てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

冷戦の起源②

冷戦の起源I (中公クラシックス)/中央公論新社

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冷戦の起源II (中公クラシックス)/中央公論新社

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 p20、二、疫学的地政学 この項ではケナンの公電の言葉を読み解きながら、その論理がいかに疫学的地政学の発想に基づいているかを説く。ケナンの公電は一種の疫学メタファーを使った疫学的地政学epidemiological geopoliticsであった。

 その疫病が米国や世界に蔓延するのを防がなくてはならないという発想によって冷戦・対ソ戦略はできている。共産主義という疫病の蔓延を防ぐ「防疫対策本部」の設立の必要性と、国民へのその脅威の説明は公衆衛生思想の普及と保健の強化そのものだった。

 少なくともケナンのこの公電の時点では、共産主義がその土地独特の「風土病」なのか、全世界に蔓延する「流行病」なのか区別をしていなかった。頭からそれは「流行病」と決めつけていた。病気・悪性の寄生菌・医者・患者…、ケナンの公電に至るところに疫学的性格を読み取ることが出来る。

 この公電が影響力を持ち始めた頃、トルーマン大統領が有力な助言者であるクリフォードに米ソ関係の報告をまとめさせていた。このクリフォード報告では、双務的交渉から単独行動を求め、ソ連に弱み・譲歩をすれば付け込まれる、原子力生物兵器戦争をも覚悟した全面戦争という恐るべき見通しをしている。これはリースマンの米と英の現実主義の違いの指摘を連想せざるを得ない。男らしさの恐怖から生じる、擬似現実主義pseudo-realism、妥協と譲歩は弱さの証になる。よってラインホルト・ニーバーのような英では生まれようのない、悲劇的現実主義者が生まれる(ケナンが我々全ての父と呼んだとあるが、これはプラスかマイナスか?多分マイナスなんだろうが)。

 p26、トルーマン・ドクトリンは路線変更ではない。密教レベルにおいては欧的勢力均衡を基礎とする東部エリートの対外路線の延長上にあるものだった。密教はエリート・政策決定に関わるトップの間の了解であり、顕教レベルというのは議会や公式発表という段階に至るという理解でおそらくいいと思われる。で、宮廷外交時代ならともかく、現代において、密教=一次資料に限定して、その理解こそが本質に迫れるというのは誤解であると。大別して政治家トップの意思決定、中間の官僚、そして議会や世論・圧力団体という三つの次元がある。特に中間の専門家官僚によって、どれが密教に選ばれるか、また政治家によってどれが顕教選ばれるのか、また公衆・議会に伝達される密教顕教の相互作用のプロセスが重要。キッシンジャーが、その国の外交方針を知るにはスパイは必要ない、公衆への指導者の演説を聞けば良いという趣旨の発言をしたように、いかなる独裁者といえども国民の共感と禁忌の網の目から自由にはなれないのである。そこから外れた長期的外交方針はありえない。

 p27、トルーマン・ドクトリンは政府が内向けの密教と、外向けの顕教の使い分けを十分に意識した典型的な例。アチソン国務次官のギリシャ・トルコへの最終案を読んでケナンはまずいと感じた。壮大かつ大規模なために、中国内戦が起こった場合介入が予想されるし、「自由世界」「民主主義」というものに限ってはいけない、そういう政権ではなくても対ソ上支援しなくてはならないことが当然あるから。ケナンは、アメリカ人の一般化・普遍化しようという衝動がどこから来るかわからない、我々は法による支配を受けるにふさわしいという傾向を反映しているのではないか?と回顧録で指摘している。だが、教書はこの普遍主義的レトリック故に、議会の猛烈な支持を取り付けることが出来た。政策の実現という点でこの選択は的を得ていた(※拙感想、米の世論が優れた外交政策を支持しやすいならともかく、現実はそうではない。故に政策決定者・トップと国民の間にある種の緩衝が必要になる。間違った国民の判断を反映しないようにする緩衝材もしくは間違いを自動的に修正するようなバランスを取る装置、中間の存在スタビライザーとでも言うような装置が必要なのだが、そのような機能・存在の必要性は言われているのだろうか?)。

 p29、アチソンは議会を説得する例えとしてこの支援がなければ、「樽の中の腐ったりんごのように世界の国に病毒が蔓延していく。ギリシャからイラン、東欧からアフリカや伊・仏にまでそれは及んでいく。ソ連は史上最低のコストで最大のギャンブルをしようとしている」と主張した。この例えにより反英的で孤立主義的な議会の長老ヴァンデンバーグ上院議員に支持させることが出来た。疫学的例えは絶妙の効果を発揮したのだった。そしていうまでもなく、これこそドミノ理論の原型であり、それは流行病感染のイメージそのものだった。

 キリスト教においては異端者=毒のイメージ。異端思想が感染して広まっていくから。ジャンヌ・ダルクへの判決もこの発想が見られる。異端排除の神学的伝統はジャンヌ・ダルク時代から見られるほど根深いもの。「健康と病気のメタファー」は枚挙にいとまがない。ジェファソンの自由への病患、リンカーンの戦争の苦患など、これらの背後にあるのはピューリタン的「病原菌絶滅主義」。これについては山口昌男氏の優れた指摘があるが、端的にいうと身体を囲い込み異物から守り、異物が入り込んだ場合には直ちに外科手術によって切り落とされなくてはならないと考えるもの。 

 p31~32、トルーマン・ドクトリンは「イデオロギー宗教戦争の宣言」であった。よって英国への借款拒否に見られる反英感情を超えて議会と大衆の指示を得た。問題として共産主義の蔓延を防ぐための経済支援をする用意があるという点よりも、軍事側面に異常なほど関心が集中された。またケナンが指摘したとおり、これが中国へ飛び火することになった。ヴァンデンバーグ上院議員が「伝統的に中国には超党派外交が通用しない」と述べて、蒋介石への援助停止を反対し再開すべきと主張。46年の中間選挙共産党右派が数字を伸ばすと、彼らはヨーロッパ優先のトルーマン外交に取って「中国問題」こそがアキレス腱であると気づいてこれを問いただした。アチソン国務次官は教書が白紙委任状を意味するものではないと必死に抗弁せざるを得なかった。このような冷戦ドクトリンに内在する矛盾は、疫学的地政学に基づく「封じ込め政策」の論理的帰結と言わざるをえない。

 p32、封じ込めの二重性 containment lineには現実の勢力圏として東西を分かつという意味と、イデオロギーの二重の意味があった。この防疫ラインは軍事的なものか、共産党勢力などのイデオロギーなものなのか、ケナン自身にも明確なものとはなっていない。反抗手段も非軍事的な、政治・経済・心理的なものに限るのか、限定的な軍事を念頭に入れているのか曖昧なものだった。46年の三省調整委員会によれば、封じ込めラインは「直接」・「間接」二重の防衛ラインであり、予算・物的人的制約が許せば、無制限に拡大するものであった。欧州に比して第二戦線であったアジアでの境界線の曖昧さは更にギャップが大きかった。アチソン国務長官がいう「不後退防衛戦」、朝鮮半島の38度線やインドシナ半島の16度線は即興的な分界線であり、そこに大きな溝と曖昧さがあった。この曖昧性は朝鮮戦争、実際の戦争により消えることになった。

 p34、もともとこの疫学的地政学には米の地理的に隔絶しているという距離感と米の穢れ無きイノセンスという物心両面の孤立主義的精神風土がある。未知の侵入への恐怖と内陸帝国の風土病的ポピュリスト心情がひそむ。アチソン演説は孤立主義への回帰を封じ込めようと、孤立すれば今の健全なアメリカはなくなるという警鐘の論理に基づいている。そこには健全な発展のために常に国内外にフロンティアを必要とする「大陸型海洋国家」という矛盾がある(異物の侵入を恐れながら、新しい土地を求めるという根本的に矛盾した心情をそこに見出すことが出来ると思われる)。ケナンの戦略の消極的姿勢にかかわらずそれが受け入れられたのはそこに、積極性・前向きな修辞があることによる。ケナン自身もアメリカの混乱と無秩序に潜在的不安を抱いていた。「過剰介入からの離脱」を達成するために、国内改革・国内秩序の強化を求める彼の姿勢にはその思想的不安がよく現れていた。(※今の外交の失敗の一因は「過剰介入からの離脱」の反動とも言える。もはやこの課題は消えたと言っていい。嘘をついてでも世論を説得しなくてはならないという状況が消えた以上、当然外交の大枠も変わるだろう。米外交史のロジックとして、国際秩序のための関与を嫌うという国民性&そのための過剰警告という歴史があったことは抑えておくべきポイントだろう)

 p37、三「隔離」と「封じ込め」 X論文の基礎資料を書くことを進めたのはフォレスタル海軍長官。彼はソ連との戦いの恐怖を「我々が相手にしているのは国家か宗教か」という言葉で表現している。彼の妄想に代表される、ドイツ人の頭にロシア人の身体(またモンゴル人)による世界支配。後者は黄禍論そのものであり、疫学的地政学の反応そのもの。マハンも典型的な疫学的地政学の信奉者だった。黄禍論の創始者ヴィルヘルム2世は独海軍創設者ティルピッツを介してマハンの理論に親しんだように、黄禍論と海洋戦略理論は深く結びついている。そして「封じ込め」という概念もここに基づく。フランクリン・ローズベルトもまた若い頃からマハンの海洋国家論とその地政学に親しんでいた。有名なローズベルトの隔離演説で隔離の言葉が使われているように、そこには疫学的地政学の発想がある。この「隔離」という言葉は彼自身わざわざ草案に選んで書き込んだものであり、この「隔離」は日本に対する擬似封鎖線の意味としても、彼自身が使った言葉であった。日本、ムッソリーニヒトラーの「世界的無法者の流行病」から隔離をする必要がある。国際社会の隔離を承認し、それに参加するものである。これが後の「封じ込め」の概念に繋がるのは言うまでもない。ただしこの時点では積極的に隔離に参加しようという意志ではなく、経済封鎖と国民世論の動員による積極的中立を意味する。ソ連への「堅忍不抜」姿勢・封じ込めの先蹤であり、キューバ危機で公海上を海上封鎖した際の「隔離」と同じである。

 鉄のカーテンは防疫線の焼き直しであり、マハン、セオドア・ルーズベルトの助言者であり、ジョン・ヘイの門戸開放の、理論的基礎を提供したブルックス・アダムズがcontainmentという言葉を用いていたことからもわかるように、初期においてこの「封じ込め」の意味はローズベルト演説のように消極的な、衛生学的な意味を持つものだった。いわば平時における武器貸与法のような意味で、欧州経済復興を重視する経済的な意味合いが強いものだったといえよう(チャーチル鉄のカーテンという用語は、ゲッペルスが既に使用していたという指摘がある。戦後を見据えてナチスと協力してソ連共産主義にあたることを視野においていた、戦前時代の戦略の延長上としてのこの用語をピックアップしたのだとしたら面白い)。

 ポイントはアメリカには、海洋上に、一方的な線引で一種の道徳的な自己隔離をする本能があること。

 p42、ジェファソン演説が新大陸を平和と共存旧大陸を没落としたように、ノーマルとアブノーマル。道義ある世界とない世界に分類されることになった。そしてこの平和な世界に浸透する侵略者から守らねばならないという発想になる。

 そしてこの隔離というのもペスト対策として用いられたヴェネツイアの検疫に基づく。40日の隔離の後、異常なしとして上陸を認められる。隔離quarantineの語源は40日であり、この40日は旧約聖書ノアの洪水の40日に基づく(地上にあるものは40日で全て滅んだ)。

 この隔離には次の三つの歴史的事実が関与している。1、アッティラ以来の東方襲来の恐怖。ペストがアジアから来るというのも結びついての黄禍論。2、ペストの原因に、16・17世紀魔女がスケープゴートにされたようにピューリタン的異物排除。魔女狩りとペスト、疫病排除のためにまさに「魔女狩り的反応」が引き起こされるということ。3、そしてもっとも重要なのが、ヴェネチアの海上支配権力と検疫が不可分であること。

 世界史が海と陸の闘争、リヴァイアサンとビヒモスの闘争であるとき、マハンのいうように、海軍力による海上補給と航路の確保によって内陸部分を包囲し、その勢力を封じ込めることで海上勢力は優位を保っていた。しかし技術の発達で大陸国家が力をつければ、英の戦略(海上封鎖による通商の断絶、海賊行為や砲艦などの間接手法)が通用しなくなる。ナチス地政学ハウスホーファーのロジックがマハンの裏返しであり、英の防ぐべきことを忠実に行い、マッキンダーハートランド理論に代表されるように、「島国」であることはもはや「海上主権の不敗のタイトル」を意味するものではなくなった。香港・シンガポール脆弱性は戦前ナチスの戦略家に既に指摘されており、潜水艦・航空機が出る以前から既にその地位は危うくなっていたのであった。ローズベルトの戦争介入と原爆の機密保持には、海洋国家の大陸国家への不安という視点があげられる。

 フォレスタル海軍長官がケナンを取り上げたのも、それが地中海へ進出する機会を探っていた海軍の既得権益を肯定するからであった。アーネスト・メイが指摘する通り、冷戦における海軍は空母海軍であった。海軍は空母が作戦行動をとれる地域と国益を同一化し、大西洋よりも地中海、そして太平洋を何よりも重視するようになった。

 大陸型帝国としての精神的遺制(孤立主義など)を今なお引きずっている。大陸型海洋帝国として変貌を遂げている過渡期とみなすことが出来る。十分な大陸を持つ米にそもそも外にでる必要性は存在しない。マハンが絶望したとおり、英からその責務を継承しようという意識にかけている。グローバルパワーとして著しく政治的未成熟を示していた。前述通り東部エスタブリッシュメントはそのために危機を演出せざるをえなかった。

 マグラス法務長官の朝鮮戦争前の演説で、「米にいる多くの共産主義者が社会のあらゆるところに死の病原菌をもたらす」という、悪魔の偏在性の意識は、機密を嫌悪する公開社会である米の風土病。

 このような不安感の上に、49年の「中国喪失」という新しいフロンティアの喪失に、ソの原爆保有という「要塞アメリカ」という物理的安全感が失われる二重のショックが起こる。この心理を理解してこそ、なぜソ連のほうが革命というイデオロギーを持ちながらも現実外交の枠にそって行動し、アメリカのほうがグローバルなイデオロギー国家として行動したのか理解しうる。また、ヨーロッパと異なり、アジアにおける熱戦に拡大していったかという冷戦最大の謎に答えうる。

 歴史を書くという行為は誰にとっての意味かという問いと不可分である。米欧の研究は西欧的なものであり、冷戦を「災厄」としてみている。だからこそ膨大な冷戦研究が成立した。我々が注目するのはアメリカとしてのそれである。アメリカというアメリカ人が自明でない社会においては歴史がナショナル・アイデンティティとして大きく作用する。正統学派も修正学派もかくうえで真のアメリカを?した悪者(加害者)探しをすることになる。その「原因」と「責任」を追求する道義的情熱が生まれる。

 原爆投下の決定においても同じく。現在の原爆の非難を元にその政策決定を考えるのではなく当時の価値観から見なくては理解できない。良い意図が良い結果を必ずしももたらさないと、しばしば歴史が教えるように、意図と結果が一致しないことにも注意しなくてはならない。零戦直後の環境から、アジアにおいて自由主義2位の経済大国日本と、共産主義3位の軍事大国統一ヴェトナムが生まれているという現実を見ても歴史の皮肉という他ないのである。