てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

冷戦の起源④

冷戦の起源I (中公クラシックス)/中央公論新社

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冷戦の起源II (中公クラシックス)/中央公論新社

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p105、第3章 リヴァイアサンの火

一 共通の課題―海洋戦略

 ローズベルトは米国民が持つ官僚・専門家への不信から自由ではなかった。専門スタッフの意見を聞いたのはトルーマンからであり、伝統的・旧世界の外交への嫌悪があった。また彼に職業外交官は共和党派だという思いもあった。最近、ウィルソン流の普遍主義よりも権力政治家としての面が強調されるような研究が出た。現実主義政治家として外交・戦略に巧妙な手腕を発揮した「陰謀説」としてのローズベルト像はめずらしくないが、実際は外交史家ロバート・デヴァインが彼の内面的不確かさ故に真珠湾まで参戦に十分にコミットしていなかったことは十分ありうるとしている(要するに参戦についてはそれくらいのあいまいな態度だったということ)。

 彼のモデルとしてはセオドア・ローズベルトよりウィルソンもの方が数段上にあった。英の帝国主義への嫌悪が彼にはあり、英と結託しての参戦という理由は理屈づける上でかなり順位が低い論点。蒋介石への過剰評価も英警戒の裏返しであった。ローズベルトは真珠湾以降の大東亜共栄圏、「アジア人のためのアジア」というのを何よりも恐れていた。植民地が崩壊しアジア人が独立して第三世界が登場することの方を、ソ連よりもはるかに警戒していた。この時点で米ソの対立の兆しを逆算的に見出すのは的を得たものではない(このような後付、逆算からの立論・類推に対する反論が多々あるが特に取り上げない)。

 ドイツのポーランド侵入でも中立を崩さなかった米がわずか18日後に事実上の参戦を意味する武器貸与法に踏み切る。これに踏み切ったのはローズベルトの海洋国家としての知見、米英の海洋国家としてのつながりを重視した故であった。チャーチル・ローズベルト、両国のトップは海軍の要職経験者であり、マハン理論の信奉者でもあった(ローズベルトは海軍をわれらと呼び、陸軍を彼らと呼んでいた)。

 往復書簡集にあるようにトップには「個人的信頼関係」が成立していた。だが再三述べてきたとおり、ローズベルトは英に不信感を持っていたし、米英には溝があった。トップに個人的信頼関係があれど、議会ではハリー・トルーマンがドイツとソ連をその都度支援し共倒れにさせればいいというビヒモスへの態度があった(これは疫学的地政学というよりか、現実主義的な態度でもあると思うのだが…)。

 英ソが東欧の勢力圏について秘密協定を結んでいるという噂がワシントンで流布されると、大西洋憲章に代表されるようにそのような旧世界の外交を阻止しようとやっきになる。このころから米の外交は第一次大戦後の外交の失敗、ウィルソンの亡霊に取りつかれて迷走することになる(※大西洋憲章はモンロー宣言のいわば上書き更新、中立から大西洋への関与を意味するものだと個人的に考える。それについてはまた米外交史の所で)。

p120、二 戦後構想と原爆開発

 ローズベルトは原子力に強い関心を持っていた。それはドイツのみならずテクノロジーの進歩で海洋国家が自分たちを守りきれないという恐怖からくるもの。原爆はリヴァイアサンの守り火であった。ローズベルトは最高助言者たちにすら内緒でチャーチルと個人的な取り決めをしていた。(※このようなトップの意思決定としては独裁者に近いとさえ思えてしまう、彼個人で重要な判断を下してしまおうという気質は一体どこから来るのだろうか?)

 ビヒモスに対して海上権力が通商・外交が可能になるように、リヴァイアサンの前哨基地守るための原子力兵器。チャーチルにとっても原子力兵器は米の孤立主義復活を防ぐ最善の保障であった(※保障ではなく孤立主義が復活した後の保険ではなかろうか?)。

 元々は二人の警察官だったが、それが四人になる。国際警察力としての原爆、その独占という発想があった。ローズベルトの構想は大陸帝国の遺制としての「要塞アメリカ」であり、核武装した海・空軍で守られるリヴァイアサン孤立主義と干渉のバランスを取ったビジョンであった(ローズベルトにとっては根強い孤立主義を覆して世界の安全保障のために米を関与させる不可欠なピースとして、そのリスクを極力減らす・最小限化する原爆というものがあったのだろうか)。

 チャーチルは原爆を外交の力に転化するためには明確な行使の意思を表明しなければならないと初めて理解した人間。英国総司令官アラン・ブルックは原爆の成功を子供のようにはしゃぐ彼の姿を見て、ソ連の全工業地帯に投下して一掃する、世界のあらゆるところに行使を望んでいるようだとして彼を警戒している(※これも恐れゆえの反応なのだろうか?この場合の恐れというのは、むしろ大国としての地位を低下させる、栄光ある大英帝国の崩壊というものに対する反応であろうか。世界に輝かしい大英帝国を守るためならどんな非道行為も正当化されるという価値観念があったのかもしれない)。

 国際調停というのは、もともと大国間に潜在的な利害対立があり、その調停を必要とするから存在するもの。その原理を無視して成立した国連、五大国のような構想が至極当然。国連設立に対するワシントンの熱気をケナンは批判している(※このあたりの楽観、見通しの誤りも米の失敗の本質を理解するのにポイントになりそう)。

p138、三 悲劇の根源―ポーランド問題

 ポーランドは英にとっては名誉問題であり、ソ連にとっては死活問題であり、米にとっては憲章にかかわる原則の問題であった。伝統的な勢力圏の問題と、ポーランド政府の主体がどのようなものになるのかというイデオロギー問題を含んでいた。

 ソ連カーゾンラインを求め、ポーランド亡命政府は一九三九年の国境を求めた(ポーランド問題については志水速雄)。米がポーランド問題について強い関心を持ったのは、ウィルソンの亡霊にある。英仏が伊に対する秘密協定が明らかになると世論がその秘密協定の性質を嫌悪して国際連盟への加盟がご破算になったという苦い経験がある。

 よってその秘密協定の反対とともにウィルソンの亡霊となって、大西洋憲章にみられるように領土問題は軍事占領による事実などではなく、戦後設置される国際機関を通じてその国民の自由な意志によって決められるものであると考えていた。だが米が実際に選んだのは不介入政策であり、カーゾンラインの代償に、オーデル河にポーランドの国境を西に拡大させるという提案は米英とも受け入れる方向に話が進んでいた。

 ただしローズベルトは44年の大統領選挙で600~700万のポーランド系の票を失うことを恐れて、この公開を拒んだ。米の沈黙に勇気づけられた亡命政権カーゾンラインの線引きを拒むことになる(※というより、この時点で三選などの問題を考えても、大統領選に出るべきではないと思うのだが…。外交への継続性・戦後処理の重要性があっても、自分の政策をよく理解している後進を推薦してアドバイザーになるというものではダメだったのだろうか?有力な候補がいない、あるいは対立候補が孤立主義者とかの問題があったのだろうか?やはり彼個人の内面的問題が気になるなぁ…)。

 ワルシャワ蜂起、すぐ近くまで迫ったソ連軍に勇気づけられて蜂起した国民がドイツ軍に叩かれ、赤軍はそれをただ黙ってみていたという事件が起こって、潜在的反ソ勢力はいなくなった。これによってポーランドソ連支配が決定的となる。この時点でチャーチルカーゾンラインはともかく、独を弱めてソを強くする西側の国境変更には反対するようになった。スターリン主導のポーランド処理が進んでも、まだ米はソとの共存が可能であると考えていた。ローズベルトは、英はいつもソ連と戦争させたがっているという冗談を言っていた(このように戦後の見通しについて誤った理解をしていた)。

p153、第4章 ヤルタ体制のアジア的構造

一 “実践規範”としての国際体系

 ナチスの東欧支配こそが戦後のソ連の東欧支配を可能にした。同じく日本帝国の崩壊によって生じる力の真空をどこかの勢力が埋めなくてはならなかった。いうまでなく、それは米以外にありえなかったが戦後すぐにはそうならなかった。戦後の混乱の原因の大半はそこにある。

 日本のみならず、英仏蘭などの帝国を一掃した後米ソの共同統治が旧植民地体制にとって代わることが可能と信じたこと。すなわちそれは、ケナンがPPS-38文書で指摘した通り(欧州を制すには北米の工業力に決定的打撃を与えることなしに不可能というもの)、欧州政治だけで自己完結する時代は終わったこと。つまり北米以外にも世界的な政治動向が今後国際政治秩序を維持するために重要だという認識を欠いていたということである。

 ケインズフロイトは新参者ウィルソンに対して懸念を隠さなかった。彼は必要な欧州情勢の理解を欠いたまま新秩序をつくろうとしていた。(ココらへんから最後に引用ページを書くところまで抜き書きになります、なるほどというかいいまとめだと思ったので全文まま書いてみました)第一次世界大戦後に必要不可欠とされた《実践的行動規範》のシステムを考える際に、われわれは、国際体系を単なる国際法規上の抽象的な法規範や条約体系としてではなく、国家間相互の行動の可測性を保証している実質的な拘束力のはたらく半公・半私の実践規範(慣行・伝統・制度)の束としてそれを理解する必要がある。しばしば勢力均衡や勢力圏というとき、反射的に、力(軍事力)のバランスのみを連想し、これに感情的に反撥するか、あるいは反対に力の盲信におちいる傾きが現在でも消えていないが、「半公・半私の行動規範」(制度)の歴史的累積という正統なヨーロッパ的観念を理解しないかぎり、国際体系上のヨーロッパとアジアの本質的相違を把握することはできないであろう。 十五世紀の終わり、フランスのシャルル8世のイタリア遠征によって、一つの自己完結システムとして存在していた「イタリア諸国家体系」が崩壊し、特にウェストファリア会議以降生じたのがヨーロッパの国家体系だと言われている。この「ヨーロッパ国家体系」(Europian state-system)とよばれる制度は、具体的な特定の空間構造に結びつけられた《ヨーロッパ家族共同体の内規》のような性格をもっていた。それは長い中世時代のキリスト教共同体の仲間内の規範としての《ヨーロッパ公法》(Jus Publicum Europeum)を基盤としたものである。歴史的には、フランスがイタリアに侵入したと同じ頃、航海術と海軍テクノロジーの飛躍的進歩によって、東方ではポルトガル、西方ではスペインが海洋支配権を拡大し、長い中世時代、ヨーロッパの中心部に備蓄された資源(人材・技術・資本)をグローバルな規模に動員・拡張させることに成功した。その結果、ヨーロッパ公法秩序は、海と陸との分化の実質的な基盤の上に成立し、ヨーロッパ内陸中心部は、「民族国家」という新たな行動単位間の「勢力均衡」とよばれるゲームの規則によって秩序が維持されることになった。そこでの「民族国家」とは、「新しい種類の戦争(正戦)を遂行しうる資格をもつ国家」――あたかも″決闘″の資格要件をもつ者のみに限定された紳士クラブのメンバーのような存在であった。その紳士クラブの内規の中核にあるものは、紳士たる主権国家は、それをこえる超越的立法者も審判者をももたぬがゆえに、いわば紳士協定(相手国の同意を必要とする協定・条約)による以外に何人にも拘束されないという精神であった。

 かくて対等・平等・同権の水平的な主権国家間の秩序(しばしば、《ウェストファリア体制》とよばれる)は、ジャン・J ・ルソーがするどく洞察したように、中央政府当局の存在する国内秩序と対照をなして、本質的に,″戦争状態″(State of war)を常態とする無秩序体系にほかならなかった。にもかかわらず、それにミニマムの秩序を与えていたものは、その紳士クラブの内規(慣行・慣習法)としての勢力均衡による相互抑制と自己限定、それを裏づけるものとして「正しい戦争」と「正しい敵」(公敵)観念であった。決闘の正義性は、だれが正しいかの実質的正義とするどく分離され、正しいものがつねに勝つのではなく、形式的手続きをふむことで一定の資格が保証されるがゆえに正しいものとされたのである。すなわち、「決闘」にふさわしい「人格」(民族国家の資格)の保持者は、「大国」として一定の手続きのなかに限定され、その大国間の闘争は、「立会人」(中立諸国)のもとに確立された「交戦権」として制度化されることになった。この《戦争の制度化》と、それに不可欠の勢力圏や緩衝地帯の設定、外交交渉の秘密保持、国内世論からの外交の自由等に基礎をおく勢力均衡体系こそが、それ以前の宗教戦争や内戦という最も血なまぐさい非公式(私的)闘争形態を克服し、ヨーロッパ国家体系の長期安定と平和を確保しえた秘密であったといわねばならない。

 だが、一八九〇年頃から、大衆民主政治の擡頭による民主主義の情緒化とイデオロギー化、国内政治の変化は、急速な軍事テクノロジーの発展とともに、第一次大戦から第二次大戦、その後うちつづく冷戦というグローバルな長期の国際内戦の慢性化を生んだ。その結果、右に挙げたヨーロッパ秩序は、一方でその内規(実践的行動規範)たる″半公・半私″の性格を失って、しだいに内実を欠く普遍主義的な″公″の原則に抽象化されていく傾向とともに、他方で、制度の融解によって可測性を失った国家体系は、相手国の行動にミニマムの可測性を与え、制御するため、赤裸の実力行使――〝力の政治〟Real Politikの〝私〟ヘ還元されていく傾向である。前者のヨーロッパ公法秩序の抽象化=普遍義化(規範主義化)の過程は、自ら″世界史の腐肉の屍毒″から自己を隔離して、新世界を創造したアメリカがその担い手となって進行し、他方、ヨーロッパ内陸部では、ドイツとソ連が、既成秩序に挑戦するには″力の政治″を辞さないところの新興勢力となった。そして、いずれもヨーロッパ紳士クラブの「新参者」として、内規にうとく、その紳士たるにふさわしい洗練を欠くが、その逞しい野性と無限のエネルギーをひめる点で共通していた。いまから百五十年も前に、アレクシス・ド・トックヴィルが「今日地上には二つの偉大な国民が存在する。……両者の出発点は異なり、道は同じではない。それにもかかわらず、両者ともいつの日か、世界の半分の運命を掌中に収めるべく運命づけられているようである」とおどろくべき予言を行ないえたゆえんである。ソ連はドイツにかわるユーラシア内陸部のビヒモスとして、合衆国は大英帝国の遺産をうけつぐリヴァイアサンとして、次代の覇権を競う運命におかれていたように思われる。

 以上の実践的規範体系という観点から見るかぎり、カイロ=テヘラン会談で合意された、いわゆる「民主的諸国民の世界家族」a world familiy of democratic nationsなるものは、所詮、具体的な空間秩序と歴史的根幹に根をおろさない虚構の所産にすぎなかったといえよう(p156~159)。

 そも、フィリピン併合を除いて米はアジアや太平洋にコミットメントをしていない。門戸開放政策は呼びかけることだけであり、実力行使を否定するという米伝来の特質をもつものであったが、ジョンヘイが福建省に海軍基地を建設したように、理想と現実政策はしばしば矛盾するものである。国際社会で重要なのは<実践規範>であり、理念ではない。米のその矛盾はルート=高井・石井=ランシングの両協定に現れている。欧州が大戦となっている間、この地域では力の真空が生まれつつあり、真珠湾は技術的にも戦略的にも、その力の真空を埋める先制攻撃の古典的例であった。そして米からするとこの奇襲によって太平洋に突如押し出されたということになる。よって上院外交委員での中国専門家ジェームス・トムソンの証言にあるように、国民政府が力を失い軍閥の一つに過ぎなくなってしまったとき、真珠湾によって正式な同盟へと結びつかざるを得なくなっていったわけである。そこに周到な戦略があったわけでもなく、タイミングを失った受動的情動的反応あった。これは、朝鮮戦争にも該当することである。