てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

集団的自衛権容認・否認双方とも改憲で民意を問うべき

ちょっとこの宮台さん文章が次の記事に触れるので分けて書きます。タイトルの主張を思いついたので一本じゃまとまらなくなって、分けてみました。

(集団的自衛権 行方を問う)アジアの信頼得て9条改正を 宮台真司・首都大学東京教授

 まず、宮台さんの意見に?な指摘なのですけども、「法原則的に解釈改憲というのはおかしい」とおっしゃっていますが、そもそも9条の軍隊保持せずの時点で9条というものは破綻しているのであり、だったらそれこそまず軍隊を保持せずの2項の存在がおかしいでしょうに。法原則を問うならまず9条2項の撤廃を唱えなくてはいけないことでしょう。そんな話今まであったでしょうか?

 小室門下の宮台氏なら御存知の通り、そもそも日本国憲法」とは死んでいるわけです、特にこの法・9条は実質死文化しているわけです。それを解釈改憲がウンタラカンタラ言うのはおかしい。

 いや、9条2項は当然前項の1項にかかるわけで、1項が個別自衛権を認めているなら問題ないのだ―というような主張をする人もいるでしょう。しかし当時の国際環境考えて、連合国体制から考えて、日本から軍事権を剥奪するというのが9条の本来の意味であり、9条1項及び2項のそのような解釈は無理があるでしょう。なにより、1項にそのような意味はなかった、個別的自衛権はあるという主張がなされるのは国際環境の転換、特にマッカーサーやら極東委員会やら当時の日本を支配する米の意見が大きく反映されているわけです。そのような民意を経ていないプロセスに基づく9条にそもそも正当性がかなり乏しい、法原則的に怪しいわけです。

 そもそもその憲法成立のプロセスの怪しさという点を指摘しないとこの議論は空回りせざるをえないでしょう。環境が変わって当初の前提、日本に軍事権を持たせない、行使させないという国際的制限がなくなった今、当初の前提・意図・目的と大きく乖離した9条というのは実質死んだ条文であると考えるべきものです。それゆえに今更それを元にして9条があるから、ないからというロジックで集団的自衛権が認められている・られていないと言うのはそもそもナンセンスなわけです。

 ただ、それでも国民の中には9条をいわゆる平和憲法や不戦条項のように捉える人もいるわけです。ですから、そうではないのだということを堂々と整理、主張するためにこそ改憲というプロセスを問うべきなのです。憲法が死んでいるからこそ改憲もしくは創憲というステップを通して一から問いなおすべき問題であるという意味では、「法原則的に解釈改憲はありえない」という宮台さんの主張の通りになるのですけどね。結論は宮台さんと同じですが、その過程がちょっとおかしいと思いましたね。

 安倍案でもなんでもいいですが、その集団的自衛権を保持するという条文と、いわゆる憲法9条擁護派の不戦原則、日本は集団的自衛権を行使しないという条文をそれぞれ訴えて、どちらを支持するかそれぞれ改憲プロセスに通して国民の審判を仰ぐべきことなのです。それがどうもちょっとわかっていないような気がしますね、今の世論や9条を守れ!と訴えている人の主張なんか見ると。

 改めてもう一度まとめ直すと、集団的自衛権を容認するためには、現九条を廃案、もしくは新しく書き換えてそこに集団的自衛権があることを条文化すべきです。今の政権は改憲プロセス・国民投票を通じてそうするべきであり、逆に現九条に集団的自衛権が認められないという主張をする人も集団的自衛権が認められていないと明らかになるように改憲プロセスで同じく問うべきなのです(※)。

 少なくとも憲法9条があるから戦争ができない・させない、軍隊を派遣できない・しないというものではありませんからね、事実イラク戦争に後方支援で「参戦」していますからね。

 あとの文章、対米自立の重武装化のためには中国の反発を招くべきではないという指摘は以前どこかで書いた己の論理と同じなので特にいうことはありません。

 んでその次の文章を最後まで己流にわかりやすく解釈すると次のような感じになるでしょうか?ー本来9条の改憲というのは重武装化をして、対米自立・独立・主権の回復を果たすためのもののはず。ところが中国の反発を招くような行動をとったり、まるで冷戦時代の対米従属路線の延長のような行動をとっている。対米従属のために集団的自衛権を容認するのならば、対中関係や地域の不安定化を招くのならば、全く意味が無い。むしろ日本の外交にとってマイナスである。対米従属を突き進む外交論理の分からない改憲など成功するはずがない―こんなところでしょうかね?

 ※追記、無論、憲政・民主政治とは慣習に基づくものですから、いかに正当性がなくともこれまで歴代内閣が、そういう解釈をしてきた慣習があるのであるから、現九条に集団的自衛権は認められるものではないという主張もロジックとして正しいものだと言えます(※、余談:書き忘れていましたが、個人的に9条というのは平和憲法とかそういうものではなく、冷戦下における米の軍事主権剥奪という暴挙に対する復讐、対米抵抗権として機能したと理解しています。それを理解していない9条改憲反対!というのもまた個人的には無意味、説得力を持たない意見だと考えます)。

 ですが、前述通り、そもそも憲政の初期においてプロセスの不透明性を抱える以上、9条が事実上機能停止した条文であること、集団的自衛権の容認の声も強くなっている以上、堂々と改憲プロセスを通じて世に問うべきことだと己は考えます。タイトルに有る通り、集団的自衛権容認派・否認派の双方とも、改憲プロセスを通じて民意を問うことで初めてこの問題に決着を着けることが出来る問題だということですね。少なくとも憲政の常道上、憲法を復活させるために、正当性を与えるために「改憲」は不可避ですから。