てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

「現人神」「国家神道」という幻想 著/新田均

「現人神」「国家神道」という幻想―近代日本を歪めた俗説を糺す。/PHP研究所

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 国家神道=現人神=信仰の強制=(神のために死ね的な)軍国主義というのは妄想にすぎない。Total War直前の一時的な現象でしかない。明治政府誕生以後、ず~っと天皇=神とか、北朝鮮のような思想・政治体制ではなかった(そういえばそんなことを言って炎上していたゆるキャラがいましっけ)。現人神は明治では殆ど出てこない。現人神が修身・教科書に出てくるのは昭和16年から。

 初期の神道を仏教・儒教に優越させようという目論見は真宗の反発があって失敗。これを「大教院分離運動」という。抵抗が大きく神道教義に下手に手を付けられなかった。

 天皇「神孫」論は、神話を読むと天皇だけではなく国民も一緒に天皇とやってきているから、尊卑の別はあれど日本国民も同じ神の子孫になる。いずれにせよ初期に天皇の絶対性はそこでは説かれていない。

 大国主命の祭祀をめぐって論争が起こる。結果、神社神道(祭祀)と教派神道(布教・葬儀)に別れる。上級神主が布教・葬儀をやると教義をめぐって混乱、ひいては天皇の権威まで落としかねないという教訓を残した。

 井上毅はこの教訓を受けて、曖昧戦術をとった。哲学・神学上ボロが出ないようにあやふやにしておいた。天皇や政府が巻き込まれない配慮をした。教育勅語にも天孫降臨神話は書かれていない。思想・良心の自由に配慮して、勅令ではなく天皇の社会的な著作という形にして輔弼大臣の副書=行政上の権限に基づく形を避けて公表された。ところがこれが輔弼大臣の関わっていない、天皇直接のお言葉として絶大な効果を発揮することになってしまった。

 学校行事も論理化は避けて、知らず知らずのウチという形をとった。御真影は仏教の、式歌斉唱はキリスト教の賛美歌の影響か。

 尊皇というラインさえ守っていれば、民間の解釈は自由にしておいた。無論民間から自発的な強制などがあり、それを防いだり、そこから守る・保護をして信教の自由を確保するというレベルまでには行かなかった。それでも国家が神道以外の特定の教義を弾圧するというレベルではなかった。

 加藤玄智は天皇キリスト教絶対神と説明することで、こうすれば向こうも理解・納得をしてやすやすと天皇への忠誠心を批判をしないだろうと考えたようだが、むしろホルトムの著作にあるように非合理性を際だたせるものとして受け止められた。

 田中智学日蓮宗の思想家が八紘一宇や国体擁護・反国体思想・日本国体学という言葉を作った。玄智・智学ともに現人神の背景には仏教思想が見られる。

 清原貞雄いわく、天皇と国民は神話で結ばれているのではなく、相互の信頼と敬愛で結ばれている。神話を軽んじる言葉が内務省の神社局の公式文章に普通に載っている。こういうものは、大正10年の空気を感じさせる。この空気はいかに失われたのか?

 相次ぐ帝政の崩壊、ロシア・ドイツ・オーストリアという背景。コミンテルンにより日本にも共産党の登場。共産主義思想の蔓延、大学生という社会上層のエリートが一斉検挙されたショック。統制経済全体主義思想が入って天皇を中心とした国家社会主義という考えや個人主義思想の登場。大川周明井上日召北一輝には個人主義の観念があり、彼らにはこれまでの忠君愛国は古くさくて受け付けられなかった。さらにここに石原莞爾のような日蓮宗の思想が加わる。共産主義個人主義日蓮宗などの宗教、この影響を見逃すと現人神などの説明が上手くつけられない。

 エリートがマルキシズムに染まるのはそのような魅力的な体系になっていないから。それが国体に求められるようになった。欧米がソヴィエトに対向するために政治警察を導入してソヴィエト化せざるを得なかったように、日本でも「ソヴィエト化」が起こった。竹山道雄いわく青年将校から聞いた国体論からは、天皇スターリンのようなものであると連想したという。まあ要するに現人神というロジック・機能はアンチ・マルクス主義なんでしょうね。ソ連におけるスターリンの個人崇拝のように、いわば共産主義なき個人崇拝となったのでしょう

 大正時代、軍人は肩身の狭い思いをするようになった。宇垣軍縮で現役将校を中学以上の学校に配属し、将来の下級将校養成、軍縮による失業の救済、教育の支配という事が図られるようになった。配属先で校長の権限下にあるのを無視して問題を起こした。丁度日教組が校長の権限を無力化したように。

 天皇機関説事件の反応、岡田首相の学者に任せる・委ねるという態度が議員・軍に押されて弾圧に踏み切るさまは、まさに今の戦後評価について侵略云々について国会で野党が追求する構図と瓜二つ。後世の判断に委ねるとか歴史が判断するというのは、本来こういう微妙な問題の時に使うべき文言か。この時点での「国体の本義」には当然八紘一宇のような領土を広げる概念はない。国際情勢、戦況が苦しい時に総理大臣が現人神や八紘一宇という言葉を使う=縋るようになった。

 『アメリカの鏡・日本 新版 (抄訳版)』』や『昭和精神史 (文春文庫) (戦後篇)』などの名著にそのような虚像・幻想は否定されているのに、どうして明治から一貫した国家神道という虚像が未だに根強いのか?これは戦後統治、GHQの名残だろう。

 ドイツが人種的優越から征服を念頭に置かれているのに、日本はそれとは違い人種的優越を否定する解放を謳っている。確かにドイツが征服を謳っていたのに日本が解放というのは環境の違いといえばそれまでだが、回戦理由・テーマのメンタリティの違いは面白い。

 国家神道という用語は戦後から人口に膾炙するようになった。前述の加藤玄智の発想、現人神を中心とする国家という教義で、神社・教育を通じてそういう思想を国民と一体化すべしというもの。そしてホルトムやバートウのようにこれを真に受けて、当為を事実と錯覚して、日本というのは国家神道という宗教の信者であるという観念が米人に成立していた。

 GHQ国家神道を禁ずるときに、天皇や日本人や日本国土に基づく優秀思想の禁止。そしてそれに基づく戦争の肯定を禁止している指令を発している。これによって彼らが国家神道というものをどう考えていたか教えてくれる。むしろこれによって国家神道という定義ができたといってもいい。付け加えるなら、おそらくヒトラーナチズムの類推もあったのではないか?人種的優越を同じように彼らも唱えていると類推したのでは?

 

 明治四年に神社を没収して統一しようという動きはあったが、明治六年にその政策は早くも修正される。全国の神社を傘下に入れるほど財政力はなかった。

 日露戦争の賠償金が入らなかったことで、戦時臨時税が延長された。国民の忠誠心とより一層の国力増強が望まれたという背景。また教育の充実を掲げ小学校が4年から6年に延長された。この負担を「地方改良運動」という動きで賄おうとし、それに神社が参入していった。一町村一社となって、そこと小学校・青年団が結びついた。国家側は奨励すれども強制せずだった(無論、地方によって強制はあっただろうが)。

 神社倫理化運動、キリスト教徒や真宗徒から神社の宗教的要素を排除してより倫理としての性格をハッキリさせて欲しい、また宗教としてきちんと認めるべきという問題が起こっていた。このままでは神社が非宗教化されてしまうという危機意識から、宗教として確立しなくては!という動きが起こり、強制化へのベクトルが働き出す。

 前述の宇垣軍縮の将校配属は強制でもないにかかわらず希望が殺到した。それは高等教育機関における学校教練過程合格者は兵役訓練が通常二年のところを10ヶ月で良いとなっていたから。当然その資格があるかないかは学校選択の魅力の点で死活問題になる。徴兵制とその短縮特権故に、学校へ軍人が配属されるのは好ましく受け止められたと。

 それまでは「教育に対する軍国的侵略」との批判の声が多かった。この空気が一変したのは、昭和7年5月の上智大学事件で、信仰から将校が学生を靖国に参拝させようとしたのを拒否したことをきっかけに起こった問題。陸軍は以後将校配属を拒否し、カトリック側との応答の結果、参拝に問題がないという公式見解を引き出すことになった。問題はこれ以後、学校側が小学校までだった神社参拝の校外教育が上級学校にまで拡大されたこと。これをもって強制的な宗教だったと解釈されるようになったこと。だんだん参拝拒否ということが出来ない空気になって、戦争が始まる頃には参拝を拒否する宗教団体は認可しないということになった。

 長州=真宗(西本願寺)、よって島地黙雷という長州出身の末寺僧侶が維新後に西本願寺の主導的地位に。対して薩摩は平田篤胤復古神道を奉じ、真宗嫌い。西南戦争後ようやく普及が出来るようになったという状況。新仏合同布教を目指して明治五年に設置された教部省は元々島地黙雷たちの権限から。ところが出来た時には長州閥のリーダーたる木戸も、島地も欧州にいて最高責任者は西郷隆盛だった。そのため造化三神が祀られ、神主仏従の姿となっていた。これに衝撃を受けた島地が大教員分離運動を展開し、その理論づけが神道非宗教論だった。征韓論で西郷が政府を離れて教部省の実権を握ることで収まる。

 前述通り神社非宗教論はその時その時の理由でたまたまそういう方針がとられたり、変わって行ったもの。そこに当初からの一貫性はない。

 宗教弾圧は国家神道以外だからという理由ではなく、非科学的なものが対象だった。これは合理主義に基づくもの。また共産党が壊滅したのにもかかわらず特攻・思想検事などが官僚の自己保存の法則、組織の論理を発動させたのが大きい。

 朝鮮は本土と事情があまり変わらず、台湾は昭和13年~15年寺廟整理という伝統信仰に対する破壊があった。それも16年には中止されてる。日本に対する祭政一致であり、占領地の信仰の自由を侵害するという宣伝工作を恐れたため。フィリピンでもそれに気を使いカトリック神父を送っている。

 梅原猛の戦前への視座は、体験と恨みから客観視をできなくなっている。竹山道雄が『昭和精神史』で怨嗟から歴史へのセンスを失っているという指摘そのもの。

 国家神道幻想の正体は浄土真宗。浄土真宗の現人神は真宗の法主が「生仏」だった法主生仏信仰の焼き直し。島地黙雷も真宗こそ軍隊にふさわしい教義だと言っている。真宗もこのような教えに違和感を起こさず従っている。真宗が従ったことを負の歴史とするなら、神社側は何もしなかった、何も出来なかったという負い目があった。ゆえに国家神道という幻想を必要とした。

 明治維新一揆である。勝俣鎮夫『一揆』では、危機に対してそれまでのしがらみを超え新しい共同体を創出する。道理に従い一味同心する(共同責任を負う)、「新仏への起請文」が結ばれた鎌倉幕府の評定会議にそれを見ると。

 天皇・国体議論にはこのような一揆、危機において新しい共同体の創出のための新基板思想という面があったのだろうと。