てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

マニ教とゾロアスター教 世界史リブレット

マニ教とゾロアスター教 (世界史リブレット)/山川出版社

¥787
Amazon.co.jp

 リブレットシリーズで、次はこれ。そういえばアテネ扱っているのがありましたが、特におもしろくなかったのでパス。というか扱うテーマがスゴイ細かいものだったので、あんま触れなくてもいいかなと飛ばしました。ローマもありましたがパスで。

 デロス同盟アテネが金を使い込んだことがウンタラカンタラというのを歴史の授業で習ったことがありましたが、当時の軍事・政治は財産制。ある程度の所得があって初めて要職につけるわけです。んで戦争の規模が大きくなると、ポストへの金額も当然嵩上げされていくはずですよね。ですから当然戦争の規模が大きくなればなるほど、そのポストに見合った金を稼がないといけない。アテネの人間の経済力が大きくないと釣り合わない制度なんですね、本質的に。で、アテネの政治力の増大が、そのままイコールとして経済的なものへ繋がる。経済的な発言権へと転化されて、経済的にアテネのパワー・規模が拡大していった。故にアテネが反感を買ったというところなんでしょうかね。問題は他のポリスの富を作る機会を奪ったよりも、ローマのように領域国家として仲間に加えて、その経済機会を提供できなかったことにあると思いますが。まあ当然そういうことが出来る背景・環境になかったがゆえのアテネの敗北という形につながったんだろうな~とか、そんなことを読んでてふと思いました。

 アテネという都市国家がスパルタ周辺は別としてそこら辺を糾合した領域国家を作れなかったのは、アテネの血縁重視とかそういう内在的な理由ではなくて、狭い地域内での諸都市の乱立とか、もっと外在的な気がしますね。環境・状況見て厳しかったんでしょうね。ローマの同盟市戦争みたいなものを経て領域国家にステップアップするのは。あとから出てきたテーベも結局出来ませんでしたしね。スパルタは出来たことは出来たが、軍事国家では全ギリシアまで版図を拡大することは出来なかったって感じでしょうかね。それこそペルシャマケドニアのような騎兵を中心とした軍事国家でないと無理でしょうからね。そういや大体、大帝国といえば騎兵を主としたものですが、そうでないのって結構面白いですね。まあ、ローマもそりゃ途中から騎兵の重要性を理解して取り入れたんでしょうが。騎馬民族→大帝国型が多いだけに、内側に騎兵を取り込んでいくステップは面白そう。

 ※そういえば、アッシリアみたいな軍事帝国にスパルタはギリシャ内でどうして転換できなかったんですかね?本質的に多くの平民と奴隷を抱える少数階層支配であるがゆえに、その限界といえばそうなんでしょうけど、ペロポネソス半島とか領域が拡大していって、そこから変質をどうして遂げられなかったのでしょうか?軍功、実力ある勇者であればスパルタ人として認めるみたいなこと、国家モデルの転換は不可能だったのでしょうか?

 そんなことはさておき、このマニ教ゾロアスター教の話を少し。アマゾンのページで関連のところで、他にこんなのが出てきました。

古代オリエントの宗教 (講談社現代新書)/講談社

¥799
マーニー教 再発見された古代の信仰/青土社

¥2,808
 読書レビュー十三件とか、新書とはいえ、このテーマでかなり良く読まれていますね、この『古代オリエントの宗教』は。青木先生、本出すペース早くないですかね?ガンガン本だしてますね。マーニー教のやつは、訳書です。パワフルですなぁ、青木先生。いつか読まなきゃいけませんなぁ。マーニーと聞いて、チャンピオンの『マーニーにお任せ』を真っ先に思い出すのは内緒です(^ ^;)。あ、違うは、タイトル『名探偵マーニー』だ。

 で、本の内容ですが、ゾロアスター教云々については青木先生の本などで読んだもので大体知ってる範囲内の話ですので、飛ばします。気になったというか、ポイントは、都市国家の所で以前も書きましたが、一神教が登場してくる以前の時代は、宗教や民族の違いはあれどそれによる違いにかなり寛容であるということ。自分達と違う信仰が問題になるということはあまりない。その寛容さはゾロアスター教、アケメネスやアルサケス、そしてサーサーンでも同じだったと。

 個人的に、サーサーンも、その出自というか王家の正統性は「正しい宗教」とか「正しい祭祀」を理由に生まれたものであるので、宗教にかなり敏感であるがゆえに一神教化を遂げて、システムが硬直化していったのだと見ていました。ローマという西の大国がキリスト教を国教にして、一神教化が進んで行くに連れ、「聖戦」を仕掛けてくる。そのカウンターパートとしてゾロアスターというか、マズダを一神教化、もしくは非寛容・硬直した垂直的な身分制のような宗教へと変容させていった。その排他性・非寛容性故に滅んでいったのかな?みたいなことを想定していましたが、そうではないのでしょうかね。

 宗教的な変化・変容はないが、社会が硬直化していって内から崩壊していったというだけでしょうか。悪い意味での教義の変更、硬直的な一神教化すらゾロアスター教の枠組みでは難しかったということなんでしょうかね?イラン・インドにおけるソーマ教義、儀式によって禍福をどうにかするというのが根本みたいですしね。良い意味でも悪い意味でも、教義を時代に合わせてダイナミックに変えることが出来なかった。変化に適応できなかったとみるべきなのでしょうか。カトリックキリスト教の教義の変容はある意味悪い変化ですが、それも現地の情勢に合わせたものですしね。

 今でこそ、キリスト教=「旧約聖書」+「新約聖書」ですが、「新約聖書」オンリーだったり、さらに他に重要な教典を追加してそれが基本のキリスト教になっていても全然おかしくないわけですしね。

 ズルワーン教(主義)とかマニ教とかマズダグ教とかいろんなものは生まれ得たのでしょうが、その新しいもの・思想と勢力がうまーく結びつかなかった社会背景なんかも気になるところですね。善VS悪という世界観を上手く説明するためにズルワーンという発想が出てきたと。なるほどね。

 中世ではマニこそ異端の代表のように扱われていますが、やはりキリスト教の解釈は難しい。グノーシス主義など、解釈をする上でいろいろな思想が生まれていますからね。結果、後世から見てそのグノーシス主義西アジア世界観、哲学やら神学やらよその宗教の影響を受けたいたんではないかと問題になるわけですから。

 そして解釈の余地が多々あって、マニ教・始祖マニの思想の方がわかりやすいというのがあったんでしょうね。むしろわかりやすい、魅力があるからこそ、思想・教義として世界的につながりかねないから排除されたのでは?という気がしますね。普遍性があったら、他所の国・民族と勝手に結びつかれてしまって、特定の範囲内で「支配」「管理」することができなくなってしまいますからね。違う言葉で言うと、自分達と他者=よそ者の「聖別」が出来ない。世界宗教であるがゆえに、普遍性を持つがゆえにダメだったのかもしれません。ユダヤ教見ればわかるように、そもそも一神教は狭い範囲内でのもの、少数をターゲットにしているものですからね。

 まあ、そういうことで、西でマニが途絶えてしまった説明はできますが、東はどうしてでしょうか?イスラム圏が中央アジアインドネシアあたりで止まってしまうように、そもそもアジアでは現地習俗を元にした道教のようなもの、そして仏教の壁があるとか?まあそういうことなのかもしれませんが、当然思いつきなので本当のところはどうなのかわかりません。

 ウイグルなんかマニ教ユダヤ教のように民族のアイデンティティとして導入したのですけどね。

 まあそんな取り留めもないことをつらつら書いておしまい。

 ※そうそう、開祖ゾロアスターがアーリア人(優秀なるもの、貴族)というふうに呼びかけていることからもわかるように、ゾロアスターは貴族層の人間だろうと。ココらへんがブッダと共通点を感じさせますね。根本的に、庶民・大衆に呼びかけたものではなく、貴族・良家の子弟に布教したという仏教と根本事情が似ている気がします。

 それと「異端」についてですが、「異端」というものをテーマにしてうちに入り込んでいる邪悪なものを取り除く。「魔女狩り」をすることで、また「原理主義」=本来の怪我されていない「聖なる教義」の根本に立ち返るというファナティックな宗教改革運動が起こることで、社会の変化に対して適応できる新しい教義を再編することが起こるわけです(※注)。マニ教はその格好の槍玉に挙げられたわけなんでしょうけど、問題は教義というより、社会的な要請。そのような時代の危機において、社会に教団が大事なものを提供できるかどうかですから、カトリックが大衆に社会保障を提供したような教団の組織能力が足りなかったということなのかもですね。ウイグルのマニにそういった一神教的、社会福祉制度が完備されていた様子はないですからね。

 ユダヤ教の教理の中心が、過激に戦って敗れて全国に流散していったユダヤ人たちではなく、バビロン捕囚で生活が保証されていた人々たちによるものが中心になっていったという話を連想するものがありますね。

 ※注ー面白いことに原点に立ち返れ!という運動をすることによって新しいものを作っているわけなんですよね。こういった、改革運動で昔の本来あった状態にもどれ!と呼びかけながら新しい制度を生み出すのは、中国の儒教とか見ても典型的な例であって、前近代社会の古典的ロジック何ですよね。ですから、今のイスラムの過激派の主張も同じ、このロジックなんですよね、実は。本来のイスラムに立ち返れば良くなる!と言ってますが、そこから新しい制度・ロジックを生み出せる思想的リーダーがいないので(もとより不可能?)、ずーっとアホみたいなテロやって終わりということになってしまうわけなんですよね。

 それと思いついたことなんですが、ユダヤ教キリスト教もマイナス・苦しい状態からスタートしているわけで、あんまりいい表現ではないですが、負けていて当たり前、苦難の宗教という性質があります。逆にイスラムの場合、それがないんですよね。始まりから大成功、イスラム教徒・ムスリムであれば、世界で最も進んだ豊かな暮らしができるという現世利益丸出しのような状態でスタートしてしまったという幼児体験が与える影響は相当大きそうですね。教義・教理に現世苦難のようなものがそもそも想定されていないのではないでしょうか?それが故に今のようなテロばかりで、イスラムから近代国家を上手く活かしていこうというロジックがいまいち成立しない理由の一つなのかもしれません。