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てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

リアリズムの疑問とか帝国論とか

国際政治学とかそこら辺

 ウォルツのシステム論見たあとで、思いついたこと。リアリズムについての限界とかなんとか。

 ネオネオ論争とかやっぱり国際政治学、関係論として有意義とは思えない。自説に拘ってるだけで視野が狭すぎる気がするなぁ。なんでネオネオ論争になるのかがそもそもわからない。お互いの理論を援用しあって、現実分析と未来予想をすればいいだけだと思うのだがなぁ…。

 ウォルツだとかウェントだとかシュナイダーだとかミアシャイマーでも、誰でもいいんですけど、リアリストには胡散臭さを感じるんですよね。不確実性を伴う「人間」というものを無視しすぎている、「心理」要素がぽっかり抜けてしまっているでしょう。そこら辺がついてけないところですね

 泥臭い人間という存在を机上で理解しようとすれば無理が生じる。人間は論理だけでは生きていない。感情・心理の要素がある。そこら辺がシステム論の欠点丸出しというか…。還元主義批判は大いに賛同できるのですけど、また違う「還元主義」になってる気がしますなぁ。

 個人的に「心理」の要素に注目しているだけに、そこを考慮に入れていない学説は肌が合わないというだけかもしれませんが。一度、それを排除してシステム論として分析する、その上でさらに心理面を加えればいいだけなのにそれを怠っているのは?となりますね。

 例えば、核拡散による国際政治の安定化理論なんかそのものですよね。論理的には安定するでしょうが、その論理性が永久不変に守られるかといえばそうではないわけですからね。人間や国家組織レベルでも持つことがある「不合理要素」を無視しすぎているので、自ずと限界がある学派だと思います

 リアリズムの欠陥・限界というものを思いつきでつぶやきましたけど、昔は軍事・安保=国際政治そのものと言っていいくらい、国際政治に占める範疇が大きかった。今はその他の要素が増えてきて相対的にその重要性が落ちてきた。逆に範疇が狭くなったからこそ、学問化・専門化出来るという余地もあるのかな?

 むしろ、その限界を認識した上で、リアリズム学派が狭い範囲や細かいテーマを掘り下げることで、優れた業績をあげられるんじゃないかな?社会学とか経済学とかそういった学際的なことはまた他の人に任せるべきか。学際的な視点を持って取り組むのがベストなんでしょうけども。

 そうそう、アメリカの学者はアメリカの負の側面を捉えることにあまり乗り気ではない。自己浄化能力が学問分野でも働いていない傾向がありますね。国際政治学の本場で、米の学者が自分たちの問題点を熱心に指摘しないのならば、それは自ずと限界が出てきてしまうでしょうね。

 もしリアリズム学派も、徹底して米の問題を取り上げて、米国内の問題=外交・国際政治での問題として取り上げて、徹底的な米社会の構造改革を訴えるような視点があれば、また大きく違った気がしますね。ウォルツがシステム理論で国内要因を脇に置きながらも、もしこれを取り上げていたら…?

 リアリズム学派を例に取り上げましたけど、これ特にリアリズム学派に限った問題ではないですよね。おそらく文化人類学を除けば、米欧の「侵略」の要素をことさら注目して、我々が悪かった!なんて言わない。自分たちの負の側面をことさら強調した研究をしたりはしないでしょう。

 まあ、やっぱ現国際政治学は、その秩序主催者の米に注目せざるをえないわけで。そういう意味でも「帝国」論ってのはやっぱ今後も主流になると思うわけですよ。米の国際政治学者は、あまりやらないでしょうけどね(笑)。帝国=マイナスイメージが強すぎるので。

 現代アメリカ論で山下さんが帝国云々書いてあんまり本質踏み込んだ「帝国論」って感じしないなぁ~と思って、ついノリで帝国論をそのまま論じてみます。①歴史学的な、前近代的な王朝という意味での帝国。②レーニン主義的な収奪者という意味での帝国。③ネグリ・ハートがいう意味でのグローバル化の帰結として帝国。④米単極構造の政治上の特異性に注目しての帝国―まあ、大体こんな所に要約できるんでしょうが、最後のが一番ポイントだと思うんですけどね。

 「覇権なき世界システム」に代表されるように、そもそもどこかの国が国際秩序の主催者となるような構造、「覇権システム」は歪な結果をもたらすので、乗り越えられるべき対象になる。しかし覇権=繁栄として、そのようなポスト覇権、脱帝国に向かわない傾向がありますよね~米内部に。

 「帝国」は負のイメージで語られる言葉ではないのですが、米内部の格差やら人種差別を見ると、その「帝国」の負のイメージが喚起されてしまうという事情もまた、米国内で「帝国」論が盛り上がらない一因なのかな?と思ったりもするんですが、どうなんでしょうか?

 そんなことを考えていた時、わかりやすいモデルとして「阿修羅モデル」というのを思いついた。世界に秩序と繁栄をもたらし尊敬される「名君」としての顔、破壊と貧困をもたらし軽蔑される「暴君」としての顔。そしてそのどちらでもない非干渉の中立の顔。アメリカは阿修羅のようにころころ変わる、その二面性を抑えないといけない的な説明はわりかしいいのではないか?とかふと思いつきました。

 誰だか忘れたけど(カプラン?)、米欧は火星と金星に住んでる違いがある。アポロンとビーナスだっけ?戦闘の神と美の神の文化的違いがあるとか何とかいう喩えもあったし、阿修羅に例えて米は三面、3つの位相がある!という喩えは面白いんじゃないかなと思った。

 ※かなり時間開いてから、ふと思いついたのですけど、「ネオ」という呼称でそれ以前のリアリズムと決別、分別する必要性があるとしたら、システム論的な視線というよりも、それ以前の偏見との決裂との意味合いがひょっとしてあるのかな?とか思いました。ウェーバーやデュルケムが一節まで行かなくとも、必ず人種的先天性について論じる際に触れているように、人種偏見というのが根強くありましたから、そういうものに対しても決別をする上で「ネオ」という区切りが必要だったとかあるんでしょうかね?