てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

マルクスの『資本論』 (名著誕生)/ポプラ社

 戦争学原論 (筑摩選書)/筑摩書房 が途中で終わっていました。追記しておきました。まあ、あんまり人気無さそうな記事なので、書いても読む人いなさそうですが。

マルクスの『資本論』 (名著誕生)/ポプラ社

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 今回は名著誕生シリーズのマルクスの『資本論』を。例によってテキトー感想ですが。

 マルクスは芸術家や作家と並べてみるべきで、彼は経済論文を書く前に哲学・文学に取り組んだ。資本論は経済論文ではなく、文学と見るべき。最初に彼は文学者になろうとして挫折した。エンゲルスはブルジョワで、マルクスは貧乏・ド貧民。政治活動で国外追放処分を受け流浪する。

 資本論は未完成、六巻構成の予定で本人が書いたのは一巻のみ。それも残り四巻まではエンゲルス編纂によるもの。未完成で、途中過程であるがゆえに答えが書いていない。だからこそ大きな神通力を発揮したわけですな。

 物神、宗教での超自然的な力があるもの。マルクスはこれこそインチキだ!とする。労働価値説も結局付加価値に対する問いかけ、そこに正当性があるのかないのかという問題。マルクス曰く「資本家見習い氏」は実際の価値より儲けるために利潤を上乗せする。

 普通の暮らしのために労働者は六時間で充分(どういう算出法かわからないが…)、しかし実際はその倍の労働時間となっており、資本家がそれを奪っている、資本家とは時間泥棒だ!とする。

 イギリスで工場法が設けられ、労働時間の制約が保証されても監視官の目をごまかす児童労働は絶えないと。なるほど、だからこそ労働者の権利を守る労働党が発達していったわけですなぁ。この時間が血の例えに変わって資本は労働者の血を吸い取る吸血鬼だと。

 機械の登場で労働者はますます不利になり、オートマトン・巨大な機械が工場を支配すると、大人でなくても扱えるからより使いやすい子供を雇う。失業者は産業予備軍となり、労働力の供給過多となる以上、資本家はますます労働者を搾取する。社会の富が増えれば増えるほど、保護に会う貧民も増える。

 誤解されがちだが、資本主義下では絶対的ではなく、相対的な賃銀の低下が起こる。これが問題。1970年代はレジャー時代が来ると言われていた。ほとんど働かなくて十分な金を手にできる。余暇をどう使うかが問題になると、しかし今では人生と労働をどうバランスするのか?という問題になっている。

 生産力の増大で労働時間が減るのではなく、逆に増える。この辺りの諸関係はますます労働を欲するようになったそれ以前の行動様式、プロ倫のまさにマイナス面ではなかろうか?労働者が消費者として豊かになっていないのならば―過剰生産された商品は在庫として積まれ、恐慌を起こす。

 恐慌は商品だけでなくそれまでの生産関係をも破壊する。過剰生産という疫病、ブルジョア的生産関係は富を受け入れるのに小さすぎる。それを避けるためにどうするか、大量の生産力を破壊するか、新しい市場を得て更に拡大させること。しかしその後にはもっと大きな恐慌が待っているだけである。

 ようするにマルクスというのはいかに現状の資本主義、社会及び制度がおかしなことになっているか、既存支配階級に有利にできているかということを前提に論を考えている。であるから、最悪のケース、「資本家」がそのロジックで社会を動かしていくとどうなるか?という前提で論を進めている。

 もし長生きしていたら、そうでもないそこそこのケースや、最良のケースなど色々なパターンを研究したのだろうけど、そこまで行かなかった。だからこそ粗い。最悪の話しかしていない以上、現在それほど彼の学問が役立つことはないだろう。資本主義の問題を考える上での古典的参考になるとしても。

 革命は経済的危機のときにのみおこる。1848のような革命を待ち続けた。革命、市場の破壊、戦争、諸政府の崩壊、プロレタリアートの団結…なんだこれまんまキリスト教ユダヤ教最後の審判そのままやんけ。エンゲルス自身も最後の審判の日と呼んだ。

 ヘーゲル弁証法も理性の産物。それを引き継いでいるマルクスには自ずから限界がある。マルクス弁証法で予想が当たれても外れても済むように書いておいたと記している。なんだ典型的な官僚話法か、弁証法や古典の筆法にはそういう汚い面も自ずから含まれているものなのだろうか?

 キリスト教の教義が不完全で、イスラム教のそれが緻密で完成されているがゆえにキリスト圏は近代化に成功し、イスラム圏は失敗する一因と言われているがもしムハンマド弁証法的な手法を知っていたら?と妄想するのも面白い。あるいは弁証法的な新解釈がコーランにも出来ないかとかね?

 マルクスはブルジョワジーの没落とプロレタリアートの勝利を最終的に謳ってはいたが、一つの時代から次の時代へと生産関係が移行するのに千年以上かかることもザラであると書いていた。

 そんなマルクスが、すぐさま資本主義が共産主義に移行すると考えていたとは考えにくい。『ブリュメール18日』を読んでもそう考えていたことがわかる。自身が分析して望んだものの通りに、上手いこと展開していってトントン拍子に歴史が作られていくものだとは考えていなかった。

 植民地だと資本論の前提は当てはまらない。なぜなら雇い主に雇用されるより、独立したほうがはるかに儲かるから。イギリスの常識で進出した資本家はたちまち独立した元雇用者に飲み込まれていった。米にはマルクス主義が根付きにくい土壌があったと言えるが、果たして今はどうだろうか

 オキュパイ運動なんかあったけど、正直共産主義(正確には社会主義か)が広まってくれたほうが米の社会現象としては正常なんじゃないか?そのほうがイスラム原理主義とかテロが流行るよりよっぽど健全だろうし

 p102資本論の引用した文献、文学など非常に幅広い。丁度マンガやアニメなら理解されやすいように、文学なら読者を魅了しやすいという性質があったのか?ハイマンがこのドラマに対してふさわしいタイトルに「労働力を担保にするのはお断り」となづけたのはおもしろい。

 資本論は戯曲・芝居としても十分に通用するというわけだ。(最後の審判の観念のように、ユダヤ→キリスト→の延長上にある新興宗教とも言えるし、真に多用な面をもっていたといえる。キリスト教が本来のターゲットだったユダヤ人に受容されるのではなく、欧州に広まっていったように、マルクス主義も本来目的とした西欧ではなく、東欧やアジアへと広がっていたことも似ている。まあ一神教としての機能は生きたが、マルクス主義の場合はオリジナルと似ても似つかなかったけれども)

 晩年マルクスはロシアで革命が起きたために、ロシアでも革命の可能性があるのでは?と考えるようになった。しかしマルクスは西欧を前提に論じたもので、自分の理論は西欧に限られるとしている。ロシアの農村共同体の可能性について考えてはいたけども。

 マルクス主義がマルクス自身の手から離れることになることを彼はよく知っていた。1870年代仏マルクス主義者を見て「彼らがマルクス主義なら私がわかっているのは私がマルクス主義でないことだけだ」と言っているように、既に生前から自身の手を離れて解釈される傾向はあった。

 中国他アジアでの失敗、中国はマルクス・レーニン主義というよりレーニン・マーケット主義だろう。

 シュンペーターは資本主義の存続をマルクスと同じく否定している。革新創造的な破壊は強すぎると死を招くと。

 佐藤勝評、資本論には資本主義分析の理論と革命の理論、後者ばかりが注目されてきた。故に資本論の評価は低い。 マルクス・レーニン主義に苦行で構造を変化できるというロシア正教の修道士の影響がある。西欧で、独・墺などでマルクス離れがあったのは、マルクスの内在的論理を理解しなかったから?

 冷戦という状況なども考えて、理想と現実の乖離という要素の方が大きい気がするが…。天皇制は32年テーゼで生まれた外来種で日本人が考えたものではない。宇野弘蔵の優れた分析はマルクス経済学に大きな貢献を果たした。資本論のポイントは絶対的な賃銀の低下ではなく、相対的であるという点。

 マルクス経済学と近代経済学は前提が違いすぎて有効な議論が難しい。新自由主義経済の時代で格差問題が起こっているからこそ、資本論有意義なものになりうる―というのが佐藤さんの資本論評価ですが、末尾のデイトレ官僚批判を見てもなんか、ちょっとおかしい気がする。

 資本主義の問題・欠点を論じたマルクスの先駆的業績は今でも参考にすべき点が多々あるだろうが、現代経済とは前提が違いすぎてそこまで有益なそれが得られるとは思えない。ケインズシュンペーターなどのほうが資本主義の内在的欠陥を探り当て、対策を講ずるには有益、ソッチのほうが社会・経済的に有益な分析ができる気がするなぁ。マルクスのようにメシがまともに食えない時代と今のような時代ではむしろ富の偏在より、内面・心の要素、本人がどう感じるかというファクターが重要になっているという大きな変化がありますからね。

 いかに富を増やし、公平に分配し、貧困層を減らすかという視点より、人がどう感じるのか?という要素にもっと注目すべきではないか?という気がしますね