朝幕併存体制になったのか?それは怨霊を恐れたからと書いてあるが、それ以前に単にリソースの問題、そんな国力がそもそもないという事情のほうが大きいだろう。清盛も東を支配する力がなかったから放棄したと思う。

 そもそもどうして全土を統一した政府が軍隊を廃止したかといえば、そんなことする理由(軍隊を維持しておく必要)がないという以上に、統一軍や全国的政治機構を維持する国力がないから。日本という国を統一しようという勢力が登場したのは織田信長が初めてという事実を見てもそれは明らか

 家康は幕藩体制という既存政治制度をそのままの状態で凍結するという珍しい制度をとった。普通なら敵対しかねない外様大名は必ず滅ぼすはず。それをせずに現状をあるがまま封じ込めたのは、国力がなかったから。織豊政権のように実力で全土をコントロールするような制度をすれば可能だったろうが…。

 織田も豊臣も見ての通り一代で天下統一作業を達成できなかった。実力主義・下克上の時代、全国を一つの強力な政体のもとにコントロールすることは終わらない戦乱を招くことになる。日本が統一されたら海外へ出兵して~となって決して終わらない。全てを封じ込めた、ストップしたのが江戸幕府という政体の本質。なんでしょうね?現状維持体制はまさに「凍結」とでも呼ぶのがいいんでしょうかね?

 もし家康が天下を取って40歳辺りでどうみてもあと20年は余裕で生きるというコンディションだったら、ワシが全世界を一人で制覇しちゃるわい!となったかもしれない。が、当時の家康は言うまでもなく老人、自分が死ねば織田家・豊臣家同様、徳川家も同じ道を歩む。ならこのような「凍結」システム・幕府しか選択肢はなかったハズ。

 なんというか、後醍醐天皇は本当にダメ人間=伝統主義で現実を把握できない正義病の人だったのかなぁ?という気がするなぁ。東はともかく、西や中は貿易で相当な稼ぎが得られる。御家人が奉公して土地もらえなくても、商売で稼げばいい環境にあるし、貿易上幕府の存在が邪魔だったんじゃないかなぁ?

 で、朱子学の導入が明智の反乱にあるというけれども、それよりは中国のイデオロギーであるように現政治体制を塩漬け・封じ込めるために新イデオロギーが必要だった、異なる統治ロジックが必要だったことと。中国でそうである様に朱子学が仏教反乱キラーだから。統治階級と庶民の団結を防ぐためでしょう。家康が一向一揆重臣たちが仏教のロジックに流されて国家が崩壊しかけたように、その恐ろしさを身に染みて知っていたはずですからね。そっちのほうがはるかに重要だったと思います。以前なんかのメモで書きましたけどね。

 農民・大衆の反乱というのは全国的に連鎖したら別ですが(ほぼ詰みですね)、そうでなければどんな大乱でもそこまで怖くはない。問題はそれに国内の有力な勢力が参加してしまうこと、結合してしまうことですからね。朱子学で統治階級の論理、臣と民の別をビシっと教え込めばその統治機構にとって最も怖い臣と民の結合を防ぐことができますから。

 本居宣長国学でこれまでの仏教とは違う神道式の説明がなされるようになったが、あの世、死んだらどうなるのか?という答えには死んだらそのままでおしまいというものになってしまった。その解釈を死んだら大国主命が善人には善で報い、悪人には悪でという解釈にかえた。

 で、「天皇教」という言葉こそないものの、井沢さんも天皇の存在によって日本は天皇の前の平等というものが生まれ、民主化ができたとします。諸外国は裏切り者が出たが、日本ではそれが出なかった。天皇の前に一致団結した故に近代化・民主化ができた。天皇の存在が大きかったと。

 阿川弘之さんが2・26の将校の生き残りの発言を紹介しているが、その人は我々のクーデターを潰していい気なもんだと天皇に言い放ったという。天皇親政を謳いながら陛下への忠誠心は欠片もなかった。阿川氏は結局自分の言うことをハイハイ聞くロボットが欲しかっただけだと言う。陸軍にとって大事なのは自分たちの信念で、天皇の意思などどうでも良かったと。

 で、自分たちの意思=「和」としますが、それなら全国民に呼びかけて徹底的に討論を尽くした上でないとおかしい。これは和でなくセクショナリズムでしょう。クーデターは組織の機能上の要請で「和」(=話し合い絶対主義)とは関係ない気がしますけどね。


「理科」で歴史を読みなおす (ちくま新書)/筑摩書房

 で、内容にかぶっているところもあり、単品だと短いのでおまけでこの本を。『理科で歴史を読み直す』からメモです。

 ユーラシア大陸での人類の広がりにポイントとなったのは岩塩の存在。なるほど塩分を確保できなければ人類の展開もなかったかもしれない。
 縄文人弥生人と同じように九州辺りからだんだん東へ移っていったと思っていたが、暖かい時代アムール川ら辺と交易が出来た。オリエント・黄河文明と北を軸に日本はつながっていた。縄文人の北・東日集中しているのはそっちからやってきたため。寒冷化によってアムール川一帯の社会も廃れていってルートが途絶えていったという説はなるほどなぁという気がする。

 土器の重要性=保存、海水から塩を作る。どんぐりなどの木の実を煮炊きして栄養を有効に取れるようにする。
 
 鉄の登場、ヒッタイトは鉄製造の専門技術集団を持っていた。それがどういうプロセスで技術伝播したか妄想を掻き立てる面白いところ。匈奴が馬に応用=蹄鉄によって世界を席巻する。

 これまでに馬も鉄も存在はしていただろうが、それが見事にかみ合って大帝国を築くというのが面白いですな。兵器よりも移動用として真価を発揮するところとか。まあ、史上初はパルティアなのかもしれんが。やはり馬にしろ鉄にしろ、トルコ・モンゴルの草原辺りが一番環境に恵まれているということかな。

 弥生前期は温暖、それ以前に寒冷化がまたあった。東日本で稲作が難しかった時代に助け合う=縄文と弥生の混交が進んだ。鉄もまだないし破壊的な衝突になりにくかった。また寒冷化で北より寒さに強いプロトアイヌ(後に蝦夷)が稲作を覚えた縄文人を追いやり、西は鉄を持った第二次弥生人が到来。

 古墳時代の寒冷化はフン族しいてはゲルマン民族の大移動を引き起こしたように、日本でも民族移動を引き起こしたのか。蝦夷征夷大将軍の討伐対象がこの時代既にいたのね。西だけに目を取られていたが西&北の流れがあったのか。

 とすると頼朝の幕府設立の際の征夷大将軍という称号が取ってつけたものではなく別の意味があることがわかりますね。蝦夷は寒冷化によってやってきた異民族なんで、再びその脅威に備えるという名分があるんでしょうね。あの時代の寒冷化による社会情勢の激変こそが鎌倉幕府を生んだとも言えますしね。

  日本の鍛冶集団は二種類あって、朝鮮経由の鍛冶集団と渤海から来た鍛冶集団。前者が大和鍛冶と呼ばれ、後者は舞草。奥州鍛冶に引き継がれた舞草は滅ぼされると勝者の武士に連れ去られ全国に散って日本刀を生み出す。

 縄文人は金に価値を見出さなかったのはなぜだろう?交易で使えそうなものなのだが。日本の金の産出は西の500年、のち東の500年。まず西掘って東の情勢が安定した後、東の金。金の有無が源氏>平氏の一因かも?鎌倉大仏は中国の大量の銅銭を鋳潰して作った。大仏づくりで中央への対抗とかそういう意味合いがあったんだろうなぁ。


歴史の読み方―真実は、裏と表を見なければわからない/ごま書房

 あんま面白くなかったんですが、小ネタ集みたいな本からの思いつきメモを。謡曲「鉢の木」は有名な話だけど、こういう諸国漫遊的な話は日本人好きなんかな?努力してれば偉い人が見ていて報いてくれる的な?井沢さんの言う怨霊だから鎮魂のためにこういう物語が作られたってのはないんですかね?

 加藤清正が半島から日本に梅毒を持ち込んだというネタは有名だけど、綱吉の公衆衛生政策「生類憐れみの令」はこの梅毒対策みたいな意味合いはあったのかしらね?まあ梅毒っつーか疫病全般対策なんだろうけど