てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

ヨーロッパ国際関係史 (渡邊啓貴、細谷雄一、岩間陽子、広瀬佳一)

 

ヨーロッパ国際関係史―繁栄と凋落,そして再生 (有斐閣アルマ)/有斐閣

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 『ヨーロッパ国際関係史』(渡邊啓貴、細谷雄一、岩間陽子、広瀬佳一)についてつぶやいたのをまとめ直しました。例によって個人的なメモなんで、本文の記述と己個人の主張・雑感をごったにしていますので、筆者の主張と勘違いしやすい記述になっております。筆者の主張を知りたい方にはあんまり有意義な文章ではありませんのでその辺ご了承の上、読んでください。

 東ア外交を理解する上で、欧州という地域が比較検討対象になるという意味だけでなく、現代国際法の基本は欧州の歴史・慣習であり、その外交の積み重なりがベースになっているものですからね。

 その欧州史、欧州の外交を知らずして、現代東ア外交とはどういう力学・構造なのかがわかりませんし、冷戦という問題の解決方法・そしてその成果として生まれた欧州統合という一つの枠組みは東アジアにおいてはどうなのか?解決方法の手順に加え、欧州統合のような制度が同じく東アジアにおいても答えになるのか?―というような思考実験が当然なされますし、そのストーリーから相違点をあぶりだせば、現代東ア外交の問題を解決するヒントが見つかりますからね。

 というかそもそも東ア外交がどういう性質・力学・構造なのかという分析ってあるのかしら…?

 こっから、読んでてふと思いついたことです―外交は恒常的であり、戦争は一時的である。外交は常時存在するが、戦争は諸国家間の問題に対する交渉が破綻した時において起こる一時的なもの。外交は戦時中でも存在するが、戦争は戦時においてのみ存在する。無論、その危険性故に戦争になるという懸念自体が日常の外交の場でも重要な意味を持つのだが。

 外交は日常的、長期的、偏在的であるが、戦争は非日常的、短期的、限定的である。無論これは、どちらが上であり下である、また主であり従であるという問題ではなく、コインやオセロの裏表のように密接にリンクしてあるということ。戦争抑止のために戦争を知るのなら、同様に外交を知らなくてはならないということ。

 そもそも国交とはなんだろうか?お互い主権国家と認め合って大使を派遣しあう、外交関係を築くことだと言われるだろうが、読んで字のごとく「国が交わらなければ」そもそも必要がないもの。そして東アではその交わり自体が近代化するまで存在しなかった。「国交」という観念自体が存在しなかった

 欧州の相互交渉を前提とした外交と比べたら、中華秩序を基準としたそれは「相互非干渉」を前提としたもの。それは「外交」というよりかは、自己の権威付けのための「儀礼」に近いと言えるだろう。国交が基本である欧州近代外交に対し、東アは国交を持たないことが基本だった。

 欧州は新大陸やイスラム圏との接触により欧州という価値観念を発達させてきた。そこにはキリスト教という裏付けもあった。東アにはそれに値しうるものや経緯が存在しない(儒教・仏教・律令制などの共通点を指摘することも可能だが、そこには共通点よりも相違点の方が目につくと言っていい)。

 欧州の「国交」には単に国が交わるという以上に戦争による関係の断絶が背景にあると考えられる。恒常的に戦争をし、そしてまた講和を繰り返してきたため、国家間関係の破綻と再構築というプロセスは常識・慣習として根付いている。当然東アはそうではない。欧州には宮廷外交というベースがあるなど違いをあげたらキリがない(ここで宮廷外交で言いたいことは、国境を超えて貴族という身分が同じ身分として通じたり、そこに共通の一体感が存在することなど。東アでいえばそういうのがあったのは仏教僧くらいか)

 泰斗ルネ・ジローいわく(『国際関係史1871~1974』)、歴史においてトータルでしかありえないとするなら、それは国際関係史において他ならない。積み重ねの上で歴史は存在する。東ア外交・構造も同じ。そもそもその枠組の歴史自体が浅い外交の歴史が浅いが故に、トラブルが頻発するのは必然と言えるだろう。新しい近代国際法・外交のルールと、旧式の中華秩序式の常識・ルールが未だにあって、その異なる価値観が衝突しあっているのが現代の東ア外交の基本。まして、近代国家として成立して、民主主義としての歴史も浅いのに何をか言わんや。中国という大国は民主主義すら導入していないのであるから、その外交の難しさは言うも更なり。

 本書は主権が誕生した三十年戦争・ウェストファリアから見ていくのだが、やはり国際関係史とはそこから見るべきなのだろう。何と言っても宗教・内面の自由に干渉すると戦争が終わらない。主権を確立して戦争をコントロールすべき、戦争の被害をなるべく抑えるべきという観念が生まれたということが大きいだろう。

 この戦争の本質ハプスブルク家ブルボン家。仏・ブルボン家スウェーデンが大国・強国として、国際的な承認を得た戦争といえる。ウェストファリア公国のミュンスターオスナブリュックという場所はそれぞれパリとストックホルムの中間地点が故。講和場所、席次によってどちらかが勝者であるということを示されると揉めかねないから、それぞれの中間地点としてここが選ばれた。代表もそれぞれ別々に出席し、対等の交渉という姿勢を示した。

 仏・ブルボン家スウェーデン対照的に、太陽の沈むことがない帝国と言われた西帝国・ハプスブルク家の没落と、ローマ帝国という枠組みの衰退を意味した。欧州初の国際会議は、外交儀礼が未確立だったが故、合意までに3年もかかった。神の法を基にした宗教戦争という枠組みの脱却と、自然法を基にした国際法と国際関係への転換を意味していた。

 ※キリスト教・神の秩序・宗教戦争から、自然法(人権)・そこから生まれる国際法の秩序・国益を巡る王家の戦争という移行がポイントですね。無論、前者と後者を明確に切り離す事はできませんが。

 うーん、モデルスキーの覇権モデルの話が出て来るが、欧州(=一地域)の覇権と世界の覇権をごっちゃにして考えている恐れがあるロジックなので、あんまり好きな論理ではないんですよね。欧州も大陸と海の覇権を分けたほうが理解もしやすいだろうし。いつから欧州と世界のそれが同一になっていったのか、などの視点が必要な気がしますしね、この覇権モデルについては。

 ウォーラステインの「中心」と「周辺」の話も有益な一つの見方なのだろうけど、今ではちょっともう古い気がするのだが、渡邉先生はそのモデルを今でも重視しているのかしら?

 中継貿易で栄えた蘭は重商主義・毛織物という基幹産業があった英に敗れる。西の次は新しい太陽ルイ14世を中心に動く。ユトレヒト条約で、英の新大陸での優位、西帝国の崩壊によるブルボン家ハプスブルク家の構図が生まれた。そして露・普というニュープレーヤーの登場により、欧州に占める大国の構図が英仏墺露普の5つの大国という図式に変わっていく。列強のメンバーが移っていく変遷にまた注意が必要か。東アにおいては列強と言った観念はもちろん、大国・覇権国の交代などの経験はないから。露は軍事大国スウェーデンを解体することで、普は墺を叩くことで大国の名乗りを上げる。

 Holsti1991によると1648~1713年の戦争の要因は領土が24%、通商航海が16%、王位継承が14%だった。1714~1814年でもその傾向は変わらなかった。しかし19世紀以降になると民族解放・国家形成・領土保全が戦争の主要因になっていく。王家・貴族から国民の動機が主体になる時代に。

 勢力均衡の安定は、拡大余地=辺境が残されていたこと。国民国家による民族主義Nationalismがなかったことで国家が妥協がしやすかったことが大きかった。勢力均衡という理論もまた環境と無縁のロジックではない。民主主義と資本主義が民生の安定をもたらすも、それぞれの民主主義の主張が衝突し合い、国際関係を不安定にしていった。

 民主主義の台頭の話に移る前に、重要な七年戦争について。この戦争は独における普・墺という二大勢力の図式を確立しただけでなく、外交革命という要素がある。今でこそ、戦略のために過去の因縁を越えて、外交関係を敵から味方にダイナミックに転換させるということは珍しくないが、この同盟・関係改善はこれまでとは意味合いが違う。

 大陸における基本図式だった両王家が同盟を組むというのはさしずめ米ソが同盟を組むようなもの。欧州の基本構造・図式であった、ハプスブルク家VSブルボン家というものが最早成立しなくなったことであるが故に画期的な意味を持つ。またカウニッツ伯がルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人をパイプにしたのも面白い。

 彼女は「私が支配する時代」と言っていた、つまりルイ15世を自由に動かせるのは自分だという自負があった。個人の信頼関係を中心に外交が動いた典型的な例だろう。

 更に欧州外交の構造が決定的に転換するのが仏革命。以降、民主主義・一般民の権利確保というテーマが急浮上してくる。

 民主主義は既存社会の構造を徹底的に破壊する。仏革命の血腥い事件を見ても分かる通り、諸国はいかにしてこの革命の輸出を防ぐか、恐怖政治を防ぐかがポイントになった。暴民が上層を殺し、財を奪う。今で言う共産主義の革命の危惧があった。だからこそウィーン体制は仏よりも「革命」の封じ込めが最重要課題になっていた。

 だからこその正統主義・復古主義であった。1815パリ条約で7億フランの賠償金と5年間の北仏への同盟国15万の駐留が決まった。1818には賠償の完済と駐留の撤退。仏の同盟への参加で五大国によるヨーロッパの協調が完成した。そこには平和の組織化という意図があった。

 ※第一次大戦では独という一国に戦争の要因を押し付けたことで再び世界大戦という悲劇を招いたが、そのはるか以前の国際体制ではそのような間違った決定を下さなかった。ナポレオンをヒトラーに認定し、仏に戦争の責任を追わせなかったのは、その「封じ込め」の対象、戦うべき相手が仏ではなく、貧民の暴動・民主主義であり、共産主義であったからだろう。そしてそれは崩壊するにせよ、決定的な崩壊を招くことはなかった点で国際政治・関係論に参考になる事例ではなかろうか。無論、第一次大戦と一連のナポレオン戦争の背景は大きく違い同一に語ることは難しいのだけども。

 アレクサンデル1世の提唱した神聖同盟には欧州という枠に宗教精神が持ち込まれたもの。文明・西欧近代化の絶対視であった。そこには欧州の安定化と海外への領土拡張がセットとしてあった。

 サンシモンは18世紀の哲学は革命的であったが、19世紀の哲学は組織的でなくてはならないとあらゆる組織化を提唱した。組織化されぬ所に安定化なし。彼の国際組織論は上流だけでなく、庶民まで視野に入れていた。支配から平等を基礎においていた点で近代モデルの祖と言える。

 露がナポレオンを退けたことで、今後は英対露が一つの軸となった。ウィーン体制は西・ギリシャへのそれぞれの対応の違いで機能不全に陥ることになる。仏の7月革命で欧州は東西が分離する。

 ベルギーポーランド・伊の情勢もあって、諸国は仏に干渉する余裕がなかった。ベルギーの独立のみが達成され、ライン川以西と以東では民主主義の許容度が異なることになった。仏革命を受けて、民主主義の波及を恐れた普墺露は33年10月に密約で神聖同盟反革命的干渉主義を確認した。これに対し英仏はパーマストン外相の下、自由主義を確認する紳士協定が結ばれた。

 ※東西冷戦で欧州が民主主義と非民主主義(=共産主義)で二つに割れる!というのはいきなり発生した前代未聞のケースのように思えますが、基本的な図式は既にこの時代に存在したわけですね

 二月革命で完全にウィーン体制は破綻した。これを機に憲法・議会・人権を求める声が欧州に広まる。露や中東欧でも農奴が廃止されていったように、近代化・資本主義が個人を豊かにし、社会のあり方を変えた。その豊かになった個人の権利を保証する欲求が起こってくるのは当然の流れだった。

  仏・独のような国内の関税同盟もありながら、関税障壁をなくそうという動きは既に19世紀に存在した。独の保護主義でこのムーブメントは20年ほどで終わる。またラテン貨幣同盟、スカンディナビア貨幣同盟という通貨統合の試みも既に存在した(p40)。

 ナポレオン三世クリミア戦争で露を破るとまたパワーバランスが変わる。状況は違えど、ナポレオンが露で敗れたことが仏帝国崩壊の要因であったわけだから、その露を仏が破ったという意味は大きかった。55年のパリ万博で威信を回復。仏はウィーン体制の国境修正要求で、露は中東のそれでお互いの欲求が一致し手を組むことになる。

 敗戦で大国の座から滑り落ちた仏は「傷つけられた」名誉を取り戻そうとなったわけだ。まさに敗戦国は戦勝国に必ず復讐するの定理通り。が、この仏の再挑戦を普=独が阻んで独という大国が登場するようになる。

 第一次大戦ヒトラーのような「戦犯」がいないという記述がありましたが、この表現は、ちょっと気にかかりますね…。

 自由と帝国という東西の構造の違いはそのまま引き継がれ、対露を想定した英米独同盟や独米中協商など全て未遂に終わる(p50)。日露戦争など列強のパワーバランスはその都度コロコロ変わったが、独は中東・アフリカ・極東全てに口出しして、どこの利権拡張を最優先するのか、方針が固定化出来なかったことは独外交にとって非常に大きかった。

 こういう時には自分から動くべきではないのだが、独は墺との同盟関係を優先させて第一次大戦に突入してしまったわけだ。こういう時には自らの死活的な利権が侵されない限り行動すべきでない、戦争にすべきではない。他国の戦争を引き起こしそれに介入・干渉すべきだと思うのだが…。この点については個人的に要検討、詳しい背景を知りたい所。

 戦後、三帝国の崩壊で東西対立の構図は消滅したが、民主化により民族主義の問題が登場した。仏の二度のナポレオン然り、今度は独に「ナポレオン」が生まれる土壌が耕されることになった。「傷つけられた」仏は独にその怒りを向け、交渉協議なき講和は独を「傷つける」ことになった。

 ヴェルサイユ体制の不備は言うまでもない。民主主義(共産主義)から欧州を守るということで各国を平等に扱ったそれに対し、独・敗戦国に責任を押し付けることになったのだから。結果民主化された独に民族主義の種が蒔かれてしまった。国際社会での低い序列に社会ダーウィニズムが独人の心の隙間に忍び込んだ。

 独人は戦争に負け、自分達は劣っているのか?と「傷つけられた」心情に、「否!独人こそ最も優秀なる民族なのだ」というナチスの主張が独人の心を掴んだのはそういう背景があると見ていいだろう。民衆の不満はナポレオンを作り、敗戦と不当な戦後体制はナチスを作ったわけだ

 民主主義的なバックボーンがあるナポレオンとレイシズム的な優生思想を持つヒトラーを同一視出来ないのは当然だが、その思想が受け入れられた共通点として、苦しんでいる仏人・独人を救うという背景があったことでは同じ。

 国際体制を考える際には、①どの国が主要プレーヤーとなるのか(国際体制を主導するのか)という事と②何が国際秩序を脅かす脅威対象なのか?の二点が存在すると考えていいと思う。英米ソの協調は破綻し、脅威は独日から共産主義に変わっていったわけですね。では今は?ということに当然なるわけですが。

 ※まあ、今だと、冷戦が終わり、①米欧→米の単独主義、国際レジーム、G7やG8などなど領域ごとにおいて有効な枠組みが変わるのでどの国が!と言い切るのはちょっと難しい時代になったことは確かですよね。米という国がそれに値するのは間違いないんでしょうけども。そして②もまたあやふやになって国で言えば新興国に、ロシア・中国。しかしそれらは経済的に断絶していた冷戦時代と違い中国などは密接に関係しているように、そう単純に「敵」「脅威」だと言い切れない時代に。中級国家・Pivotの観念があるように、地域・世界の安定のために将来の大国の育成を支援して安定化を図ろうという動きがあるくらいですからね。

 ですから①でいうG20のような枠組みも出てくるわけで。脅威といえばテロですけど、そのテロリストですら誰がテロリストなのかあやふやな時代ですしね。結局潜在的なことは色々言えるのでしょうが、ウクライナのようにイベントが起こってみないと、その図式ははっきりしないということですね。

 フクヤマさんの『歴史の終わり』的な思想には賛同しませんけど、脅威対象を支える・裏付ける思想が見当たらない故の「脅威」設定の難しさということは言えるでしょうね。ロシアや中国、テロリストの思想に大勢の人々を惹きつけるようなもの。かつての共産主義であったり、大国の民族主義であったり、そういう世界的な広がりを持った思想はないですからね。

 今までが一章の範囲で、こっからは拙興味関心があるところだけのつまみ食いになります。ベルリン封鎖の危機で停滞していた東西交渉はスターリンの死で動き出す。イーデンはNATO・EDC前提の欧州安全保障条約を提唱、対するモロトフは米軍の撤退を前提とするそれを提唱した(p100~101)。

 1954に五年ぶりの外相会談が開かれ、朝鮮半島インドシナの問題が話し合われた。54年に外相会談、55年に首脳会談と二度ジュネーブでの国際会議が持たれた。前者はアジアの、後者は独の問題について。西独の再軍備NATO入りで統一は棚上げされた。統一された中立ドイツ構想はやはり難しかった。

 独分断は既成事実化していく。墺国家条約に東西双方とも同時調印したように「分断された平和」が確立される。東西が明確に分離されたが対立に一定の秩序をもたらすという一見奇妙だが、双方の現状を認めあう体制が成立する。これは「ジュネーブ精神」として以後欧州の基調ともなる。

 西は西独を手放したくなく、ソはどうしても統一独を望むわけではなかった。ソが望んだのはNATOワルシャワ条約機構のそれぞれを解体した全欧的安保機構・制度だった。対西緊張緩和を進めたフルシチョフだったがハンガリーポーランドの反ソ的行動で自身の弱腰を追求されるのを恐れるようになり、より強行的に。

 それが58年11月の第二次ベルリン危機に繋がる。西ベルリンから西的なイデオロギーが東ベルリン→東独波及で東独の体制が揺らぎかねないため、非武装「自由都市」の要求。6ヶ月以内の独講和の要求。それがなければ西ベルリンを施政下に置くとした。59年5月にジュネーブ外相会談が持たれたが議論は平行線。しかし対立は抑止された。

 61年6月ウィーンでの米ソ首脳会談でベルリンの壁が作られることで合意。分断は緊張を伴いながらも危機が現実化することはなかった。これは「欧州」という一体感と二度の大戦による非戦の願いの大きさにあるだろう(まで二章~p106)。そして米ソイニシアティブは欧州統合を促進する流れになると。

 ※そしてこれを東アに反射させて顧みれば、二度の世界大戦・総力戦の悲劇という現実はない。あるのは「日本の支配の悲劇・惨禍」。問題はこの日本帝国によってもたらされた被害をどうとらえるかということなのだが…。日本帝国=加害者・悪という図式では絶対に東アの構造は理解できないのだが…。未だにそういう視点が根強いですからねぇ…。

 欧州統合の流れの中で注目すべきはやはり仏だろう。ド・ゴールは英米仏という三国枠組みも、六国による政治統合も否定され、独とのパートナーシップに動く(1963仏独友好条約)。これもアデナウアーとの個人的信頼関係によるものが大きく、エアハルトになるとこの関係は後退する。

 ケネディの「大構想」・米欧関係の再編は米主導のより垂直的なもの。西欧の核を管理するために多角的核戦略(MLF)構想を提案。これは英仏独の独自核戦略追求を防ぐためだった。特に西独の核武装抑止を念頭に置いていた。英米ソのPTBTはそこに主眼がおかれていた。

 ケネディの国務次官ジョージ・ボールは欧州統合を促進することを望んでいた。大西洋同盟の機能強化、米英の「特別な関係」を米欧に拡大しようというものだった。英のEECの加盟による米との橋渡し、「大西洋パートナーシップ構想」は米による支配強化と見たド・ゴールはこれを拒否する。

 「大西洋のヨーロッパ」ではなく「ヨーロッパ人のヨーロッパ」を求め独との関係強化を求めたが、「大西洋共同体」の枠組みを好むエアハルトがトップになると、それもできなくなる。以後独自外交を模索して多極化のプレーヤーになる。それは緊張緩和の土壌を作った(2007川島)(まで第三章p139~144)。

 デタントは独ブラントの東方外交より始まる。キッシンジャーは欧州の現状を変えうるのは米ソと統一を志向した独だとそれを警戒していた。デタント=好ましいというわけではない、そこに国益の追求があった。ヴェトナム戦争で低下させた国力をいかに保つかという目的がキッシンジャーの外交戦略にはあった。

 68年のNPTに始まり、SALTは72年5月ABM制限条約と戦略攻撃兵器制限に関する五カ年の暫定協定。また71年9月偶発的核戦争防止協定、73年6月核戦争防止協定が結ばれた。核管理は勢力均衡の発想のもとにあった。勢力均衡の常識故にNATOワルシャワ間の軍備管理も進んでいった。

 この延長にハルシュタイン原則の放棄がある(55年ソとの国交回復という例外有り)。68年のチェコ事件のようにソの容認なき緊張緩和は危険だということを認識していたためブラントはソとの関係改善を図った。彼は「モスクワを経由しない問題解決がありえない」ことを熟知していた。

 言うなればベルリンへの道はモスクワを経由するというところか。Ash1993の言うように柔道の投げのように懐に飛び込む必要があった。キッシンジャーチェコ事件がド・ゴールのイニシアティブに終わりを告げると同時に皮肉なことにブラントのために扉を開くことになったと描いている。

 70年8月モスクワ条約により現状の国境線が確認された(ただし統一後の変更の可能性あり)。両独とも第三次世界大戦が起こった時の最前線になるがゆえに、独間の安定はデタントの要と言えた。ソ連にとって赤軍兵の膨大な犠牲の上で手に入れた領土の承認・正当性の確保は悲願だった。

 欧州安全保障協力会議CSCEでの、75年のヘルシンキ最終文書となって結実する。英などのECの加入もあり、CSCEの枠組みに否定的だったニクソンヴェトナム戦争でMBFR交渉の必要性があって、これに参加した。東西間の正常化があり、ヒトモノの移動、経済関係は拡大した。

 欧州意識の重要な一つとして人権という意識が高まっていった。CSCEはのちOSCE欧州安全保障協力機構という枠組みに拡大・深化していった。ヘルシンキ最終文書は現状是認・信頼醸成・相互交流を作り、冷戦終焉に大きく貢献したことは間違いない(まで四章p172~191)。

 新冷戦の始まり、軍縮交渉のための軍拡というレーガンの「二重決定」。軍拡はレーガンからではない。カーター政権国防長官ハロルド・ブラウンが言うよう に、ハイテク計画はカーターが計画し、レーガンが購入・配備し、ブッシュが湾岸でそれを使った。長期的プランがあった。現核管理も同じ構造だろう。オバマがいきなり打ち出したというよりは長期的プランに基づいた構想。

 二期目の演説で軍縮交渉と対話をレーガンは打ち出していた。冷戦において受動的と言われるが、冷戦終結はゴルバチョフの主導であってもそこにレーガンの支持があったことにも留意すべし。 新冷戦期のソはプレジネフの死によってリーダーが安定せず惰性による意思決定という性質があった(p208)。

 金で統一を買ったと言われる独。統一のための必要なコストを払わざるを得なかった。対ソ支援、ポーランドへの国境変更放棄、独軍軍縮。ソに警戒されない配慮…。これら全て外交力学に則った正しい行動だと思われる。

 OSCEへの拡大についてはp253~。

 これ忘れてた→79~85まで米ソ両首脳会談が開かれないという異常事態=両陣営の緊張状態の継続(p199)。※こういう異常事態を現東ア外交の首脳会談停止のケースと比較するのが面白いでしょうね。

 p273、NATO拡大でロシアに脅威となるような安保上の懸念を引き起こさないという配慮があった。加盟の前にPfP、平和のためのパートナーシップで一定の安保の保障と対ロ配慮を図った。

 p304、04年6月ブリュッセル欧州理事会で先の「HG2003(ヘッドゴール)」に対し、「HG2010」新しい脅威に対処するという目標が立てられた。米欧関係でポイントの一つは欧州の防衛力の乏しさがある。それをどうすべきかという新理念か。NATOを越えたEU独自のESDU創設。

 欧州安全保障防衛同盟というEU独自の軍隊がNATOや米との関係をどう変えていくか興味深いところ。米英の反対で頓挫したが同じ試みはまた出て来るだろう。また04年11月に出来たEU憲兵部隊、治安・秩序維持、緊急展開を目的に出来たものだが、これが非正規戦が重要な現代で大きな意味を持つか。

 また書き忘れてた。→EU独自の軍事作戦としてはマケドニアコンコルディア作戦、コンゴでのアルテミス作戦。ボスニア=ヘルツェゴビナでのアルテア作戦がある。特にアルテミス作戦はEU域外での、NATOが関与しないEU主導作戦・緊急展開作戦行動というものだった。