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てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

ルトワックを読んで戦略学(?)への疑問

本・読書―批評・批判・感想・レヴュー

自滅する中国/芙蓉書房出版

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 ルトワックの『自滅する中国』についてテキトーな思いつきを少々。まず前提として戦略学や地政学についての疑問、疑問というか軍事学の一ジャンルであること。軍事学であるが故に、国際政治学への理解がどこまであるのか?ということがどうしても気になってしまうこと。

 冷戦以前までは軍事・政治の要求が高かった。依然、軍事が重要な要素であることには変わりがないが、冷戦以後大国間の戦争というのが懸案事項として、優先事項として下がったという現実がある。経済や文化要素、多国籍企業や人権などといった様々な視点が重視されるようになった。

 そのような時代の変化がある以上、軍事学よりもまず外交の領域だったり、国際政治の領域で考えなくてはならない。新しい時代・構造の変化を頭に入れた上で論理を再構築しなくてはならない。ところがその変化の重要性の認識がちゃんとあるのか?とどうしても心配になってしまう。

 軍事学というより、地政学・戦略学(論)というのは前提として戦争・軍事を元に構築されている。その発想・枠組みを克服する努力はどうなのだろうか?熱心に行われているといいのだが…。地政学という軍事視点から必然的に、国際政治理論でもリアリズム系統がよく引用されるのだけども、これにも懸念がある。

 優れた国際政治学者というのはリアリズム・リベラリズム、またはコンストラクティビズムなど理論体系よりも、それぞれの理論を応用しながら多面的に分析を積み重ねた上で優れた分析をするーというパターンが多い。パターンというか学問の王道でせうね。我こそは―理論の大家!というのはさほど意味があるとは個人的に思えない(無論、その理論がもたらしてくれる有益性はあるけれども)。

 そういうことを考えると、どうも視点が偏りすぎている懸念がある。視点というよりも、戦略学・地政学というものへの体系の疑問。適宜リアリズムを持ち出すことによってカバーすることだけで済ませてはいないだろうか?そこを注意しておく必要があると感じた。

 孫子兵法に学ぶ経営戦略!などが流行ったように、現代組織・官僚制というのは軍事組織に始まるという要素もあるので、軍隊の戦略学がそのまま経営のそれにある程度応用できるという構造がある。しかし戦略学というのは今や軍事以外の領域から構築することも可能であろう。

 地政学ではなく、地経学でもなんでもいいが、軍事に端を発した戦略学(論)を、違った視点・領域から、現代的に再編し直すべきではないのか?ということの必要性を個人的には感じるのである。無論それが行われているかもしれないのだけど、とりあえずこの本を読んだだけではそのような変化に適応した上で新しい体型に編成し直すことへの重要性の認識があるとは思えなかった。

 どうも国防に携わる人が、軍事学と国際政治学のリアリズムをプラグマティズム的に応用して分析しているという気がしますね。国防に携わる人が分析する、理解するという上ではいいかもしれませんけど、政治の舞台で外交の枠から考えるとした時には不十分であるという気がしますね。

 余談:軍事戦略といえば当然、国家を基に構築される。軍事能力・周辺情勢・国際秩序を元に、外交戦略も構築されるのが基本だった。現代では企業、個人、NGOなどの組織に、なにより国際組織も独自の戦略を必要とするだろう。国連然り、EU然り。

 諸国家の連合体であるEUの戦略は自ずと違った力学、論理が働く。内部に諸国家の戦略も存在するとなれば尚更。戦略学というものが有益になるとすれば、そのような組織の理論化ではなかろうか?ロシアのユーラシア連邦という新戦略も存在するので、その対比が面白いかもしれない。

 また諸国家の連合ではないのに、事実上そのような政治機能を備える米の政治システムを比較研究することもまた面白いと思う。思いつきだが、米の巨大な国際的な政治機構、地域的枠組みなどを含めたそれというのを「帝国」として捉えても面白い。国家の枠を超えて巨大な力を発揮できるのだから。

 EUの場合は、対等な国家、そしてそれぞれの国家が意見・不満を表明して調整する公的な場が存在し、ルール・システム化されている。しかし米の「帝国」の場合、それが存在しない。公的な制度になっていない。あるとしても異議申立ての機能程度だろう。

 benign masterや benign unipolarityなどの言葉で代表される米の単極支配だが、友好国や同盟関係との関係を「公式な制度化」に昇華しない限り、お互いの合意に基づかない限り「帝国」で在り続けるだろう。この場合、友好・同盟国が米と交渉できないことが「帝国」の定義になるだろう。

 「米(国家)」+「国際政治枠組み&国際機構」=「帝国」と捉えて考えるのも面白いし、EUや米同盟圏のような事実上の国際秩序主催者の同盟内の法の不在、非システム化を「帝国」としてもおもしろい。この場合、「帝国」は「帝国圏内」において「平等な主権国家であることを否定する」というメカニズムを持つのが面白いところでしょうか。近代国家の主権ルールの負の側面を乗り越えようと捉えるべきか、それとも近代国家の主権というルールの限界と捉えるべきか、両義性を見出だせるのが更に面白いところですね。

 理想論で言うと、米は常に友好を求める国とは対等な交渉を心がけるべきということになりますが、前近代国家・発展途上国においてはそれが出来ないことが当然ありうるということも留意しておく必要性がありますね。外交の目的を達成するために、そのバランスをとらなくてはならないことにも注意ですね。

 うん、現行の国際連合システムが機能不全状態であること、集団安全保障体制が主流となっていることを考えると、国際機構論・地域機構論、国際組織の地域機構化というのが国際秩序の安定化のキー、学問の中心になりそうですかね。

 ―内容に入らないで一回終わります。もう一本で終われば、それでおしまい。文量が二回で終わるか、どうか微妙ならこっちにもうちょっと書いてやり直しで。

アメリカンドリームの終焉―世界経済戦争の新戦略/飛鳥新社

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こんな本を書かれていたようですが、やはり「日米経済戦争!」みたいな価値観を持っていたことが、日本に対する政治家評価のおかしさの元なのでしょうかね?

※書くところがなさそうなので、ここでついでに書いておきます。ウォルツは『国際政治の理論』で従来の理論を「還元主義」と批判し、システムレベルの理論の構築を目指し、構造的現実主義を提唱しました。

 還元主義と、システムとして捉える必要性という点についてはウォルツの言うとおりであって、彼が果たした理論への貢献ってのは非常に大きいと思うんですよね。ただし、じゃあそこから先の実証・検証は?と言われたら、それがないんですよね。彼の著作。

 まあ、要素還元主義の批判としてホーリズムがあるわけですが、国際政治の舞台は何もはじめからホーリズムで分析しうるような総和があるわけではない。どんどんどんどん総和自体が変わっていっていますからね。あるべき課題というのも捉え方次第ですし、つまり安保が課題と捉えればそれに応じた論理を構築するだろうし、逆に人権とか経済とか別のイシューが優先されればそれに応じた理論が構築されるわけで。

 システム理論として分析するのに、そこに「現実主義」の視座をどうして挟みこむ必要性があったのでしょうか?個人・組織・国際環境の3つのレベルを軸に分析するのに、リアリズムを入れる必要性は特にないでしょう。なんで余計なことをしたのでしょうかね?

 時代背景が冷戦時代だったというのがあったからでしょうかね?特にネオという接頭語をつける必要性がない気がしますね。ネオリアもネオリベも。ン十年、百年単位後には普通にリアリズム理論、リベラリズム理論として一緒くたにされる感じがしますね。

 まあどうして書いたのかといえば、このルトワック然り、そういうリアリズム的要素が国防的見地から、あちらさんでは重視される風潮があるのかな?という繋がりを見出だせるかもと思ったので一応メモ。