てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

『秦漢法制史の研究』 前

秦漢法制史の研究/創文社

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 大庭脩さんの秦漢法制史の研究です。まーた97年と82年の二種類ありますが、増補されてるパターンなのかしら?82年しか手に入らないっぽいですね。読んだのは82年版になります。

 時代区分論も流行りの経済史も馴染めず、右左がはっきりする法制史が性に合ったと書いておられますが、本当法制史というか官僚制度研究って研究すれば、着実にお宝出てくるジャンルなのにどうしてこんなに人が少ないんでしょうね?いっぱい研究者いるようなのにどうしてここに参入しないのか不思議ですね。政治史論作る上でも、この基本抑えないとちゃんとしたものが出来ないという気がしますが…。

 82年に書かれた本。つまり82年にこういう論・主張が出されたんだから今の研究状況はこんなもんで、着実に発展してるでしょう―と言えるかとおもいきや、この大庭先生の論文って50年代~60年代のものなんですね。大庭先生がこういうことをこんなに早く言ってるのに、今でも「へぇ、なるほど!」と感じられるのは、氏の能力の高さは言うまでもなく、やっぱり人が参入していないため、なかなか研究が進んでいないからなのかなぁという気がしますねぇ。

 まあ、己が全然他の本を読んでないので知らないだけだという噂がありますが(^ ^;)。それにこの論・主張がこの年代に唱えられて20年経ったからこういう展開になって、40年経ったからこういう新しい研究成果が当然出てくる―なんて目安をつける能力は当然ないので、早いも遅いもそもそもわからないんですけどね。全くの勘で喋ってるので、むしろよく研究が進んでいる方だよと言われれば、そう感じてしまいますからね。

 なるほど厳耕望さんとか労幹さんとか名前が出てきてそういう方の研究を受け継いで論が出来ているわけですな。まあたまに名前を聞くくらいでよく理解しておりませんが、応劭とかもこの時代の制度の起源などを整理・研究した有名な人なので度々名前が出てきますので、改めてにゃるほどね~とその重要性を実感。三国志とか、三国時代史や後漢史では一般人にはまったくなじみなくとも研究する上では彼が何を説いたかはものすごい重要ですね。

 よく出てきている浜口重国さんの『秦漢隋唐史の研究』と鎌田重雄さんの『秦漢政治制度の研究』を読むべきかな?という感想をいだきました。読まなくちゃ(使命感)。鎌田さんは呂太后とか始皇帝とか一般書があるみたいですけど、どうなんでしょうか?出来がかなりいいのなら読まなきゃなりませんな。先に研究の方を読んで、それが面白かったらこっちにも手を出しましょうかね。鎌田「茂雄」さんでググったから、仏教史の方が出てきてしまいましたね。そういや名前違うだけで読みが一致してるので勘違いしてましたね。仏教史の他にも秦漢研究やってるのかと思ってました。禅と合気道とかそういう本を出してますし、いずれ読まなきゃなぁとか思ってるところです。

一篇 

一章 律令法体系の変遷と秦漢の法典

 ここ一番最後に読んだんで力尽きました。色々細かくメモろうかな?と思ったんですけど、まあいいかと投げました(^ ^;)。細かい法制の様式とかまあいいかな?と。

 神宗の元豊以後勅令格式の形に変わる。宋時代の会典の編纂が法制史的に意味合いが大きい。遼・金では行われなかった。遼・金が元のようになれなかったのは、この会典を作ることが出来なかったということに見いだせるんでしょうかね?無論作ったらいいということではなく、社会・政治事情がそれを許さなかったということなんでしょうけど。それでも元だと会典を編纂することが出来たのはどうしてなんでしょうかね?

 漢では律の解釈は主に三家あった。説文解字は律の解釈が自由すぎるのでその明確化に目的があった。何度も整理されたが「先帝の法」という理由で改められなかった。魏になって初めて魏新律一八篇として再編された

 ここ一番!∑(゜∀゜)ヒャアとなりましたね。なるほどなぁ~と。袁紹のように漢朝の重臣として改革を進める曹操という可能性が気になっていて、もし曹操赤壁で負けなかったら革命・新王朝もなかったんじゃないかな?という話を考えていましたが、このような法律論を考えるとまた面白いですよね。法家としての曹操からすると、このような新律による新しい政治を無視することが出来たか?と言われると難しいですからね。明らかに新しい法律体系のもとで新しい政治をスタートさせたほうが効率がいいですからね。魏の最大の政治的貢献というか成果といえるのはこの新律にあるんじゃないですかね?こういうことを考えると晋の再革命というのは、この新律のどこかを廃止したかった、改めたかったのか?という疑問が浮かんできますよね。そこら辺気になるところですね。

 魏晋で序文が最初にくるようになる。それまでは最後に書かれていた。また命令文の書き方が変わり、制詔の書き出しも門下に代わる。漢だと以A為B官―という形が、A可B官―という書き方に変わっていく。法制史的に唐宋は連続している。宋の制度はおもいっきり進歩・制度されて行く、発展形かとおもいきや連続性が強いんですね。なるほど。

二章 漢王朝の支配機構

 前漢政治史の転換期は呉楚七国の乱と、武帝政治。呉楚七国の乱以前と以後、武帝政治以前と以後の三つの期間に大別される。まったくの偶然だが、呉楚七国の乱の67年前が始皇帝の統一であり、67年後が武帝の死。まあ要するにいわゆる楚漢戦争という形態・構図の繰り返しで、その巨視的な流れの中でようやく皇帝政治というものが根付いたということですかね。昌邑王賀が王国から迎えられるケースを見ても漢は一つの王国にすぎないという感覚がある。各国とも独自の紀年を持ち「漢法に従わず」という表現も見える。そのような連合国家的色彩が呉楚七国の乱以後消えていく。

 朝請、諸侯王は春と秋に皇帝に会いに行くことになっていた。春の入朝を朝といい、秋の入朝を請と言った。おそらくその時にその地方の特産品を持って行くことが義務だった。皇帝と王、任地で離れた兄弟親子が会えるのがこの時。病気の場合漢帝としてはいかんともしがたかった。

 尉の他に「史」というのも官職で目立つ。文官、書記官のことか?九卿、または十二卿。中二千石~比二千石で丞相・御史大夫の下で実際の職務を担当しているトップなら卿とみなす。秩と官職は原則として一致する。もちろん時に例外がある。大県の長官である六百石以上の県令は尚書が選んで皇帝が任じ、小県の県長や列侯の国相以下、四百~二百石は丞相が選ぶ。中都官の百石は大鴻臚で、郡国の百石はその長官が選ぶ。郎関係は皇帝の直属という意味合いもあって少府の太官から日常の食餌が給されていた。

 増淵氏は任子に人質の意味合いを見出しているが、初期はともかく制度が完成していくとその意味合いはなくなり、むしろ将来の出世を意味する高官・一族との繋がりを意味する。武帝以後の定制化は郡国制から郡県制に進んだことを意味する。この郷挙里選、推薦制度が科挙という自薦にかわるのは官僚制の整備と考える。

 少府の担当・役割が初期は極めて広い。独立したり他の部署に移っていく。これはおそらく、なんの府なのか?と言えば、皇帝の私的な府という意味なんでしょうね。個人か一族かどっちかわかりませんが。帝室財政を担当していたとありますし。少=小でしょうか?だから内官、宦官とかも初期に含まれていたわけで。尚書もここにあったわけですしね。初期には尚書ではなく御史が書いていた。制詔の多くが制詔御史と書かれる。

 朝議に参列するものは問題の大きさとその性質次第、前漢だと丞相以下御史・二千石・列侯から大夫・博士まで無茶苦茶広いこともあると。後漢だと多分三公九卿とその問題の官庁のトップくらいかな?二千石もいれば参画したのかしら?まあ要するに公卿会議の原則は変わんないでしょうね。尚書台の機能が最近の研究だと注目されて、そこに権限があったという話ですが、んーどうでしょうね?読んでないのでわからないのですが、どういうところからそういう話が出てきたんでしょうか?あんまピンときませんが。

 漢の初期には獄官が多い。獄で身分の高い妻女などが役務として武器の修理をしていた。道路整備や辺境兵役なども。後漢だと獄に入れられた人間はどうだったんでしょ?なんか作業してたんですかね?

三章に漢の罪は基本不道という広い観念で捉えられるものであり、そこから狭い罪状がある。大逆とか狡猾とかそういう話がありましたが、特に書くことないかな?と思って飛ばしました。

二篇 四章 漢の徙遷刑

 矢野先生の京帥からの追放という話は既に大庭先生のこの論があったんですね。じゃあ注で先行研究として引かれていたのかな?

 前漢だと敦煌で、後漢だと朔方郡徙遷刑の主な対象地だった。前漢だと西域とのルートのためという理由があるんでしょうが、後漢だともう涼州のどこかに遷せなくなったんでしょうね。并州というか朔方の人はこのように流される人が来ることで色々事情に精通していた可能性がありますね。そういや張奐は敦煌の人ですけど、弘農に本籍を遷すことが許されたのって親とか祖父の世代に敦煌徙遷刑で流されて、それが許されて戻ったとかそういう可能性は考えられるんでしょうかね?

 遷すことは辺境充実政策の一環、罪が重いほうが南に遷される。南のほうが都より遠いことと、大逆罪などそういう疑いのある人間が北で異民族と組んだら困るという理由による。故郷が近い場合は意味が無いので南北逆になる。徙遷刑となっても強制的に送還するのではなく、定められた時までに現地に赴けば良いという形。

 故郷に帰すことは刑罰。財産没収の事例もあれば自由処分したケースも有る。辺境に遷されて帰ることもあるが、中央政界に復帰した蔡邕なんかはやはりものすごい稀なのかしら?秦の時代から京帥の追放は罰の意味合いがあり、周勃が就国を拒否して京にとどまり続けたこと。帰国して誅殺を恐れて甲を被って警戒したことなどもその例。

三篇

 この篇は史料論が多いので特にメモることがありません。というかわかりません。ちょうど文系なんていらなくね?みたいな話がツイッターであった時、こういう史料が読めるのは文系博士だけ!という話があって、己のような素人でも読めるようになっている史料が作られるのはまさにこういう人あってのことですね。本当木簡とかまず読めないですね。学者凄い(こなみ)。

 ABCDEと、分類してこの部分はこういうものという説明がされています。こういう史料が史料として書かれる前の、元の法令などのどこを使うか、どこを省略したり、どうやって編集したりというノウハウがあるわけですね。まあ己にわかりようがありませんが。とりあえず編集の基本ルールが有るんだなという話はわかりました。

 上申の際、筆頭の官の名前が記されてはいるが、一人で決定しているわけでない。連名署名だが、記すのが常識なので省略されていると。なるほどね、そりゃそうですよね。

 p225、著令文言、皇帝死後令典に編入されるのはこの文字で出された令が編纂される。へぇ、なるほどねぇ。そういやNHKでどの公式文書を保存するかしないかという話をやっていて、当然この時代でも重要文書とそうでないもの、記録に残すべきものかどうかの基準はありますわな。なるほどねぇ。

 p324、呉芮が長沙王忠とされる理由。特に異姓諸侯王で忠と言える実績はない。皇帝推戴の際、筆頭となった王。皇帝を討って皇帝になったわけでも、禅譲をとったわけでもない劉邦にとって諸侯王の推戴こそ権力確立の大事なポイントだった。項羽によって廃されて劉邦によって王に戻った。双方win-winであり、関係は良好だったわけだ。一般的に郡県制の欠陥から郡国制という事が言われるが、このような諸侯王や秦を討った大義名分六国の復興もあって、そもそもできなかったと考えるべき。

 p330、高祖の「約」の話があります。任侠的集団において結ばれた約は律令によって解体されていくものだと。こういうことを考えると、儒教というか学問というものが功臣集団に対向するロジックとして出てきたものだということがわかりますね。前近代国家というのは先例・前例が重視される。開祖の先例がかなり重要なものとして敬われるわけで、功臣集団が自分たちは高祖の信頼を得たんじゃい!ということになると法に従わない事にもなりかねない。その彼らを従わせるために学問、儒教論理が出てくるわけですね。高祖と同じくらいカリスマがある孔子の教えというものが必要な背景があったわけですね。その孔子の教えも広まるにつれ、逆に教えに反する!という枷になるのですけどね。なんか前に書いたっけか?これ、なんか書いた気がするな。

四篇

一章 前漢の将軍

 内に賞罰権を委譲され、外に爪牙として背叛する者を討つという将軍職は常置される官ではなかった。戻太子の反乱で霍光などに将軍職を与えて幼帝を保護する必要があった。後見期間の長さと、昭帝の早くに崩ずる事態と相まって将軍職は常置の官のようになってしまった。宣帝によって兵権は回収され末年は将軍がない状態にもなったが、元帝において史高が将軍になって非常に備えると霍光の先例が蘇ったと。領尚書事というのは、軍権と関係することなのかもしれないなぁ。将軍だから領じゃないかな?武帝末年は非常時であり、宣帝がその非常体制・戒厳状態を正常に戻すという流れがあるのか。

 軍を将るから、将軍。韓信が逃げた事例からわかるように、大将の選定には特別な待遇が必要とされる。斎戒と壇場での礼、特別な儀式が要求される。そしてそういう儀礼によって、大権が約束されることになる。周亜夫が皇帝を軍中で軍令に従わせたように軍中では将軍が上回る。将軍は独立性と裁断権を備える。孫武や李広のように専殺権を持つ。李広は法に触れないようにわざわざ軍中に連れ込んで処断したのもこのため。馮唐伝にあるように褒賞も将軍は決められた。つまり将軍には軍中の賞罰権がある。

 李牧の事例のように将軍毎にその「約」は異なる。司馬穰苴が帰るときに約束誓盟を解くとあるように、目的が達成されれば軍を拘束する「約」は解かれるもの。約も束も語義的には同じだが、誓という細かい軍令が古くからある。春秋時代だと誓の前に卜・占いと井竈を壊すのが先。占うというのは理解できるが、井戸や竈を壊すというのはやはり竈神みたいな価値観念が関わってくるのかな?どういう意味合いがあるのか気になる所。戦国時代になると合理化が進んだのか誓にすぐ入る。

 斧鉞―刑法一致思想によるもの。刑法志にあるように大刑は甲兵を用いて、その次は斧鉞を用いるとあるように、反乱の次に軍中での違反は罪が重いことになる。反乱で将軍を自称するケースが多いのは、周辺の郡県を支配下に追いたり、そこで命令を下したり、処罰したりする権限を将軍が持つことは自然だから。このような反乱に対して将軍を差し向けるよりも繡衣御史を派遣するのが普通。

 (唐代の影響か、御史=監察というようなイメージがあるが、監察というよりも刺史なんかに見られるように、非常時の上位統括機関と考えるべきかな。非常時が長すぎで事実上の州のトップみたいな感じになるわけだけど。)

 非常時に担当範囲の郡県などを統括する皇帝直属官。侍御史が繡衣・杖斧ということで大権を預かるのも、非常時においてのことで「不常置」扱いだった。(基本非常事態の時には非常の官を設けたり、非常事の特別機能を侍御史に持たせたりする。州牧という制度も秩石と官職のバランスをとるという意味合いがあったと記憶してますけど、というよりも非常時が常に起こるようになってきてそれに対して公的制度を整備せざるを得なくなった。後漢という政治制度がまた一つ危機レベルを一段階挙げたということだと読み取るべきなんじゃないでしょうか?)

 高祖が出した法三章も軍令、「約」か。

 将軍の下、校尉・軍候など士官下士官のチームが成立していたと考えられる。呉あたりの楼船将軍などはその軍隊を砂漠に持っていく訳にはいかない。孫呉の独立性というのは長江を中心とした船・水軍による一体感という要素があるのかもしれませんなぁ。もちろん江南の軍隊も普通に西北の辺境に派遣されていたわけですが。驃騎将軍で霍去病が活躍したため本来雑号将軍だったこの官名が公に比する法的根拠を伴うことになる。 

 不慮に備えて近籍を爪牙の官におく―というのが外戚に軍権を任せる論理であり、光禄勲(郎中令)が将軍を兼ねるケースが多いのも、皇帝直属官=皇帝との距離が近いことによる。兼任しなくとも光禄勲を経て将軍に就くケースが多く、将軍以前のキャリアルートになっていた。この論理は衛尉も同じ。水衡都尉が兼ねるというレアなケースがあるが、これは霍光時代の内朝・外朝の主導権争いで霍光が勝った結果。武帝期の経済政策の担当官、財政の重要ポストであったここについていた趙充国に後将軍を兼ねさせてその権力を強化していた事例によるもの。霍光他、五将軍による軍府による権力があった。ココらへん曹操が参考にしたんでしょうかね。

 太尉も非常、不常置であり、太尉が置かれない時は大司馬であり加官であった。大司馬と太尉の違いは兵を持つか持たないか。城門校尉、その屯兵は最高の将軍が領していた。王氏一族が城門の兵を領すという話が良く出てくる。これも名誉、高待遇を意味する指標と。

第二章 後漢の将軍と将軍仮節

 節とは竹だろう。一本の竹を五分割して重ねて同じかどうかで割符の機能を果たす。この話を聞いて、貝が貨幣の役割を担っていたとあるが貝も同じものじゃないと合わないので貝も割符とかに使われたんじゃないでしょうかね?

 節の色は赤。巫蠱の乱の時、太子も同じ赤節を使っていたので区別をつけるために黄色の毛飾り、黄旄がついていた。董卓袁紹が決裂するとき、袁紹は節を門にかけて出て行った。これを節が侮辱されたと考えた董卓は赤色に変えて改めたと。節をポイしちゃう袁紹も凄いですね。まあ節を仮に携えていたとしても効力を発揮しなかったんでしょうけどね。

 節は持や杖で表現されるが、本来は雍するもの。使者となったものはその重要性を重んじて張騫のように肌身離さず身につけていたと。

 節を授けられる官職として大鴻臚、光禄大夫、太中大夫、中郎将、謁者が使持節。他に侍中、中常侍、黄門令、侍御史。皇后に璽綬を与える奪うときは

三公に節を与えて行わせる。

 仮節は本来その資格はないが、仮にそうするという意味。董卓伝で東中郎将は持節、車騎将軍が仮節なのは本来中郎将が使持節の官だから。前漢では平帝の時まで将軍は節を持たなかった。使持節で将軍の独立性を破る形、両方共臨時の官扱い。末期に将軍に仮節・開府のような事例が出てくる。呂布のような外戚でもないのに儀同三司(三公待遇)は稀な例。

 大庭先生は霊帝の無上将軍については否定的見解を示していますね。将軍という官職、皇帝という官職を理解していないと。個人的にはそうは思わないのですが、そういえば霊帝という人物像なんですが、いわゆる信長みたいな強力な改革者像、リーダー像を無意識のうちに当てはめてみていましたが、そういう人物像ではなく、逆の面から考えることもまた重要ですね。西園軍をプラン通りの改革なんだろうと見ていましたが、そうではなくむしろ不慮の事態においてやむをえずに取った措置という観点からも考える必要性があるわけですね。ノリノリで無上将軍になったのではなく、非常事態故にイヤイヤ名乗らざるを得なかったという事も当然考えられるわけで。

 曹操は鎮東将軍の際、仮節されている。大将軍の時に持節になっている。これはランク・称号に応じて呼び方が変わっただけなのか、仮節だと特定作戦に従事する間だけ節を預かるということで、作戦が終わったら返上しなくてはならないが、大将軍ともなるとその持節は特権を付与されたということでその返上の必要性がないという意味合いがあるのか?そういや于禁は節持っていながら捕まったんだなぁ、今更だけど。関羽が節をボッシュートしたわけだけど、一方面指揮官が節を奪われるって相当なインパクトが有ったんだろうなぁ。指揮官として絶対やっちゃいけないことをやられたわけですからねぇ。魏の時代に使持節・持節・仮節の違いはない。辛毗が衛尉の時に節持っていった話がちょっと気になってましたが、この時の節の違いはもはや関係ないのか。毌丘倹の使持節は使持節烏桓校尉であって、これは漢制の範囲内(辺境系の役職は専断が必要なので節を与えられる)。

 曹休に裏切りを約束した周魴の手紙にある印などの数量の要求は当時の常識を反映しているはず。幢=旗を数十要求している。王莽時代よりも節の意味合いが大きくなったということか?漢代では軽々しく節を与えなくなった。節に権限付与の意味が吸収されて幢には意味がなくなったということかしら?将軍の麾下にあると示す意味合いとかなのか?なんなのか?ちょっとよくわからないですね、この幢というのは。倭王に仮された云々ということは日本の古代史関係だと結構有名な話なんでしょうかね?(無知)