てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

ティーパーティーから考える米:改革能力・新しい理念不在

フォーリン・アフェアーズ・リポート2011年5月10日発売号/フォーリン・アフェアーズ・ジャパン

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 ―もしくは、12年の4月号に再録されている『米ポピュリズムの歴史と今日的意味合い』について、チラっと触れたいと思います。同12/4号には以前触れると書いてほったらかしていた、『政治から離れ、宗教へ回帰する米宗教界』があるので、それもあとでやるついでという感じで一言、二言。

 この、『米ポピュリズムの歴史と今日的意味合い― ティーパーティー運動が揺るがすアメリカの政治と外交』byウォルター・ラッセル・ミード自体について、以前読んだときは、重要で詳しくメモを残しとこうかと思ったのですが、今見ると特に大した内容がないので、というかめんどくさいのでそれはしません。

 ポイントとしてメモしておきたいのは、「ネオコン」という思想(及びそれに伴う政治運動や外交姿勢など)について、誰が「ネオコン」と言えて、どのような思想が「ネオコン」と言えるのかそこに明確な定義がないように、「ティーパーティー」というのも同じような性質を持っていること。まあ、ポピュリズム的な運動ですから、それも当然ですよね。明確な思想&中心となる主体組織がありようもないわけで。

 そうである以上、なんとなくティーパーティーと名乗れば、その流れに乗っとけばイケてる!カッコイイ!以上のものでありようがなく、流行りに乗っかって支持や人気を手に入れたい政治家やら企業やら、メディアやらそれが利用しようとするだけですね。別にそんなことを指摘しなくても多分、そんなこと皆さんよくご存知でしょうからおいといて、注目すべきはそこに「伝統性」が存在することですね。これ言われてるのかな?どうなのかな?わかりませんけど、ここにちょっと引っかかったのでね。

 ティーパーティーという「伝統性」に注目すべきじゃないか?ということを頭の片隅に置いとく必要があると考えています。大衆の力、思想運動や政治行動こそが民主主義の改革・革新の力であることは言うまでもありません。その改革の源は、他所の成功例からそのモデルを引っ張ってくるか、つまり他所の改革をパクる。もう一つ有効な改革のパターンは、伝統に立ち返って、過去の教訓を参考にして改革のモデルを引っ張り出してくることです。古き良き過去を思いだせ!というパターンですね。まあ流石に前近代の改革モデルと違って、何から何まで古の聖人・聖制度に戻せ!なんてことにならないのは言うまでもありませんが。

 このティーパーティーという改革運動は古の時代を良しとして、その精神を思いだせ!というものですが、その古の時代から引き出す改革モデルが空虚だということ。伝統を参考に新しいものを打ち出すならともかく、まるでイスラム過激派が言うように、過去の時代のメンタリティに戻ればええんや!みたいなまるで中身が無い、オイオイ大丈夫かよというような改革運動が起こっているわけですね。米の古き良き「伝統」を大事だ!と言いながら、過去に帰れというだけの改革運動がムードとなって勢いを持ってしまっている…。アメリカの改革力・民衆の力というのが根本的におかしくなっているとしか言いようがありません。

 より正確に言うと、元から民衆の改革能力というものは乏しくて、まるで過去から成長していない。時代の変化に合わせて新しい価値観に切り替わっていないということでしょうか。「革新」の権化のはずの米という国がその実、自分たちの昔の時点で作られた「理想」に固執してしまっている。異常な「保守性」が存在する。このことにもっと注目すべきだと思います。

 ちょうど日本だと、明治維新が素晴らしい改革のモデルとして認識されており、その改革を今一度!という意味で橋下さんの政党「維新」が人気を集めている(もしくは集めた)ように、いわば米版「維新運動」と理解するとティーパーティーという運動、意味合いが我々にもよく理解できる、わかりやすくなると思います。言うまでもなく、米の民主主義にとってボストン茶会事件が持つ意味合い大きいですからね。

 で、そのティーパーティーがどういう主張をしているか?例えば、米の外交の根本的誤りを論じているか?格差問題を問うているか?「新しいアメリカ」のビジョンを提供するために、自分たちの問題=見たくない米の醜い現実と向き合っているか?答えはもちろんノーなわけですね。

 米の国民性の問題として、エリート・専門家を信頼しない。欧=悪、米=善であり、そのような昔のビジョンの延長で米以外の世界は基本悪であり、米のような国になることが素晴らしいという時代錯誤な価値観を抱いているわけです。専門家の正しい情報分析に基づく指摘を、米世論が間違った方向に捻じ曲げるというのが過去の米外交の失敗の本質としてありましたが、結局自らの誤ったものの見方ということにはまるで触れられていません。そういうことを警鐘・啓蒙する偉大な思想リーダーは未だに米にいないでしょう。

 そもそもティーパーティーという言葉からわかるように、「税金の無駄遣いをするな!」ですからね、彼らの要求は。それも財政赤字が深刻な米ではわかりますが、それよりも米社会の問題をどうやって解決するかが先でしょう、普通。オキュパイ運動のようなものへの共鳴は彼らにまるで無いわけです(オキュパイ運動が正しいかどうかはひとまず脇に置いといてね)。彼らからすると苦しんでいるのは自己責任という感じですから。古典的な経済感で、儲からない・普通の生活が出来ないのは本人が悪いという感じですからね。

 基本的に、米の外側の世界について関心があまりないので、特に脅威が出てこないならば米が関与しなくても世界は上手く回っていくというような価値観を抱いているかもしれません。国際情勢、国際政治力学について理解があるとは思えません。日本でも一般人見てればわかるように、そういった国際政治力学なんて知っている人はそうそういないですからね。

 専門家への不信というのはジャクソニアン的なものだといいますけども、そもそも専門家の判断を世論・大衆がそれを聞いて判断しないことにはどうにもならないんですから、基本的に懐疑的であるのならともかく、彼らの専門性を聞き入れないということはどういうことなのか…。印象論で行動して失敗した過去を活かさないのはなぜなのか…。

 専門家への不信というものの延長なのか、まあ米が聖地、それ以外の土地・世界はケガレているという価値観からでしょうが、米が国際的規律・ルール・制度に縛られるとは考えない。自分たちが善という価値観で行動するわけですね。善ということはさておいて、彼らの無謬性に対する自信はなんなのでしょうか?これまでの失敗を見ればわかるように、善であるとしても間違えることは間違えるわけですよね。失敗しながらもそれについて深刻な反省や顧みることがない、そこから教訓を引き出せないのはなぜなんでしょうか?失敗の本質に立ち返れば、結局、善と悪という価値観なんかどうでもよくて、成功と失敗によってもたらされる国の繁栄と停滞・没落の方がよっぽど重要ですよね。

 そういや、米のプラグマティズム(実践主義・実用主義)というのがあるという本を読んだことがありましたが、まさに結果や答えを求める思想の系譜があるはずなんですよね、米にも。しかしそういった思想が力を持っている、新しい主張が台頭しているとも思えない。どうしてそのプラグマティズムが機能しないのでしょうか?米の国民性がそもそもおかしい、現状理解の仕方が根本的に間違っているのだ!ものの見方がそもそもゆがんでいるのだという思想を提供できないのでしょうか?

 今の孤立主義の声、「世界の問題に関わるな」というようなトンチンカンな声に代表されるように、第二次世界大戦も冷戦も、政策担当・トップが「脅し」をもって国民・世論・議会を説得しないと積極的な関与をしようとしなかった。それが今の「見えない戦争」まで続いているということなんでしょうかね?基本、戦争・介入には反対。脅威や危機が出てきたら、トップが「脅威を煽る」→国民がヒステリックに反応して強硬論を唱えるというパターンしか無いのでしょうか?基本的に国際情勢に無知・無理解・無関心でありながら、敵が出てきたらゴキブリのような感覚でパニックに近い形で「駆除」をするというようなパターンであると見ていいのでしょうか?

 これはある種、明治維新で開国した日本がそれ以前の日本の価値観を引きずりながら欧州国際秩序に参加したようなものに似ているとも言えますね。日本は当然弱いスタンスでしたから、欧州的なスタンダード・価値基準に従わずにはいられませんが、米の場合国際秩序を自己主導で書き換える力を持っていたので、日本でいう侍・ちょんまげ時代の価値観を国際社会に押し付けられるわけです。米ではカウボーイの服装を改める必要もなかったと言いましょうか。ある種米は自分だけ「鎖国」しながら、日本に開国を迫ったわけですね。

 この文章中では、オバマ政権はブッシュ政権はこのような米のポピュリズム、歪んだ心象・「ジャクソニアン」の声を反映させた悪しきケースとして、オバマ政権ではそれを取り上げないと書いてあります。歪んだ心象と付け足したのは己で、そこまでオバマ政権やこの筆者が「ジャクソニアン」を否定的に見ているかはさておいて、この「ジャクソニアン」的ポピュリズム、米の古い価値観をどうするかというのが、米社会・政治の課題だと個人的には思います。そしてティーパーティー運動というのは、これを見て分かる通り、政権・政治の声を失った反動勢力の抗議、政争とも見れるわけですね。まあ中国で例えると文革運動みたいなものでしょうか。完全に方向違いの伝統回帰の動き、間違ったモデル提示にしかおもえません。

 本土を攻撃されれば、無条件降伏まで敵を叩くべきだし、日本への原爆も正当化されると考える、イスラエルにも同情的でイランにも強行的。まあそういう発想になるんでしょうね。末尾で筆者は日系人強制収容所とかマッカーシズムとか、人種差別とかそういう時代の「ジャクソニアン」と比べればはるかにマシということを書いてますが、そもそもつい最近まで黒人差別やってた国なんですよね…。人種差別撤廃の先、その次の新しい社会改革・運動はないですもんね。

 ジャクソニアン時代に安い土地、無償の土地へのポピュリストの渇望があって、数多くの移民や都市労働者が家族農園を運営をすることができるようなホームステッド法へとつながる。そして彼らはそこでネイテイブ・アメリカンを、ときに大量虐殺まがいのやり方で締め出した。さらに、ポピュリストは大規模な農業補助金を引き出して「農場バブル」を作り出し、これが、大恐慌の一つの伏線となる。彼ら20世紀に入っても土地を欲しがり、連邦政府が支援する住宅ローン制度を誕生させた。この制度は最近の壊滅的な住宅バブルの崩壊の間に密接な関係があることは言うまでもない

 ーこんな感じの一節が印象的ですね。自己責任と言いながら、要するに根源的にはわがままな移民達の強欲ですよね、これ。正義の名のもとに自らの強欲で色んな物を破壊してきたツケをもっと自覚すべきなんじゃないですかねぇ…?