てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

永井陽之助著 冷戦の起源①

冷戦の起源I (中公クラシックス)/中央公論新社

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冷戦の起源II (中公クラシックス)/中央公論新社

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 放置してたメモを公開。ツイッターで先につぶやかないで公開というのは珍しいパターンです。文量多いのでどれつぶやこうか、めんどくさくてなかなかつぶやくきになれなかったのでね(^ ^;)。どれくらいの分量になるか?五本くらいになるかも?最初すっごい食いついていたんですが、後半に行くにつれてだれます。Ⅱ巻のメモは殆ど無いですね。まあ歴史叙述ということもあり、既知能取湖については飛ばしますのでそうなるもの当然ですが。まあ、やっぱり疫学的地政学の話が面白いですよね。言い回し、文章が難しいのでイラッとするところがあるが所以でしょうかね?あまりに人口に膾炙しないのは?高坂正堯先生の文章は、今読んでるんですけど、凄い平易でいいですね。?となるところがない。そういうところが氏の名声を高める所になっているのでしょうか?

 全体を見て文量のバランスを後で調整します。大体一回10スクロールを目安に区切りたいと思います。うまーく章とか節で別れるといいんですが。

 中山教授が前文に書いてあるとおり、永井の本著はいわばケナンソ連分析、「ソ連の行動の源泉」を分析したもののアメリカ版と言って良い。ケナンソ連に対しておこなったことを、ままアメリカに当てはめたものと言って差し支えないと思われる。冷戦の起源と題していても、その正確なところは「アメリカ側からの」冷戦の起源である。アメリカの内面、イデオロギーに焦点を当てた本作は通常の歴史著述と著しく異なった展開を見せる。特定の事件や項目を時系列順に踏まえて、その事象の研究、もたらされた結果における状況の変遷を丁寧に追い、歴史の分析をするという通常の歴史研究とは異なっている。

 アメリカのイデオロギー、いわば集合意識分析に焦点が置かれるため、その分析にふさわしいトピックが選ばれている。故に、新しい研究・文書が出ることによって、これまでの冷戦研究、一先行研究として乗り越えられるという単純な書物ではなくなっている。

 それは永井のオリジナル性・独創性を示すものであるが、それは同時に通常の、研究としての常道を踏んでいないということでもある。だからと言ってこの研究をママ、異端の著・キワモノ扱いをして研究者が触れずにすませるのはあまりにも惜しい重要な提言を含んでいる。アメリカ研究をする上では、必ず目を通すべき必須文献と言えるだろう。

 ただ、中山氏が言うように、そこには永井の挑発的な文言が多々ある。米への手厳しい批判が、「反米」の言となってそのまま流用しかねない。永井の分析に魅了されて、米の内面・イデオロギーという要素から全てを理解した気になってしまう、それで全てを説明してしまおうという毒があるのではないかとも思える。読み手にその毒が蔓延すれば、皮相的・表層的理解においてアメリカを語り、満足してしまいかねない。そんな危険性が永井の分析にはあるだろう。もちろんこれは永井の研究の欠陥を意味するものではない。全ては読み手の問題である。このような危険性を中山氏はマルクスになぞらえているのではないかと思う。

 今の米外交が中東の過剰介入から太平洋への「回帰」を唱えるものになっているが、この外交を永井の用語を用いて説明したい欲求に抗するのは難しいとある。だが米を批判したいという欲求、つまり永井の言葉を用いて現アメリカ外交を手厳しく批判したとき、それについてどう向き合うのか、その批判をどう乗り越えるのかということはアメリカ研究者にとって大事なポイントなのではないか?と思った。いわゆる「反米主義」のような、単純なレッテルを貼って退けられる批判ではなかろう。同時に、永井の言葉でアメリカ批判をして、その解答を研究者に迫るという迷惑な手合の姿まで見えてしまった。これを一つの思考の枠、視点ではなく、解決策・究極の答えのように捉えてなんでもかんでも永井流で説明してそれ以外の説を唱える研究者を叩く・排除するという痛い者がツイッターなどで現れても不思議ではないと思える。

 さて、永井はアメリカのイデオロギーを「疫学的地政学」というものから説明していくわけだが、ポイントはこの「疫学的地政学」がいかなる価値判断をもたらし、通常の反応とは異なるアメリカ人独特の反応をもたらすかということ。オリジナルの価値基準こそがその行動を解明するキーとなる。他者と違う反応・判断・行動をしても、特に問題がなければ取り上げる必要はない。これを取り上げるのは言うまでもなく、なぜアメリカが誤った選択・判断・行動をするかが説明できるからである。

 アメリカのイデオロギーを解明するのはいわば、「米の失敗の本質」を明らかにするためである。見たところ、真珠湾(太平洋戦争)、朝鮮戦争ヴェトナム戦争の三つの失敗は本質的に共通していると永井は分析したと思える。その失敗の本質こそ、米のものの見方・内在論理にあり、その米独特の論理をより深く掘り下げるために、まずその端緒とも言える「疫学的地政学」を取り上げ、数々の国際的イベントを通して、その反応を見ることによって、アメリカの価値観を掘り下げていくというスタイルを採っている。

 起源というタイトルもあり、本著ではベトナム戦争は取り扱われていないが、学び取れる教訓は十分であると思う。米がいかに独自のプリズムを通して世界を、また自分を見つめているかがわかると思う。そしてそれ故に失敗するということも。永井は08年に亡くなったが、イラク戦争への失敗を分析するとしても、そこに新しい要素を見出したのであろうか、非常に興味深いことである。

 また、永井は折にふれて修正主義学派の誤りを指摘している。それはまた、誤った思考方法による新しい学説がものの見方や外交を歪めてしまいかねないからであろう。誤った分析法による不適切な見解で、どうして適切な外交をとることが出来るだろうか。

 個人的にはアメリカの誤りはアメリカ内部のそれを正そうとする適切な反応によって是正されるべきと考える。その反応がなかなか起こらない、うまくそういった学派が育ってこないという点が気になる所。その理由の一端に触れられているのも面白いところ。

 はじめに フルオリデーション、水道にフッ素を入れて自動の虫歯を予防するという公衆衛生がしばしば「共産主義の陰謀」という反応を引き起こした。米国伝来の健全な思想を汚染する異物排除を目的とするジョン・バーチ協会やゴールドウォーター派の右翼青年運動、各種ファンダメンタリストの台頭と分かちがたく結びついていた。約十年後には環境汚染反対、エコロジー、反捕鯨に取って代わられていた。フルオリデーションの十年前にはマッカーシズムというものがあった。

 これは相似した構造を持っている。それは、健全な身体が外部からの異物侵入によって汚染されるという共同幻想があることである。この危機神学が真珠湾以降突如巨大な「安全保障国家」(ダニエル・ヤーギン)を生み出すことになる。それは伝統的国防から遊離する巨大なものとなった。変化する国際環境の中、世界政治の運営に重要な役割を担うことになったアメリカの状況と合わせて、いかにこの「安全保障国家」が誕生したのかを探ることが本書のテーマ。故に通常の歴史叙述とは異なり、一章で問題の所在を書き、二章でアメリカの共同幻想を扱った。

 ポツダム宣言受諾後大統領にヴェトナムの独立の地位を求めるホー書簡が送られ、その一年前には毛沢東周恩来の関係強化を申し入れる書簡が送られていた。もしこの書簡を受け入れて、会談を設立していたらその後の米中関係、歴史の展開はどうなっていたのか?という興味深いIfがある。この時点で強固な関係が結ばれていれば、朝鮮戦争ヴェトナム戦争もなかっただろうというわけだ。無論、バーバラ・タックマン女史がとりあげて、ニクソンキッシンジャー期の対中接近のところで注目されるようになったこのケースは、当時としてはまず注目されることがなかった類のものである。

 だがホー書簡については対ソ外交方針をpatience with farmnessに転換するまさにその時期だった。そしてこの書簡が一顧だにされず握りつぶされる中で、ケナンの有名な公電がワシントントップに受容される。ケナンがのちに反共宣伝文書のようなものと反省するものが、なぜセンセーショナルに需要されたのか。その容認基準、何を持って意思決定の材料としたのか―は冷戦というものの答えになる。

序説・冷戦思想の疫学的起源(冷戦の意味

 p10~12、永井の冷戦定義、力の直接的行使をのぞく、あらゆる有効な手段(イデオロギー、政治・心理宣伝、経済制裁、内乱、各種の謀略、秘密工作等)を駆使して相手側の意志に直接的圧力を加える行為の交換―― いいかえれば、「非軍事的な単独行動」non-military unilateral actionsの応酬がその抗争関係のいちじるしい特徴となった。いうまでもなく、「単独行動」は、外交交渉のような「相互行為」(二国間または多国間の交渉好意)ではなく、あくまで戦争行為の一部であるという意味で、まさしくそれは「戦争」であった。しかし、核兵器の出現で両陣営とも実力行使を自制し、慎重に行動せざるをえなかったという意味で、それは、″冷たい″戦争といわれるのである。

 その意味からすれば、歴史上、冷戦の開始された時期は、米ソ政府指導層の意識の上で、「交渉不可能性」の相互認識が明確化され、外交上、「交渉」より「単独行動の自由」へ重点が移された時期ということができよう。その時期については研究者間にかならずしも意見の一致を見ないが、本書は、右の定義による冷戦が米ソ間に生じたのは、証拠の示すところ、前述のG・ケナンの長文公電がワシントンに届く前後の時期、すなわち一九四六年二月末から三月初めにかけての時期と判断する。

 無論、米ソ間の対立はすでに第二次世界大戦中にきざし、連合軍の第二戦線の形成の遅延や連合軍による単独和平工作(いわゆるベルン事件)等に対するスターリンの根深い猜疑の芽ばえがあったことも事実である。そして、四五年二月のヤルタ会談で、その対立は徐々にあらわになり、ポツダム会談、戦後の外相会議を経て、ついに四七年のトルーマン宣言で明確な形をとったと言われる。

 しかし例えば、ヤルタ会談の時は、米ソ英三巨頭が一同に会し戦後世界のコースを決定するため八日間にわたって交渉が行われたが、この三者交渉過程は、メッテルニヒウィーン会議以来の典型的な《会議体制》conference systemが有効にはたらいた最後の多角的交渉であった。すなわち約五つの重要案件(ドイツ賠償問題、ドイツ分割問題、フランスの戦後の役割に関する問題、ポーランド問題、国際連合の問題)を巡って、争点毎の「交又連合」cross-cutting coalitionsが形成され、ある争点については、ソ連に対抗して米英が連合して当り、別の争点では、ローズベルトに対して、スターリンチャーチルが結託するという、争点ごとに流動的な連合ゲームがダイナミックに進行した。

 もし、八日間、すべての争点について、ソ連対米英連合が固定化されたまま会議が進行したならば、交渉は暗礁に乗上げ、ヤルタ会談をもって、冷戦開始の時期と規定していいであろう。だが、ヤルタ会談の時期までは、まだ、米英ソ間に交渉可能性の相互期待が存在していた。だが、ポツダム会談になると、すでに三国首脳間にヤルタ会談のときのような信頼感や交渉可能性への期待は大幅にうすれていった。ポツダムトルーマンは会議の途中、スターリンとの会談を打切ってワシントンに引揚げようとしたほど、米ソ首脳者間の不信感は高まっていたが、まだ合衆国は単独行動によってソ連に対抗するという決断には達していなかった。

 ポツダム会談以後、九月のロンドン、十二月のモスクワでの二回の外相会議において、米ソ両国は、ポーランド問題に加えて、ルーマニアブルガリアにおける新政権の非代議制的性格をめぐって対立が深刻化し、もはや交渉による妥協の余地はほとんど残されていなかった。一九四五年末のモスクワ外相会議は、交渉によって問題が解決可能という希望や期待がからくも残っていた最後の会議となった。 以上のように、「交渉不可能性の相互認識にたった非軍事的単独行動の応酬」という冷戦の定義をとれば、ヨーロッパに関するかぎり、明確な時代区分が可能となり、また、現代のデタント下の米ソ間の新たな対立の性格と、冷戦のそれとの相違点もよく識別することが可能となろう。

 たとえば、ロシアと西側との対立・抗争の歴史を十九世紀までさかのぼれば、その抗争は、「平和が不可能で、戦争がありえない」ものではなかった(一八七八年のベルリン協定による和平の成立。一八五三年のクリミア戦争)。一九一七年のボルシェヴィキ革命の勝利は、新たな世界革命の中枢の出現で、国際体系は、いわゆる「安定体系」stable systemから「革命体系」revolutionary systemへ移行したため、既存の国際体系の枠内での「平和は不可能」となり、単独行動の応酬が始まったが、それはけっして、「非軍事的」次元にとどまるものではなかった。一九一八年から一九年の連合国によるボルシェヴィキ革命への干渉、一九二一年のソ連ポーランド戦争、一九三九年~四〇年のソ連フィンランド戦争、独ソ戦争等は、いずれも「軍事的な単独行動の応酬」(熱戦)をともなっている。また、現在の米ソ間あるいはソ連と西欧諸国間の関係は、「デタント」の名でよぶのが妥当か否かの問題は別として、少なくとも、「戦略兵器制限交渉」SALTをはじめ、通商、食糧、資源等の多くの重大争点について、両国間に「交渉可能性」の期待は失われていない。西側諸国とソ連との関係は力を背景とした、いかにきびしいものであっても、冷戦時代のように「単独行動の応酬」ではなく「交渉可能性の相互期待」がある以上、軽々しく「冷戦の復活」などの語を用いるべきではないと言えるだろう。

 冷戦の特徴とは「非軍事的な単独行動」(現代の国際政治の特徴を考えるとソ連なき「冷戦」米一極主義を表現するのにいいかもしれない。「軍事的な単独行動」が特徴になるが)。