てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

2014/12三国志ネタ

選挙ネタ書く前に書けていなかったネタを消化。やる気と体力はいつ戻るのか?(ºㅅº)

 後漢末は徴兵制なし=民に訓練・武器もなし、前漢時代のような大軍編成不可という話がツイッターでありまして、そこら辺からちょこっと。

 まあ前漢後漢で大軍の編成される割合が違うというのは確かにそうなんですけど、末期は地方毎に乱の頻発で、自衛組織が形成されて機能していただろうし、まるで地方の軍事組織が機能していなかったということはなかったかと思いますね。乱の平定は直接の軍事力対決に持ち込まれず、地方の有力者とのコネ・話し合いでケリが付いたという要素によるものではないかな?

 後漢の郡県は「警察権」のような形で力をもち、「軍権」は中央政府が持っていて非常時になると、中央から校尉や中郎将などが派遣されてくるという形。現場の力だけでどうにもならないと判断された場合、中央からの軍を伴って、また周辺の軍を動員して鎮圧にあたるという形。

 ココらへんの詳しい解説は、後漢の軍事組織に関する一考察(小林聡)

jairo.nii.ac.jp/0001/00021173/enという論文に詳しいと。

 んでコレを読むと、南陽、汝南、頴川の功臣系の営兵・屯兵というシステムがあって。こういう制度があったからこそ「西北の列将」という人々がここから生まれるという流れになるわけですね。光武帝軍縮路線を打ち出して、辺境で危機が起こった時は辺境任せではなく、彼らを中心に対処する、ここの人を中心に対処するような備えをしておくというシステムを作った結果なんでしょうね。

 しっかし、南陽のその人達はなんか目立たないような気が?気のせいかな?汝南・頴川が目立つからそう思うだけかしら?南陽系の人たちがその時政争に巻き込まれていなくなっちゃったとかあったかな?もしくは「西北の列将」という機能を拒むものでもあったとか?

 趙儼の寡婦集めの話。河東郡と絡めてなんか昔書いた気がするけど、どうだったか?もう記憶に無いな(政治家)。この前後の文脈で、出征しているのに、宮廷豪華にして金使うなんて!!みたいな話だから否定的なことのようにみえるんですけど、ほんとうにそうなんですかね、これ?この兵士ってどういう人間を指すのかな?一般兵なのか?それとも下士官みたいなそこそこの役職ある人間なのか?

 そもそも普通の一般兵卒だったら、役人の家とか金持ちの家とか通婚できないんじゃないかな?という気がするんですよね。そこそこのポストの中間管理職で、百人長とか五百とか?優れた下士官を確保しておくための政策なんじゃないかな?これ。軍人より文人や!っていう時代になってくし。その流れを押しとどめておくという脱兵戸抑制策なんじゃないかな?という気もしますね。

 

 袁術と河内郡で関わりがあるという話。参謀張ケイ、韓浩の騎都尉への推挙・郝萌の呂布への反逆。河東郡の特殊性って注目したことがあったけど、その隣の河内で袁術との特別な関係が見出だせるとすると色々関係してきそうで面白いですね。まあ袁術との世代がおんなじ人たち、年が近いってだけだかもしれないけど。河南尹やってる時に河内の人と関係を深めたんでしょうかねぇ?袁紹が外なら袁術は内みたいな感じで色分けできたりするのかしら?

 まだ袁紹と関係が破綻していない頃ですから司隷校尉務めるような袁紹とパイプがあって、本人も中郎将を務めるようなキャリアの人ですから、河内の人たちがコネを積極的に築こうとしたとなっても不思議じゃないかな?という気はしますね。司隷校尉が三輔を従わせるように、有事では河南尹の下に組み込まれる、すぐ上に河南尹という構造になっていたからとか考えられますかね?

 そうか、東西の流れで見ると長安から徐州まで中央の長い東西ルートを安定化させるという思考があって、華北よりも黄河周辺に意識が強かったのかもしれない。あまり辺境に目がなかったか?個人的資質の問題というよりは、そういうことを期待されて育ったキャリアということなのかもしれないが。

 河内太守張楊匈奴於夫羅、そして河内郡を根拠とし張楊と繋がりがあった黒山賊袁術に呼応して匡亭の戦い…。袁術はひたすら中原の東西ルートの安定化を志向して動いていたのかも。

 董卓後李傕政権と関係改善して、なんとか朝廷機能を、東西ルートを安定化させようとしていたということなのかな。袁術の「革命」「新王朝」はその延長上にあるとわかりやすい。そういやこの新王朝って、やっぱ董卓の革命準備と、その失敗に因る崩壊というのが非常に大きいんだろうなぁ。長安・許・寿春・鄴、多分ココらへんに当時の社会上層がいて、都にいた貴戚などは、洛陽崩壊後はどこかに一極集中はしていなかったはず。いくらか流れ込んだから新王朝作るぞ!ってことかも。

 光武帝は三公を行政長官として置いて、輔佐を受けての親裁。晩年になると光武帝は処理しきれなくなっていった。―ということを考えると三公も丞相なしで皇帝独裁を行った孫休が四年破綻したのは当然というのを見て思ったこと(多分体力的にも組織運営的にも無理が来たんでしょうね)。

 いかに独裁といえど、個人の時間と体力には限りがあるわけで、どうやって切り盛りしていたのかというのは気になりますね。光武帝とか丞相曹操とか梁商・梁冀とかどういう違いがあったのかしら?それぞれの違いというのは考えたことなかったなぁ。

 時々の為政者の権力集中とその実行の仕方(行政文書・懸案の捌き方)とかなかなかおもしろそう。特に曹操なんか首相やって、大事な改革やってる最中に、有事で戦争勃発しちゃったら、それ放り出して戦場に行かなきゃいけないって事もあっただろうし、無茶苦茶ハードスケジュールそうですなぁ。蒼天で戦地でも文書読んでるシーンあったけど、あんな感じで体力ゴリゴリ削られて行きそうですね…。そりゃ病気になりますよ。

 韓信がどうして稀代の名将だったのか。一つ思いついた。彼は無頼であり、諸国を渡り歩いて顔が広かったのではないか?実際に大軍を率いたこともない人間に用兵・統率能力があると蕭何が評価したのも、各地の兵士長を務めるような人間とコネがある。顔が広いから大軍の統率能力があるという事なのでは?