てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

『敗北を抱きしめて』の感想①

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人/岩波書店

敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人/岩波書店

 ジョン・ダワーの『敗北を抱きしめて』の感想を。本書の序文にイラク戦争を引き起こした「現実主義者」への批判があるように思慮なき軍事力の行使を諌めている点はスタンス的に己と近い。読む上でも現代の問題を通して論じるテーマと結びつけているので掴みはグッド。日本でもアメリカでも戦後を理解するためには戦争を理解すべきである。

 戦争は権力を再配分する。戦争は社会を半永久的に変え、制度を変える。そして生き残ったもののメンタリティを変える。筆者は公民権運動とベトナム戦争に直面し、そこから戦争と平和・勝利と敗北・社会における正義といったテーマを考えるようになった。

 民主主義や社会の正義というものは財産であり、その維持・完成のために個人がコストを払うべきだということは誰でも知っている。しかし歴史の教訓から学んだのは権威や公式見解への懐疑と人種差別と自民族中心主義へ陥らないことという注意だった。平和・民主主義・平等は西洋の専売特許ではない。そして西洋でも長い間それは否定し続けられていた。

 私が問題とする「日本人」とは全ての階層・階級を含む皆である。しかし森首相の神の国発言は明らかにそこに皆が含まれていない。自分の知人、尊敬する日本人とは明らかに異なった戦前時代の見解であり、腹が立った(この指摘はちょっと意味が?己にはよくわからない)

 英語で出版される日本関連のものは大抵南京事件のような残虐なものか、芸者や禅といった異国情緒を煽るもの(つまり英語圏の日本理解というものは未だに非常に乏しいものであるということがわかりますね)。この本が受けたのは、どの文化・国でもあるように、日本の多様性を描いたから。敗戦時に多くの日本人が平和や民主主義を真剣に考える姿にアメリカ人読者は驚き、胸が湧くことであった。

 そもそも異国に対する無意識な思い込み、偏見、異文化理解の必要性を重視していないことなど超大国としてあまりに拙いと思うのだがその指摘は何故ないのだろうか?本書を通じてもそうだが…。

 なんか大日本帝国が自民族中心主義に染まりきっていたみたいな感じで書いたり、当時の東亜での戦争に至るまでの国際背景とか正確に理解しているのかな?という疑問はある。別に日本よりに書く必要はないけど、自由貿易の崩壊で日本が戦争に向かっていったと説明していないのは大丈夫かな?という気が…。

 マッカーサーは救世主的情熱を持ち、東洋社会を作り変えるべきだというキリスト教的使命感と白人の責務という植民地主義的なうぬぼれを持っていた。日本占領は欧米のそのようなイデオロギーに基づいた最後の例という視点なんかはまともだと思うんですけど、所々?というところがありますね。

 いわく、勝者・米の視点からでなく、日本側からの視点「抱擁embrace」としてみるからこそ新しい物の見方を提供出来たはず―なのだが、どうも米=善・正義&日本(正確には軍隊)=悪という見方を引きずっているような印象を受けますね。日本の東亜の被害を取り上げるなら欧米も取り上げるべきに思えるが…。善悪で論じてはいないんですけど、なんかそこにフェアな視点がちょっと感じられないですね。

 そういえば筆者には日本文化、日本人の行動様式に対する基点がないんですよね。その発想から分析するとむしろ日本人のこの時の行動は理にかなったものだとか、だから日米で文化的誤解が生じるのだとか、日本を知る上でここを抑えないと本当の姿は理解出来ないーというようなオリジナリティ、オリジナル日本論がないことが分析を浅くしている所か。日本をユニークなものとして扱う=ネタとして消費すべきではないとあるだけに残念。

 カーなんかも、研究対象の文化や相手の立場からすると、どういううふうに物事が見えるかということをまず抑えることが大事と言っていますしね。そうでないと研究対象のソ連サイドの正確な意図が見抜けないと指摘していましたし。筆者に日本の懐に踏み込んだ、日本をよく理解しているなぁという感じはしないですね。まさに懐に入って「日本を抱きしめて」欲しかったなぁというのが正直な感想でしょうか。

 そもそも日本の戦後を論ずる上で、日本の戦後民主主義の歪みを考える上で米の非人道的行為、日本経済・生産体系の壊滅という事をまず抑えないと理解しようがないと思うのだが…。日本を占領・管理しようと考えるなら、戦後の速やかな復興なくして健全な社会・民主主義など生まれようがないだろうに…。

 マッカーサーなどかなり早いうちから、戦後日本抜きで東亜の力の空白を埋められない故に、日本の軍事基地化&支配を通じて東亜の安定・秩序化を考えていたというが、それなら日本の生産体系をあそこまで破壊するのは理にかなわない気がするのだが…。それだけ軍国主義の徹底的排除を望んだという事か?

 あと、降伏文書の調印で天皇にサインさせないことが驚きとか云々あるんだけど、戦争が終わったあとは以後の国家関係を円滑にさせるために双方配慮することは普通に思えるんだが。文書破棄・隠匿がごまかしとか普通に機密保持の一環(当然負の側面有り)だろうし、?と思うことがやっぱ多いなぁ。

 米は日本の交戦能力を高く見積もりすぎていたと。んで日本の戦争における被害を書いているんだけど、そこでの民間へ多大な損害を与えたという米軍の非道な性質にかけらも触れていないのは、ベトナム戦争だったりイラク戦争を見つめるというテーマからして問題があるのでは?と言わざるを得ないなぁ。

 戦争が終わった直後のモラルの崩壊という性質は当然あったと思うのだが、そもそも明日から生きていけるかわからないという経済状況に追い込まれたら、目先の物を奪って生き延びようと成るのは自然の摂理だと思うのだが…。降伏後・戦後の混乱をこんなふうに語られてしまうと…。

 戦後、孤児・浮浪児問題があった。コソドロ、靴磨き、新聞売り、シケモク売り、配給の不正売買で生計を立てた。当然売春に走るし、子供のスリは硬貨のなる音から「チャリンコ」と呼ばれていた。大卒のホワイトカラー以上稼いでいた者もいたというのは驚きですね。当然浮浪児の一斉摘発も行われたと。

 吉田茂がケーディス大佐に「日本に民主主義なんて無理だ」と言っているのは、ドコか他人ごとのような感覚で腹立たしく感じるのだが、ひょっとして日本や日本人に対するよりも、GHQや「民主主義」に対しての皮肉なのかもしれないなぁ。実際はその半々なのかな?やはり。

 「上からの革命」「天からの贈り物」として民主主義は表現された。また配給とかけて「配給された自由」とも。言うまでもなく、自由も民主主義も勝ち取るものであって、与えられるものではない。初めから言葉的に矛盾している。「冷たい熱湯」くらい矛盾した言葉だ。

 結局、明治憲法の「欽定憲法」のようなもので、国民が権力を縛るという本来の憲法とかけ離れた立憲政治としてスタートしたように、戦後民主主義明治維新と同じく上から与えられるものを受容するという歪んだ形で始まったことは注目しておくべきだろう。南原繁もやはり外形だけと批判しているしね。


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