てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

儒学と儒教、用語の使い分けとか

王莽―改革者の孤独 (あじあブックス)/大修館書店

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 また穴埋めにどうでもいい話を。渡辺せんせーの『王莽』をちら見した時に感じた違和感についてです。本来宗教でなかったものが宗教化したものを「儒教」、学問を「儒学」―みたいなざっくりとした色分けをしていたんですが、前近代社会においてその分類は根源的に無理があると思うんですよね。政治・祭祀・宗教・学問に明確な差異がない時代ですからねぇ。

 なに?政治がうまくいかない?儒教の経典にあるとおりにやってないからや!となって、市井から有道の士集めたりとか、喪に服して孝と呼ばれるような道徳という聖なる力がある人が政権末期に登用される時代なわけですからねぇ。宗教性・呪術力はもちろん、「学問」としての能力もまた問われる時代なわけで。

 まあ、非論理的&非合理的なロジックがこの時代に、どのように働いていたのかということ、独特な現象にスポットを当てる分にはいいのでしょうけどね。当時の常識・価値観を誤りそこねる、前近代社会の特徴を見誤る危険性は大きいかと思いますね…。宗教的性質、学問的性質と分けて理解が深まるならともかく、誤解する可能性のほうが高いと思いますからねぇ。

 なんというかですね、「本来宗教的ではなかった儒学」という表現がすごい引っかかるんですよね。儒学は素晴らしいんだい!と言いたい人がよく、鬼神を敬して之を遠ざくといった「敬遠」の故事のようなところから引用して、倫理学であって宗教ではありませんよ~みたいなことを言うわけですよ。

 超常的な領域に踏み込まない「儒」は、宗教じゃない!学問だ!みたいな主張・発想が既に近代的な価値観から見たある種の偏見なんですよね。お化けとか論じない=近代科学的な思考法である=素晴らしいでしょ?みたいな逆算をしてるんですよね。そういう主張って。だけど非論理的発想は普通にあるわけで 。

 前近代社会、科学的思考がありようがない時代にむしろそういう発想がない方が異常ですからね。その時代・その社会にふさわしい価値観を持つのが当然で、それは常に変わり続けるものですから。なんというかマルクス主義的な進歩史観、価値観は常に進化し不可逆的なものではありえない―みたいな歪んだ思想をそこに感じてしまうわけですよ。

 孔子だって、有徳の君主・明君が出てきたら鳳凰がやってきて啼くとか、麒麟が挨拶しに来るとか述べているわけですからね。近代合理的な発想をするなら、大体祭祀によって一族が繁栄するとかそんなことあるわけないと喝破するはずですしね。根源的な「宗教」の理解が大丈夫かな?と思うわけなんですね。ウェーバーのように「宗教は規範を決めるもの」という定義をしたほうが研究にとっては有意義だと思うのですが…。無論、研究によってそのほうがより有意義なことが理解できるということがあるので、別の定義を使うというのは問題ないのですが…。

 宗教的でないから素晴らしいとか、進んでいるとか、その逆だとかは根本的に前近代社会を論じる上で、当時の常識とか価値観を理解した上で、きちんと当代の思想・儒教などを分析・理解できるのか?と不安になりますね。別に史学の人間の人ならばそういう価値観でも、(宗教についてあまり興味・関心がなくても済む研究があるので)まあいいかなと思いますが、渡邊さんは文学の人で、お師匠さんが野口鉄郎さんだったか?道教研究の人で、宗教についてはよーく知っていないといけない人のはずなんですよね。うーん、どうなのかしら?