てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

『秦漢法制史の研究』 後

秦漢法制史の研究/創文社

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続きです。四篇途中から。

三章 漢の中郎将・校尉と魏の率善中郎将・率善校尉

一節 中郎将

 五官・左・右中郎将という正式な官以外に特に職事のない中郎将という官が存在した。その職にあれば屯兵を率いる資格を有することを意味する。平時においても将兵の官。読んで文字通り中郎「将」、将である。皇帝直属の郎官系統にあって、しかも将軍・軍事職ということでその重要性がわかる気がしますね。事例では、中郎将および侍中という加官になってますが、諸吏中郎将・散騎中郎将のように侍中中郎将という事はありえるんでしょうかね?「諸吏」「中郎将」ということで別物と理解すべきなのでしょうか?侍中は良く聞く有名な内官なので違和感無いですが、後ろ二つはそんな聞かないですからね。魏では散騎常侍というのよく見た覚えがありますが、この当時はあんまりメジャーではなかったのか?後ろ二つは臨時でこの加官しかないのか、秩が低いからなのかどうなのか。己がアホだから見落としてるか、記憶に無いだけかな。まあいずれチェックして見るということでメモ。

 張奐が護匈奴中郎将になって三州と度遼・烏桓を督した時、九卿の秩が与えられている。使匈奴中郎将は比二千石だから中二千石の官を新設したと。夏育の上言があって鮮卑を打とうと田晏を破鮮卑中郎将にしたと。張奐が防衛目的に対し、こっちのほうが攻撃メインで格上になっても全くおかしくない気がしますが、まあ情勢が情勢だけに大した功績も上げられず廃れていった感じなんでしょうかね。

 宗資を討寇中郎将として賊を討たせたり、末期は中郎将任命が多くなる。右中郎将朱儁黄巾の乱の功績で鎮賊中郎将になった。これも通常のよりも高位の中郎将と考えることが出来る。漢中の張魯を討つことが出来なかった朝廷は「鎮夷中郎将、領漢寧太守」を与えている。

 まあどう見ても郎のキャリアを経ていない者に、これを与えるというのが興味深いですね。本来の「中郎」「将」から「中郎将」になった証左という感じでしょうか。本来の意味を逸脱して独自軍隊を率いるものが中郎将になってしまった感じですよね。まあこれを与えることからしても、朝廷の既存秩序に当てはめるには中郎将くらいの将軍ポストしかありえないということでしょうね。漢末の混乱を平定するためにこのような「中郎将」を解体していくという視点も見ることが出来るのではないでしょうか?

 

二節 校尉

 校尉の尉は武官を示す文字。秦漢を通して最高の武官は太尉であり、秦では国尉ともいった。京師の守備にあたった官が中尉。皇帝のいる宮殿や中央官庁を守備するものが衛尉。郡には郡尉がいて、県には県尉がいた。郡尉は郡都尉と改称する。廷尉は司法官だが、尉となっているのは兵刑一致思想の名残。衛尉が衛兵の指揮官、郡尉が郡兵の指揮官なら、校尉は校の指揮官ということになる。

 校とは軍の単位、500人で一校。百官志には大将軍は五部を率いていて部毎に校尉と軍司馬がいた。この部の下に曲があり、軍候がいた。その下には屯があって、屯長がいたと。校尉を置かないケースもあったと。五部が基本でも実際は多いことも少ないこともあったと。部曲という私兵の話が出てくるけど、あれはこの部と曲単位の編成をしているからそう呼ばれただけなのかしら?大将軍をモデルにしたとかそういう意味合いは特にない感じかな?将・校尉・候・司馬などは戦国時代から見られる基本的な編成単位。

 武帝時代に目立つのは将軍よりも校尉。巫蠱の乱対策で、司隷校尉を設置する。京帥に戒厳令が布かれた感じですね。元帝の時まで節持ってたくらいですからその権限の強大さは推してはかるべきでしょう。衛尉や太尉に任せず、ポスト新設でそのポストに「校尉」とあるのがポイントなのでしょう。んで他にも八校尉を設置すると。ずっと下で八関都尉と八校尉の関係云々を書いてますが、武帝の八校尉だな、多分。昔書いたのは。武帝の八校尉設置と関係してるんじゃないかな?って書いた覚えがある(結論は出てませんけど)。王莽と武帝の事例から西園八校尉をいくらか説明することは出来ると思うんですけどね。

 んで武帝京帥内外に八校尉を新設した他に、辺境や西域にも設置されたと。騎都尉、諫大夫を基礎資格に西域を統括する西域都護が設けられた。西域一帯を護れよというざっくばらんな称号のようなもので、本官は騎都尉とかそっちになるのかな?でもその下に西域副校尉秩比二千石があるからそういうわけでもないのか。都護の下に屯田校尉などが置かれて新地を開拓することも。烏桓・羌が従属してきた場合、護烏桓校尉・誤羌校尉という風に校尉が設けられて節持ちで監督と。特殊任務を持った校尉の新設は独立大隊の新設と同じと。

 光武帝の改革で都尉・常備兵が廃止されたのが大きい。左右将軍の廃止、功臣から将軍の印綬を収めて官を廃止した。都尉の都とは総指揮官の意味。郡尉は正式には郡都尉。校尉と同じく武官の称号、騎都尉・関都尉・農都尉(屯田兵の指揮)・属国都尉(辺境で帰伏した異民族を治める)。一郡一都尉とは限らない、辺境などは二ないし三で一つの郡を治めることもある。その際東部都尉・南部都尉などと呼ばれる。五原郡では東・中・西の三部に属国都尉の計四つの部があった。酒泉郡では北・東・西の三部で辺境守備軍の意味合いもかねている。将軍が率いる兵は臨時的意味合いがあるが、都尉は常備的なもの。それを反乱地域などに臨時に設置することはあっても、それ以外には全面的に復活することはなかった。

 幽・冀・并の兵騎は黎陽営士となり、また安帝の時代涼州の羌胡対策に京兆・扶風それぞれの都尉に虎牙営・雍営にまとめられた。で、前述の武帝の八校尉が五つに縮小され、高官の子弟・外戚のポストになる。宿衛の任務の関係で、とあるが内官ではないよな、これ。北軍中候がこの五営を監督、北軍五営と呼ばれたと。

 梁冀の死後の連座で校尉も顕職としてカウントされていることがわかる。百官志の列侯の位次のところで九卿につぐ待遇であることがわかる。律暦志の蔡邕が暦を論じる所で会議の座席で校尉もおそらく皇帝と同じく南面している。これは護衛のためであり非常に名誉な席次だったはず。中期以後は枢機に参ずる官職になっていた。

三節 三国時代の~

 曹操の墓掘り中郎将とか金探り校尉の話とかは有名だからいいか別に。蜀は~将軍~中郎将~校尉で同名となってかぶることが少ない。呉は多い。例えば呉の場合建武という称号が将軍・中郎将・校尉・都尉とパーフェクトですが、この場合将軍>中郎将>校尉>都尉のような序列というか指揮系統にあったんでしょうかね?他には武衛(中郎将なし)、奮武・盪寇・折衝(都尉なし)、揚武(パーフェクト)という称号がありますが、呉の場合はそれぞれそういう序列系統があったのかも?とすると、欠けが見られる称号にも記録が残ってないだけで本当はその職があってもおかしくないですね。典農中郎将&校尉&都尉のどれかは必ず三国にあったというのは時代を象徴するもので、蜀は特産品の塩府校尉があったというのが面白いですね。率善中郎将・率善校尉鮮卑とか匈奴とか衆を引き連れて降ってきた集団に付与する称号。

四章 漢の嗇夫

 農夫の意味が転じたもの。名前からわかるように高級な官ではない。賦税・司獄で実権を持ち、県政に大きく影響する存在であった。爰延伝などからもそれがわかる。下級官ではあるものの郡吏の昇進ルートの一つ。宮崎博士の言うような郷里の意向によって選定される民間サイドの官というようなものではない。

五章 漢の官吏の兼任

 守官、テストを意味する兼任。ランクが低い官にあるものが高位の官を兼ねる。上手くこなせばそのまま昇進する。行官にはあまり原則がない。行官の場合は本官がいて一時的な意味合いがあった。代行の行という意味か。侍中・給事中なども。

 漢の文書、唐の告身を見てもちゃんと適任者のサインが揃っている例の方が少ない。他官の代行が多い。

 試守、満歳為真でテストをクリアして能力を認められればその後昇格して本官となる。劇である三輔に多かった。県令以下の下級にはそのような意味合いはない。

 郡吏で県の長吏を兼ねる人物は眞官になれずとも、有能な人物。または大姓の一族。後漢書馬武伝にその守官の魅力が書かれている。

 病気・休暇・巡察などで長官が不在の時、代官が必要。丞―次官が兼ねることはない。文書にサインするとき、長官・次官の二人のサインが必要だから他から代理の行として任命されたものが必要になると。

六章 漢代における攻次による昇進

 労―つまり勤続日数・年月ですね。官僚制ですから言うまでもなくある程度の年で出世パターンが決まってるわけですね。功―戦場での功績とか、治下の郡で盗賊を退治したとか、歴代の地方官が鎮圧できなかった大族を抑えたとか。能治劇ですね。そういう労と功による昇進という要素があると。まあ当たり前の話ですけどね。「積功労」(もしくはどちらか一方)という表現がされるようですね。閥閲も同じと。大族を抑えたってどうなってるんでしょうかね?ココらへんが気になる話ですけど、いまいちどこがどうだったかがピンと来ないんですけどね。歴代大族の登場とか、大族の流れとかそういう研究ないかしら?

 稍遷―稍の字があるときはその間にいくばくかの官を歴任したことを意味する。

 増労の制、辺境の職は労が他の地域よりも割増でカウントされていたと。辺境の職が重要という発想が制度にちゃんとあるってわけですね。

七章 漢代官吏の勤務と休暇

 官吏は所属官にある舎に住み、休暇に帰宅する。当然家族は家にいる。休暇は「告」という。洗休・休沐とも言われた。忌引のような「寧」という形式の休暇もあった。基本的に生涯官として一生を終える。―とあるんですが、大体列伝に載ってるような人は最後まで官に就くことを求められるような人物なわけで、普通に太守とかでキャリアを終える人はたくさんいたと思うんですけどね。まあ建前としてはそっから先の九卿とかお呼びがかかるまでの自宅待機ということになるかもしれませんが。あれ?二千石経験者だと、元太守みたいな形で朝議に参加することを許されたんだっけか?どうだったか?そうだったら腐るほど人で溢れちゃうんで多分特別な人だけでしょうね、参列許されるのは。三ヶ月以上の病気で官職の資格を失う=罷免される。よって出仕を拒否するときは病気と称するしかなかった。

 博士や弟子は正式な官職ではないため、三年喪に服すことも許されたが一般には三六日。鄧太后が三年服喪で、安帝の親政で中止。桓帝が永興二年再び三年の喪を取り入れ延熹二年に中止。どうも一時的に公卿会議をコントロールするために服喪を取り入れようとしたっぽいですね。桓帝は自分に都合悪くなかったから、もしくは目的を達成したからかなんかで取りやめたんじゃないでしょうかね?天子に太中大夫のような官・閉職に就くことで喪に服すケースもあったと。服喪のための名誉職はどれくらい他にあるんでしょうか?

 王鳳が賜告で家に帰った馮野王をけしからん!と罷免させているケースが有ります。これで以後郡国二千石を帰宅出来なくなるわけですが、これによって彼の権力強化につながったんでしょうかね?

 後述する関での非常事態の人の管理・コントロールのはなしと繋がりますが、元帝紀に頴川での洪水被害のために吏に予告を与えていますね。自分の郷里が被害にあって大変だから、仕事を休んで郷里の復興に専念していいよという意味合いと、その災害の実態や被災地の実情を帰ってきた時に把握するためのものでしょうね。

 楊惲伝に山郎という制度があって、財を提供して休みをもらう制度があった。中郎将となった彼がその制度を止めさせたとあります。山=財を生むところだから山郎というのが面白いですね。普通に金持ちを郎として組み込むという要素も初期にはあったのかな?

 廉潔のために官舎に妻子がいないほうが良かった、末期の成帝・哀帝に妻子を連れ込んで風紀が乱れていることから逆算としてわかる当時の常識ですが、妻子がいない=廉潔という観念はどうしてなんでしょうね?いると当然一族郎党が必要になる。官舎が私物化されるということなんでしょうか?曹参なんか「客」を舎に呼んでいたという話がありますが、これは特殊なケースですかね、やはり。客が当たり前にいる時代だったんでしょうか?前漢は。むしろ前漢末期にそういうことになったという現象になにか違う側面があるんじゃないかな?と気になりますね。単に腐敗していたという話じゃない気がします。

 奥さんがいるということは当然奥さんに気を使わないといけない。その奥さんが怖いという意味じゃなくて(笑)、礼として曹丕のケースのように顔見たらそれだけでアウトな時代ですからね。それこそ官舎が後宮になってしまう。あちらこちらにプチ後宮が出来てしまうからダメ!ということだったのでしょうか?だとすると面白いんですけどね。哀帝の侫臣賢は休暇でもそばを離れないからそれを哀れんで妻の籍を宮中に移したとさえありますねぇ。官舎どころか宮中ですか。自宅→官舎→宮中というステップアップを防ぐための妻子を住まわせちゃダメ!という原則でしょうか?ココらへんの話面白そうだなぁ?漢書読むときまたなんか色々考えよう。

 また余談ですけど、薛宣伝に冬至夏至に休暇があること、その日はそれこそクリスマスとかお盆みたいに郷里の人と宴を設ける習慣があった事がわかります。そしてそこで酒宴というのは、やはり爵=杯と酒の機能が関わってくるんでしょうね。こういうイベントをとうして身分秩序が再確認・強化されていたんじゃないでしょうか?

 二千石クラスは地方の太守を除けば、京に家があるのでそこへ帰る。中央官庁の下級官吏はどうしていたか?彼らは地方へ帰っていた。地方の実情を報告させるという意味合いもあるから、魏相・趙孝のケースから間違いない―とありますが、大体五日に一日休みというペースの中で一々帰っていたらそれだけで休みが終わるというか、遠い場合帰ってこれないので、年に一回とか二回くらいでしょうね。あれ?五日毎に一回休みというのは郎だけなのかな?高官になるとまた別なのかしら?普段は同じ州とか郡出身の人たちで住むところを共有していたりしていたのでしょうかね?同郷の二千石クラスの先輩の家に厄介になるとかだったら面白いんですけど、そういう記録はのこってないので多分そういうケースはないでしょう。

五篇一章 漢代の関所とパスポート 

 傳信、パスポートのこと。関所や津(海・川にある要衝に設けられた関所)で出入りが管理される。長距離は木で短距離なら六寸の符が渡される。前科者は郡の嗇夫から許可されない。嗇夫→県の長官→発給。しかし旅行と言っても、どんな一般人が旅行をするのだろうか?高官の一族や商人、学者以外はそんなこと許されないんじゃないかなぁ?と言うかそもそもそんな余裕が無いような…。

 秦といえば関、漢だって関中を中心とするのは変わりない。例外をのぞいて関津で移動者のチェックをしていた。災害があって救済の必要性があるときは、制限が緩められる。だからこそ漢末の膨大な流民という現象になったわけですな。そして同様に反乱、群盗などの問題があると関を締めて厳しくチェックすると。食貨志などを見ても関で通行税を取っていたような記述はない。なんでかけなかったんでしょうね?魏志帝紀には関税をかけていた記述がある。基本的に漢代の関は軍事警察的なもの。後漢に関都尉は廃止されたが、函谷関のみ復活。霊帝時代に黄巾の乱に応じて、諸関都尉が復活する。西園八校尉がこの流れの中にあったりするのかしら?函谷関含めて八関都尉ですしね。もしかしたらなんか関係有るのかも?あれ、前もこんなこと書いたっけ?

 当然偽造や不正売買ということがあって、符が不正に売られるということは割とよくあった感じですね。

 ※愚考なんですが、漢の制度・方針について次のような感を抱きました。個別人身支配のような専制帝国の論理を端緒に秦がスタートして、秦はこのような関での人の移動を厳格に管理しようとした。しかし漢だとさすがにそこまでするパワーはないしデメリットが上回る。労力・コストのほうがはるかにかかるし民の反発を買うので秦のような方針を放棄した。根底には国のすべてのヒト・モノ・カネ及びその流れを国家が支配するという建前があったが、実際にはそんなに国の力を及ぼしてコントロールしようとはしなかったという感じでしょうかね。建前は国が全部支配して管理するというものですが、実際は国が関与すべき以外の事は極力関与しないという方針。反乱が起こったら管理を強めるという事例を見てもわかるように、基本非常時においてのみ限定的な形で、その国権をフルに発動するという感じじゃないでしょうか?こんなのは黄老思想無為自然のモットーともリンクする感じがするので、漢代の国家モデル・基本方針はこういう捉え方をするのがいいんじゃないかと思います。

 県城に必ず駅逓制用の、傳舎が一つある。公人がそこに宿泊する。こういうのは公的な命令を伴っていない場合でも、高官とかその子弟なら私的な利用が出来たのだろうか?そこら辺の宿に泊まる訳にはいかないでしょうしね。それとも同じ秩とか同格の人の家に招待されるとか?

 A→B(関所)←CでAの人は右半分、Cの人は左半分の符を持っていった。つまり関所には照合する符が両方あることになる。あれターミナル駅みたいな四方に繋がる所とかなかったっけか?そういう関所はやっぱ符が前後左右4つ分あるんでしょうかね?

 二章 爰書の話。個人が官に提出する文章の話。爰書として提出される文書記録・形式書類。ここでは訴訟などの際に提出する書類、秋射、病気・死亡記録、衣財物の貰賣などの受け取り記録、そしてはっきりしないが軍関係の記録が残されている。おそらく爰書という行政上必要な書類一般のことを指すのだろう。

 ちなみに秋射、毎年九月に太守・都尉など高官が列席して部下の弓のテストをする都試というものがあり、それに5割以上の成績を残すとそれに応じて休暇がもらえるとか、面白い話ですね。

 九月に年度が変わるからそれに応じて年度収支の調整を行うと。出張先で受け取った給料が二重取りじゃないかと支払停止されて、いやそれは2月の分です―とかそういう文書があるのは、やっぱりそういうトラブルが当たり前にあって、そういう時に申し立てする用の形式もしっかり整ってたということなんでしょうね。

 邊郡でも貨幣経済が行われていた(p642)とありますが、たしか日本でも交通が発達していないがゆえに物資のやりとりが難しく、かえって貨幣経済が発達したという話を聞いたことがあります。異文化・文明の貿易・通商という理由以外にも辺境であるが故に貨幣経済じゃないとかえって難しかったという性質はあるんでしょうかね?やはり。涼州の人間は馬・牛に目がないというのも動物なら運搬が楽、貨幣としての交換機能があったとかあるんじゃないでしょうか?腐るような食品、かさばる布よりも動物・貨幣が好まれるとかあったんじゃないかなぁ?まあ動物には疫病があってあれですけど。

 貸すことを「責」借りることを「負」、「収責」といって取り立てることを意味する。民間同士では介入はしないが官が関わっている場合は介入すると。辺境という特殊事情故介入するというのはどういうことなんでしょうかね?どこでも片方に官が関わっていて、それで訴えが起これば当たり前に起こる気がしますが。些細な事でも債務問題が暴動・反乱の火種にならないように苦慮、特に配慮したということでしょうか?

 口辞に代える書、「某自言」という書き出しで始まる。自証の場合「証所言」で終わる。

 補で、竇融支配時代の河西地域は在地小地主層が官につく地方色の強い政権だったことがわかるとされていますね。

書評― 漢代官吏登用制度の研究/福井 重雅

書評― 道教史の研究 大淵 忍爾

 せっかく大庭先生の本読んだので、忘れつつある、昔書いた記事を読み返そうと思ったら、矢野先生のやつとか増淵先生のやつが見当たらない…。あれは自分でメモとってブログでは書かなかったのか?確かメモ取ったやつ全文公開はしなかった気がするなぁ、まあもう一回読み直しましょうか。