てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

ニコニコ大百科の法正について


 ニコニコ大百科の記事を見て呟いたことなんですが、久々に三国志ネタを。そろそろ漢書でもやろうと思っている時なんで、リハビリがてらですね。

 まあ、ああいうたぐいにマジレスするのはなんですが、近代史以前の限られた史料で人物の性格なんて絶対わからない。そういう価値判断は史学ではやってはいけないこと。外様の法正がいじめられたというか待遇悪いのは普通だし、政権とって復讐するなんてあたりまえのことですよ


 以前、ちょっとそういう話をツイッター上でしたんだけど、かなり歴史に詳しい人だったんだけど、そういうタブーは理解されなかった。やっぱり人格・性格から分析して歴史を理解したいって人が多いんですかね?創作物(小説・漫画)から入るとそういう傾向が大きくなるのかな?それともやっぱ殆どの人はそう考える傾向があるのかしら?

 『三国志』の「一湌之德,睚眦之怨,無不報復」は、「其州邑俱僑客者所謗 無行,志意不得」に係るから、法正の報復相手は孟達以外の同郷人一派だと。んで、「報復」という言葉は今の「報復」という意味ではなく、「報恩と復讐」という意味だと。

 政権とってそれまでの主流派・益州人とかに仕返しをしたのではなく、同郷の人物に報復したのか。珍しいですなぁ、同郷の人物をやるってのは。おそらく法正みたいな好戦的、蜀から天下取る!みたいな人間は稀だったろうからなぁ。郿出身とかレアキャラですしね。董卓残党との繋がりもやっぱ強いのでしょうか?

 
郿から流れ落ちた人々が法正を頼って来た。董卓時代に流れてきたマネーなどを持っていて、それを元手にもう一旗!と法正は考えるも同じ涼州で扶風郡の孟達くらいしか賛同してくれるものがいなかった。中央が安定したら帰伏しようというのが大勢。其州とあるし、涼州の大部分はもう董卓で懲り懲りか、好戦的な人は残って馬超の流れに入っていったという感じかな?諸葛亮姜維を重用(?)したり、涼州人を使おう!となったから孟達も蜀にカムバックしてくるわけですしね。ある種馬超みたいに孟達は警戒されていたんじゃないでしょうか?

 諸葛亮が将来を見据えて、涼州人を大切にしたかった。と考えると、
それまでの主流派(益州人)に取り入っていた同郷人に復讐して、それまでの主流派が諸葛亮に泣きついた。―この構図で諸葛亮が法正に「やめたげてよぉ」と言うのも筋が通りますね。仮に法正を涼州の武闘派として、泣きついた方を穏健派とすると、穏健派をも丁重に保護しておいて、涼州占領後の慰撫につかいたいでしょうしね。

 要するにそれだけ、この二つの派閥に差があって、政権交代で主流派と非主流派、与野党入れ替わりの際の待遇が天と地ほど開いていたってことじゃないでしょうか?だからこそ、法正の対応は「えっ!?そこまでやるの!?」って思われるほど厳しい対応に受け取られたということじゃないでしょうか。
 


※短いのでオマケ
 メモ:高山右近の寺社勢力の弾圧の背景って面白そうですね。キリシタン大名の背景には聖徳太子が仏教を導入したように、宗教勢力を排除したいという要素があったんでしょうね。信長に許してください!なんでもしますから!と降伏して逆に加増されたなんて話も信長的で面白い事例。

 没年不明の人って、墓の記録、墓誌だっけ?そこからしか記録がないから正確にはわからないんでしょうね。大抵そういう墓に書いてあることは褒め言葉オンリー、この人は本来なら三公になるはずの人物やったんや!って書かれるもんだから注意しなさいと某兄さんもおっしゃってたし。

 あれ?ってことは、はっきりとした生没年がわからず享年しか記されていない人物ってのはちょっと政治的にあんまり功績を残せなかった、大したことなかったランクがちょっとおちる人物と見るべきなのかしら?

※追記
  ①初めに張松劉備接触。還って劉璋曹操との断交と劉備との同盟を進言。②次に劉璋は法正を派遣。③そして法正と孟達を派遣し劉備に兵四千と数億銭を供与、法正帰国。④211年三度目の法正派遣。劉備入蜀。

 このような軍事・政治的関係のやりとりを三顧の礼に当てはめてみると。劉備諸葛亮の人的関係が三顧の礼というより、劉備独立の下準備に諸葛亮が中心人物として働いた。エージェントとして機能したと考えることも出来ますなぁ。諸葛亮の政治資産・コネのネットワークは言うまでもないですからね。荊州南部を中心として既になんやかんややっていたんでしょうね。周瑜諸葛瑾魯粛あたりが繋がっていると考えるのが自然ですかね。

 劉璋劉備接触、特に兵士と軍資金の供与は孫権への裏切り行為に近い。劉備を疑い、妹を娶せ婚姻関係で強化したのか、それとも婚姻関係が結ばれたあとで、なおかつ劉璋との関係を深めたのか気になるところですね。

 周瑜が若死にしなければ、劉備孫呉サイドの戦略に則って動かざるをえなかったでしょうし、先鋒となって入蜀をしていたのは間違いない。劉備が政権内で浮いているのは変わりないですから、荊州守らせて荊州で不穏な動きされるよりは、蜀でという選択肢を選びそうですし。

 この件っていつも劉備サイドから解説されていますけど、実は劉璋も結構したたかですよね。赤壁後・周瑜の死の隙を突いて離間を図っている。本来曹操降伏の一手しかなかった所を周瑜の死で一気に劉備口説きにかかるとか。五斗米道叩いたら征呉のプランとかあったら面白いですね。まあ、そんなことして共倒れはマズイからまず「自守の賊」路線になるんでしょうけどね。

 劉表には蔡瑁のような強力な後見人がいたためにお家争いは揺るがなかったでしょうけど、もしかして劉備を招いたのは蔡瑁のような後見人を期待してのことなんでしょうかね?彼は後継者育ってないという背景もあって、蜀の元からの有力者を封じ込めたかったという感じなんでしょうか?まあ、どっちに進んでも死亡フラグですかね。

 劉備が力抜きでなく、同盟・協調路線を進んで北伐していたらどうだったでしょうか?まあ、劉璋死後の背後から突かれる恐れとか、荊州との連絡を絶たれるとかそういうことを考えると無謀以外の何物でもないんで無理か。