てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

シャルリに見る仏のユーモアセンス

 フランス在住の人が、差別・偏見的な嫌なことを言われた時にそれに対して抗議すると、必ず「ただのジョークなのに君にはユーモアがないね!」という反応をされるというツイを見ました。*1

 表現の自由はどんなものでも許されるという価値観には、確かに一定の説得力がある。が、表現の自由は時に「表現の暴力」になる。その自覚の有無がしっかりあったのか?そして言うまでもなくその人なら許されるというキャラの問題も含まれる。発信するその人に信頼があるかないかで、その自由は自ずと異なってくる。

 言論界で実績がある人とない人では、同じ発言をしても捉えられ方が違ってくる。その人が言うのならば、我々はその問題提起をしっかり受け止めようということになるだろう。しかしシャルリという言論媒体にその実績・信頼が果たしてあったのか?聞く限りでは甚だ疑問ですよね…。日本で言うと、噂の真相のようなものだったといいますし。そのような言論媒体に対して、ブラックユーモアの許可が与えられるとは到底思えないですよね。

 前述の事例のように、そもそも仏のユーモアセンスも問われてくるのかもしれない。「いじる」のならきっちりイジられる側をおいしくしなくてはいけない、もしくは風刺の本来の役割=重要な問題提起にならないといけない。確かに不謹慎なんだけども、思わずクスっとしてしまう。いじられた側も思わず苦笑いしてしまうようなセンスあるものだったか?果たしてそのような問題提起や、ユーモア性があったのか?単なる「いじり」であり、それが「イジメ」に転化してしまうことに無自覚ではなかったか?

 「いじり」が「イジメ」になる構図で気をつけないといけないのは、多数者が少数者を「いじる」時。また、強者が弱者を「いじる」時ですよね。ユーモア・風刺というのは弱者が強者に対して許される特権であり、優れた思想家などに許された特権であるわけです。今回の一件はどう見てもそうではないので、アウトだと思うんですけどね。

 仏人のユーモアのセンスというのは、大阪人のいじり倒す感覚に近いのかな?とも思いました。「何やお前ブッサイクなかっこして~」とか不細工とかちび・デブ・ハゲみたいな外見上の欠陥でも平気でいじりあう。そういうところが許容されるセンスなのかな?とも一瞬思いました。つまりムハンマドについていじられたくなくても、抗議はおなじユーモアでやり返して当たり前みたいなセンスなのかもしれません。


 そう、あとも一つ、「?」となったのは、シャルリという問題の中心となった言論誌が再び似たような風刺画を出したところですよね。あのセンスはちょっと理解ができないですよね…。あれは別の雑誌や新聞が、風刺が許されるんだと肯定してやるためにメッセージとしてやるべきであって、問題を引き起こした当事者がそれをやるのはかなりルール違反だと思いますが…。

 言論のルールでアウトかも?と世間に問われている時に、自らまた際どいラインに踏み込んでいくというのは、根本的にユーモアを勘違いしとりゃせんか?(安西先生)という気がしますねぇ。まあ、仏の感じを見ると、そもそもユーモア・風刺は何でも許されるということで、ガンガンアクセル踏みこんでいくという価値観なのかもしれませんが…。

 日本のISISに対するクソコラがシャルリーと評価されたという話を聞きましたが、ユーモアと言っても、これはかなり低い類のユーモア。これが欧で評価されているのだとしたら、やはりユーモアというセンスがあちらさんはちょっとおかしいのでしょうね。少なくともツイッターであった、クソコラグランプリというものは、表立って褒めるたぐいではないでしょうからね。

*1:今更思ったことですが、仏人が日本人、アジア人や東洋人にいじりのようなことをする。それがユーモアだという価値観が向こうにあるとして、あちらさんの人は同じようにフランスの嫌なところをいじられた時、ユーモアとして受け止められるんでしょうかね?暇さえあれば働かず暴動しているとか、パリは汚物うんこまみれだとか、そういういじりをされても眉をひそめない。いじりあいが割と普通の文化なのでしょうか?ちょうど小中学生男子が、相手の嫌がることを言い合っていじり合うのが当たり前のようなそういうラップバトルみたいなことをやるお国柄ということなんですかね?