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てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

今月の三国志ネタ 徐州虐殺の話

三国志的な何か

ツイートで色々徐州虐殺ネタがつぶやかれたので思いついたことをまとめて載せておきます。

 張邈と曹操の友情を無条件に前提として考えていたけども、袁紹アニキのもとでの同輩でしかなかったのかも説を思いつく。袁紹の張邈殺せ!命令を断ったのは張邈との友情というより、張邈亡き後袁紹に一人で対抗できないからじゃないかな?張邈&曹操二人いればまだ袁紹に拒否権を行使できたとかかも?

 張邈との関係悪化に間違いなく青州兵・黄巾の帰順があったと思うんですよね。兗州からして、そんな集団受け入れられないと言うのは自然の理。徐州虐殺があんまりクローズアップされないのも、当時の流民状況・無秩序を考えるとごく当たり前な話という気がするんですよね。

 徐州は北方と西方から流れ込んでくる流民がかなり多かった気がするんですよね。南下ルートをたどる前に一旦落ち着くところというか。多分南下するのに気候の違いがあるんでワンステップ置いた人も多いんじゃないかしら?兗州とか豫州とかにも当然流れただろうけど。

 流民が全土にあふれていた、一億(?)総流民時代、移る土地土地でトラブルは発生していたでしょうし。その時の恨み・辛みなどが青州兵と徐州の人間にあってもおかしくないでしょう。あとは食糧が無い時代、配給制で管理しなくちゃいけない時に隠し持っていて、それを強制徴収したことがきっかけで衝突とかですかね。

 そういう虐殺を防げないということは、民の上にある豪族がそもそもどういう状態だったのかという問題にもなってきますしね。著姓とか大姓と言われる一族は何をやってたんでしょうね?そういうのが機能しない土地だったということか、むしろ邪魔な流民は知らないよということだったのか?

 黄巾降伏後、黄巾を統率できませんでしたというのもありうるんでしょうけど、あんだけ大量の流民を受け入れちゃうと、じゃあウチもウチもと押しかけてきちゃうし、土地と食料確保の緊急性が高かったということじゃないでしょうかね?あんま汚点にならないと思うんですけどねー。

 ですから、この件で袁紹曹操に反発などはないと思います。それと歩兵オンリーの大軍を組み入れて初めて運用すること。また作戦の実行しやすさなどを考えて、徐州を攻めるというのは曹操軍としては論ずるまでもない当然の選択肢だったということもあるのかもしれませんね。

 徐州虐殺時、彭城はその被害に合わなかった。そしてその後昌豨が彭城国王を攻めて放逐する。これってやっぱり曹操と密約をしたってことですかね?んでそれについて起こった勢力が裏切り者を弾圧した流れなんでしょうか?興味深いですね。

 陶謙曹操に攻められた頃朝廷と関係を深め袁術派かどうなのか?という形になっている。陶謙が194年末に死に、袁術は徐州を攻めようとして兵糧の件で陸康と揉めて、194年の秋頃には朝廷と手を切っていると。

 この頃、袁術や朝廷との関係など複雑に錯綜しているのでその流れを追うのは難しいかも?朝廷との関係ってこの時名目だけで、結局あってないようなもんだから。より理解が難しい。まあ、一応後でまずいことにならないようにという保険で、あとは勝てば官軍のリアリズムの世界っぽいし。曹操献帝「拉致」・庇護もリアリズム的に当然の選択としか思えないですからね。他に取られたらまずいことになるので。

 丁度テロの話題が盛んなんですが、対テロで有効な方法として相手サイドを根絶やしにする、手を出してきたら一味を容赦なくぶっ殺す!というのがあります。胡母班の仇討ちも徐州虐殺のその方針の延長線上にあるのでしょうか

 ココらへんの食料確保の流れは、袁術と陸康のトラブルもあって、徐州虐殺というのはやはり食糧問題の延長上じゃないかと思うわけであります。陸康気になって、経歴を見てみたら、臧旻の故吏(茂才)で霊帝増税に反対して侍御史の劉岱に助けられてるのか。んで孫策に二年くらい囲まれて宗族半壊と。

 臧旻・劉岱の関係とか面白そうですな。異国としての涼州とか書いたことありますけど、揚州もやっぱりそうで、一族同志でも殺伐したものがあったり、かつて殺しあった豪族とかがまた共闘するのも当然なんですかねぇ、ヤクザの抗争と手打ちみたいなのをバージョンアップした感じ。

 孫家三代の熱い継承、受け継がれる意志!的な少年ジャンピース魂をつい想定しますが、普通に「孫策VS孫権」という図式があってもおかしくないんですよね。孫家と陸家の和解というのが孫策ではなく、孫権が窓口になっているのがポイントかも。強硬派孫策と穏健派孫権という政治的棲み分けでもあるかも。

 華歆伝を読むと、華歆は馬日磾の太傅掾、豫章太守。徐州牧陶謙の治中王朗と別駕趙昱の193年会稽太守と広陵太守の間に、馬日磾の掾を経ていたのでは?陶謙が馬日磾に帰順したラインがありうるのか?というのを見ました。面白いですね。袁術馬日磾―陶謙というラインですか。

 立伝までされて他人の伝に一つも出てこないThe黒幕臧洪に泰山太守応劭(曹嵩暗殺に一枚噛んだ?)に朱儁連合…。なんというかプレイヤーが多すぎて混乱しまくったという感じですかね。いわゆる「世代」の問題なのかなぁ?同年代の同志で動く、忖度しあう、でも意思疎通・指揮系統の統制がないからグッチャグチャになるという感じかなぁ?

 曹操、初期の募兵で途中で兵士が暴動起こして失敗しているんですよね。丹陽兵だったかな?ですからその教訓も働いてるのかも?本当に数十万の人間が虐殺されたら、事後処理が相当大変で、それだけで行政麻痺しちゃいますよね。陶謙の病死もその過酷な戦後処理による疲労、事実上の敗戦ショックか?

 そうか曹操袁紹への「裏切り」というのは、配下の軍人が評価されない不満、軍閥としての当然の反応以外にも、曹操の功績はあとから「独断専行」と過小評価が可能になるという性質もあるのか。朝廷の許可もない故に後から大義の欠如を叩かれるリスクが大だったんですなぁ。

 袁紹の強力なバックアップがあったわけでもなし、この先生きのこるための正当防衛的反応で行動して、一大軍閥政権を築き上げたんですもんね、曹操は。そりゃ「俺の政権は後退のネジを外してあるんだよ…」とどこまでも戦い続けざるをえないですね。軍閥は一度政権を構築して走り始めたら止まれない、軍事機構のサガですね。

 そんな曹操を見れば、献帝も「殺される!」と曹操を恐れて対処して当然ですね。献帝もしばらくは「東の董卓」として曹操に対応していたんでしょうなぁ。

 ―そんなまあ思いつきをメモ。