てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

冷戦の起源⑥

冷戦の起源I (中公クラシックス)/中央公論新社

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冷戦の起源II (中公クラシックス)/中央公論新社

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 ラストになります。こんな長いのツイッターでつぶやけないですね。Ⅱ、下巻はかなり適当なメモです。そんなにⅠ、上巻と比べて逐一追って書きたいという感じではなかったのでね。まあ疫学的地政学がメインというとこでしたし。

 上巻は5~6周したんですけど、下は2~3周しかしなかったんですよね。まあ既知の範囲はガンガン飛ばすので、言うまでもなくご自身の目で確かめられることをおすすめしますね。前回や、途中でもちらっと書きましたが、用語というか言葉の使い方がわかりづらい、回りくどくてイラッとするところがありますね。ココらへんが高坂先生が大家として広く名を残しているのと、永井先生がそうでもないというところでしょうかね。ヨーロッパ古典外交読んだ限りでは、永井先生の方が全然面白い、というか論理に独自性がある。まあ『国際政治』とかそっちほうが有名なのでそっちが素晴らしいということかもしれませんけど。

 こういう言葉の使い方、学者特有のオリジナル用語を使って、回りくどい表現をすることが、マルクスっぽいっちゃマルクスっぽいですね。そこら辺に魅せられる人は魅せられるんでしょうけど、そうでない人にとってはイラつくだけかな?という気がしました。己は後者でしたね(^ ^;)。

Ⅱ ヤルタ会談でアントーノフ上級大将がマーシャル将軍とキング提督に対して朝鮮半島沿岸に共同作戦を提案していた。外交・政治を軽視する米国特有の工学的戦略思想故に、陸海空の三軍共同作戦の困難さという理由から、これを拒否した。もしこれをいれて中国北東部沿岸に上陸作戦をしていたら、東アジアの運命は大きく変わったであろう(p8)。

 半島統治の準備不足と、蒋介石政権での協力のように、米ソ協調の楽観論。それが東欧の現実を見るにつれ、遅まきながら勢力均衡や勢力圏の発想になって日本単独占領に傾く。選挙による民意を代表する統一政権の樹立と、共産勢力による政権しか承認しないソ連との対立をどうしようもなくなった(p9~)。言うまでもなく、半島の現地の人間の意志・思惑は考慮されず、大国の意志が重視される。今の半島二国の国際力学を無視した幼稚な振る舞いはその反動とみるべきか?

 ベトナムも半島も現地人が行政に参加する機会が絶望的に少なかった。日本は仏インドシナにおいて現地人を登用・参加させることができなかったのはこのためで、ベトナムの独立運動が地下に潜ったのもこのため。ローズベルトは英仏帝国主義の復活をソ連共産主義より恐れたし、インドシナでの日本占領をその腐敗のための帰結とみなし、インド独立を米独立と重ねて合わせてみる無知・ナイーブさを示すほどであった。中国と英が16度線を境に担当し、のちのそれを仏が引き継ぐ。大国の威信をかけて、仏が独の再軍備など欧州・中東・アフリカで重視する代わりに、米は二次的な東南アジアで仏の要求を聞き入れることになった(p20~)。しかし日本の最後の現地人による政府を作り独立させようという試みがベトナム戦争での大国の米としての斜陽に繋がるところなどを見ると、日本の最後の抵抗の結果が生きたと言えるのだろうか?

 米の撤兵は力の真空を生み出すという懸念がありながらも、bring the boys homeの世論の前に、軍事力を展開できなくなる。46年の中間選挙前には極東、特に海兵隊のNo boots No votesのスローガンを筆頭に撤兵ムードが高まる。このような現状の中、米の原爆外交はソ連の圧倒的地上軍の優位に張り合う虚勢にすぎなかった(p34)。

 第二次大戦後の急速な動員解除で、ソ連の260箇師団に対して米は1箇師団と三分の一の兵力しかなかった。それ故にマーシャルがモスクワ外相会談で力の裏付けなき外交を嘆いた(p60)。原爆を使うと言っても46年で原爆は10指に満たず、その運用手段も乏しかった。戦争後マンハッタン計画に携わった学者はほとんど大学や研究機関に復帰し、46年に僅か8名、水爆開発決定などもあって53年にようやく50名に増えたのが実情であった。民間の原子力委員会が設立されたのが16ヶ月後というのが何よりも米の平和への復帰意識を示していた。49年にロイヤル陸軍長官が対ソ戦の時日本を放棄するといったのは、その戦力の乏しさの裏付けから出たものであった。

 ツァイガルニク効果、竜頭蛇尾の結末。フラストレーションが日本との戦争の集結にあった。

 NSC48文書、アジアの民族政権樹立の支援と友好関係維持、日本の非軍事化戦略の放棄、中ソ離間(p85~)。アチソンの考え方によると中ソ離間を促すために、台湾政権を支援するのは好ましくないというもの。もし台湾放棄と半島不介入という点で米中が譲歩しあったらどうなっていたのだろうか?まあ日本再軍備と基地化が中ソ友好同盟のようなものと決定的にぶつかり合う矛盾があるんだが。米は欧と違うといくら自分達が思っていても、中はそうみてはくれないということを完全に見誤っていた。

 北京が革命体制として、手の汚れていない国ぐと結ぶ用意があると宣言したのは不思議なことではない。西欧的な平等な国交ではなく、中国的な逆=垂直関係を元にした秩序への回帰(p109)。

 海軍が石油を重視して中東に戦略的価値を追いていた。それはトルーマン・ドクトリン(47年3月)にも現れている。これに対し、46年6月までに策定された試案では欧防衛を第一とする基本戦略故に、海軍の反対にかかわらず、カイロ・スエズの石油地帯を放棄し、カラチ近辺の戦略空軍基地及びカサブランカの戦術空軍基地に後退し、そこからソ連の都市に対する原爆攻撃を行う作戦、フロリック作戦が主となっていた。

 ベルリン危機で高まる緊張で統合参謀本部は「緊急戦争計画」(48年5月)を策定した。このハーフムーン計画では、20のソ連都市に対して50個の原爆を投下し、「少なくともソ連の工業生産力の50%を麻痺させる」ことになっていた。これは危機感というよりも当時の限られた予算案の都合から。ダニエル・ギャラリー海軍少将からなる海軍の覚書では、これに重大な疑義を投げかけている。ナチスドイツの戦略爆撃は優に500箇の原爆に匹敵すると見られているが、ドイツの主力が撃破されるまでドイツは降伏しなかった。またクラウゼヴィッツの勝利感、我々の意志を強要することから外れた敗北を避ける事を目的とする思想を批判した。のちハーモン報告で、空海両軍を合わせた玉虫色のものになったが、結局原爆戦略・空軍に予算が割かれることになった。そこには決定的なダメージを与えることはなく、むしろどんな行為でも戦争に勝つためなら肯定されると最大限の報復手段を誘発し、戦後の問題をさらに複雑化させるという指摘がなされていたのだが…。この根拠になった論理はNSC68文書にあるような最悪の事態に備えるためには、特殊な軍事作戦遂行能力よりも大規模全面戦争に備えよという戦略空軍的論理に基づいている(~p125)。

 p128、危機神学ムードに満ちたNSC68。絶対悪・神の意志、アチソンは回顧録で、これがそのまま履行されるなどとは考えていなかった。意思決定者政治トップの人間の頭を殴りつけて啓発する意味合いからできたものと述べている。ソ連北朝鮮をそそのかすようなことがなければ果たしてこの通りに行ったか疑わしいとも。

 小規模の機動部隊こそが柔軟な封じ込め戦略に必要不可欠と唱えるケナンは傍流に追いやられていき、むしろ彼の手にその正しさを証明せねばならぬ立証責任が移るほど。

 当時の二極のゼロサムゲーム感が支配する論の傾向を考えると、もし仮に朝鮮戦争が起こらなくても、より温和なNSC48の方に向かったかは疑わしい(p142)。

 なぜヨーロッパと異なり、アジアでは熱戦・覇権主義的な行動に出るのか?トルーマンの米軍出動命令は、マッカーサーを始め極東の陸海空軍最高首脳部を驚かせた。アーネスト・R・メイ曰く、米は計算された政策the calculated policyに対して、自明の公理的政策the axiomatic policyという二種類の政策を持っているということ。一度確立された「基本前提」operating assumptionsに伴う「認識の不協和」cognitive dissonanceの代価を回避したがる。故にその時は米特有の物の見方で捉えて、判断して処理しがちになる。

 ※このような表現が非常にわかりづらい。まず一見では伝わらない言語表現だろう。いわんとしていることはわかるが、熟考が必要であり、論文などで永井論理を簡単に応用できないのではないかと思う。

 ナチズム全体主義として共産主義を解釈する。スターリンの限定的目的を考えればこれは誤りと言える。レーニンはクラウゼヴィッツ流の「戦争の技術」を、「革命の技術」へと転化し、プロの革命家集団による「前衛政党」が国を牽引するというやり方を採った。そのため国内に敵を作り、旧支配者層を弾圧した。これはロシアの秘密警察方式をそのまま引き継ぐことになった。対してナチスユダヤ人は反体制派や知識人を除けば、国内甘やかし政策がその本質にあった。消費財生産は39年を100として、44年でも85までしか低下せず(英の場合54に低下)。軍需生産は34年から増え続け、43年終わりまでに英の猛爆の下にあっても倍加した。チャーチル・ローズベルトが国民の犠牲を訴えたのに対して、ヒトラーはそれを訴えることはなかった。言うまでもなくその分非アーリア人への弾圧は凄まじかった(p157~)。

 アメリカがその意に反して、朝鮮戦争という偶発事件によって、介入せざるを得なくなるという偶発帝国Accidental Empireという見方は、すなわちレイモン・アロンやジョン・ギャディスの見方は、歴史の偶然性を不当に強調しすぎていると思われる。あたかもそれは東京・ドレスデンの絨毯爆撃や原爆投下をテクノロジー重視のリヴァイアサン国家に内在する基本思想に求めずに、ドイツ空軍10機の航法の誤りに理由を求めるものに似ている。

 ※意図しなかったドイツ空軍の誤爆によって、英の怒りがベルリン空襲となり、それが更にロンドン空襲を呼ぶ。結果、英の第一線戦闘機と飛行場が生き残ることになり、春秋の筆法をとれば、ドイツ空軍10機の未熟な技術が大英帝国を救ったことになる。だが、もしこのような事件がなくてもアングロサクソン的なテクノロジー重視の思考、人命・人力・時間を節約するという発想・工学的戦争観からこのようなことはさけられなかったと見るのが妥当であろう。ヒトラーがそれをしなかった、乗り気でなかったのは、人道的見地からではなく、それがドイツの軍隊に向かないから。そして英はその前からすでにこの作戦を周到に準備していたことからも明らかだろう。

 太平洋戦争は日本が米本土を叩ける能力がないという点で本質的に非対称戦争だった。にも関わらず典型的な在来型の敵主力を破壊するという戦略をとったのが間違い。輸送船や敵補給路を絶つことすら二次的とされた。チャーチルが恐れていたように、旧英仏蘭領のみに限定攻撃するのではなく、本土に奇襲をするのは戦略上・政略上最悪の選択という他ない。言うまでもなく仮にそうしていたとしてもチャーチルが苦慮していたように、孤立主義世論から米が直ちに参戦したかどうかは不透明であった。(p177)

 中国は参戦しないであろうという楽観が38度線を超えた「巻き返し」へと繋がり、中国の参戦をまねき、挙句アジアの民族主義から非難を受ける。「境界水域の友好開発理論」、カナダ・メキシコと米がうまくやっていることを理由に、中米も鴨緑江を挟んでそうすることが出来るという自国の事情を当てはめた楽観。相手もそうするだろうと思い込む自己中心主義。そしてそれはメコンデルタにおいてヴェトミンと戦うという形で繰り返される(p211)。果たしてこのような傾向を持つ米が、ベトナムのような事例からどんな歴史的教訓を引き出すのだろうか。