てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

新釈漢文大系〈3〉小学

新釈漢文大系〈3〉小学/明治書院

※インポートの際、カテゴリミスでインポートされなかったものの手動転載です。
 そういやメモとって書いてなかったので、メモなんで意味あるかどうかと言われればない気がしますが。なんか、朱子がピックアップした当時の教本のようなものだったのであんまり面白くない。最初のところを拾って、後はほぼ目を通して終えました。

 p3、明倫、自己の中にある「親」の完成。孝とは自己の完成であると。道徳と実践、あらゆるものの同一視がある。前近代的な日常倫理と政治倫理の同一は言うまでもなく、個人人格の完成が自然界・物理法則にまで作用するという考えですね。本からなる末の発想。あらゆるものに「本」があり、「末」に伝播するという思想の基本モデルがある。中華思想もこれですね。中心に聖なるものがあって、その聖なるもののパワーによって文明が保たれるという論理ですから。*1

 古三代、夏以来行われていたとあるが本当に行われていたと考えていいのか?「愛親敬長~」の所に、今と昔は異なるからできないとあるが、やっぱりやってなかった?宋以後に定着した話と考えていいのか?物凄い厳しいスケジュールになるが、いくらなんでもそこまで徹底して親に仕えているものなのだろうか?まあ、士大夫ならば間違いなく何らかの教育トレーニングを受けていたのは間違いないだろうが。

 入孝出恭。詩・書・歌・舞というトレーニングを受ける。出産してから三月は夫と離れる、近づかない。出産=穢という発想か。子供には三人女性がついて面倒を見るシステム。男は唯、女は兪というものを習い・覚える。男女で発音が違う。十歳で後宮を出る、十三歳勺、十五歳で象、二十歳で大夏という舞を習う。どういう種類の舞なのか?まあ、祭礼で年代別に子供の成長発表的な感じで舞われることになっているのだろうけど。

 三十歳で娶る、五十歳で士大夫。十五歳で射・御を学ぶが、知らないとマズイという他に儀礼に用いられる基礎だったり、マナーとして知っておかないと立ち居振る舞いが出来ないという要素が大きいのだろう。

 姆―女性に色々なことを教える師がいる。子供でも祭祀に参加する、役割がある。家・党・州(遂)、25・500・2500(12500)家毎に教育機関があった。塾・庠・序と言った。都には学があった。学校の「校」は校尉的なことか?なんか昔違った意味があったというのを見た気がするがどうだったか?孟子では夏・殷・周時代の呼び名の違いとあるがどうなんだろ?五家=比、五比=閭、四閭=族、五族=党、五党=州、五州=郷。郷に大夫が置かれると。
 賓興―郷飲酒礼の際に賓客として優遇するシステム、善意を郷党で管理し報酬するシステム。中央に報告する。これは郷での客というだけでなく、王の客ということでもあるのか?

 朝に鶏がなく前に起きて父母に仕える、これは介護か?「内即」―婦・子に所有権なし。実家の親兄弟に与えることのみ可能。ただし父母の許可を得てから出ないとダメ。士大夫にあったら顔を見て、会話中は胸元を見る。別れるときにまた顔を見る・目線を合わせるという決まり。父は行動に対応するために足元を見るということになっている。

 内即に、「父母有婢子若庶子、庶孫甚愛之,雖父母沒,沒身敬之不衰」というのがある。つまりその家の子供として扱うかどうかは父母の認定によって決まると。跡を継いだ嫡男がそれを取り消すことは出来ないということがわかりますね。妻・妾も同じと。自分の都合よりも父母の都合が優先される。子の妻の認定権。一族のパワーバランスは父母にあり。母に認定権があるのならば、一族の長の母が死んでいれば、正妻の実家の家の発言権も大きくなるということがありうる構造なのか?まあ、そこら辺は時代によるか。
 曽子だと父母が愛した犬馬でさえ同じように愛さなくてはならないとあって、人は言うまでもないとある。こういう構造になっていればコネは家長の死後も維持・継続されることになる。
 父と違う意見を取ったというパフォーマンスも可能。子は孝故に、父に反対したがしぶしぶ従わざるを得なかったという救済措置が用意されている。

 大夫は三つ廟を持てる。三廟ルールですね。士は一つ=専用の部屋があるということか?庶民はない。正堂において祀る(庶民の場合は寝室と正堂が一緒か?)一般民において初めて家で祀りが出来るということなのかも?身分が上昇すればするほどグレードの高い祀りが行えると。当然庶民はそれを羨むと。当時の祀りたいという一般人の感覚を説明すると、今で言うと別荘や高級車を持っている感覚なのだろうか?特別な儀礼を執り行うという憧れに注目したいですね。

 孟子の言う五つの不孝は、侠と商か?戦国時代は奴隷も流民もいる。次男・三男も家より自分が第一だろうし。

 袁術の孝の話は、テーブルマナーで君の前では果物の種を出さずに懐にしまうというものだったからありえた話だと。婚礼で行われる幣・鹿の皮は山林の重要性か。戦乱でこういったものの値段が高騰して困ったりしなかったのか?そういう話が後世に聞こえてないということはそういうことにはならないか。
 妾を買うときに、姓がわからないときには、卜が必要になる。不吉となった場合はダメ。曽国藩の時には、官婢婆から買ったという記録がある。娼婦のギルドのようなものが当然あったはず、娼館のような。やっぱり侠によって管理されていたか?
 やはり婚姻の儀礼まで姆は着いて行く。家廟の前で儀式をする。他家から家に入る際には、廟が第一のゲートになると。婚姻ということは世代交代を進めるということでもあるので、あまり喜ばない。音楽3日ストップ。「賀」という字を使わない。妻が寝るところが正寝で、その隣に妾が寝るから側室と。一晩ずっといていいのは正妻だけと。
 内外の別、男女は親しくしない。親しくするのは祭礼だけ。器物で遣り取りをする。井戸・浴室も別と。男は右側通行で女は左側通行。寡婦の子とは交わらず。

 不𠮟狗=座敷犬は普通のことなのか。投壺というゲーム、罰ゲームとしての酒と杯。
 天子・王は五門、順に三門・一門となる。四方に門があり、正面の門は二つ。
 宦成、仕官の目的が達成されたという言葉、宦官も同じ意味か?

 加冠・元服の儀式で賓が字をつける。成人=別存在。孤子は30で親を亡くすという意味。だから「幼くして孤」という表現になるということか。30までということは、成人しても親がいないということはキツイということか。父の死は特別扱いされる、特別な喪服、喪中の佩玉を付けないとかひと目でわかると。
 ライ病=離婚。司馬温公に冠礼衰えるとある。きっちりとした成人・加冠は士大夫でも稀になったのか?喪=修行・断食に近い。三年はまともな生活が出来ない。体力=カネがないとできない。バンジージャンプのような通過儀礼か。司馬懿とか80近い親なら、喪を行うとき子が50を超えているということもありうる。喪をやったら死ぬ可能性もある。師の死後が、この4年後というのは関係があるのか?阮籍VS何曾=郭嘉VS陳羣
 どうでもいいですが袁侃と袁術が間違ってますね。袁術と書いてありますが、袁侃の誤りですね。一瞬袁術がそんなことをしたのか!?とびっくりしました(^ ^;)。

 巫祝・尼媼・牙婆・女郎・異色人など農工商以外の人と交わるな。
 顔氏家訓に江東の女は交遊なし、斉は活発とある。漢時代の燕趙の婦人も活発。鄴での劉氏はこれか?
 聖人の道は耳に入りて心に存し―経典と書いてあるとおりに、「経」聞くものという意味合いがある。音声言語、音に霊が宿るという例の発想ですね。

 文叔の妻、夏侯文寧の女、令女。髪・耳・鼻を自ら切ることで再婚を拒否するエピソードなわけだが、髪はともかく耳まで斬った時点で諦めない父の異常さ。嫁という道具という意味合いと、恭順の姿勢を示さないとマズイということが伺える。没落による離縁は常識なのか?夫が死んだ時のみ限定の話か?

*1:体と用、本と末という概念は別に朱熹が独創的に生み出した価値観というわけではなく、元から存在するもの。伝統的な思想・価値観。気になってググったら、朱熹じゃなく王陽明の方がマキャベリと比較するにふさわしいですね。マキャベリが誕生した頃に中国ではどんな思想が主流だったか?陽明学なんかを見るとなかなかいい線行ってるように思えますが、とうとうそこには、日常倫理と政治倫理の別という発想・主張はでてこなかった。これが中国の命運を分けたと言えるわけですが、思想家の貧困が問題というわけではなく、風土的にイタリアのような混乱・混迷、ヨーロッパのような多様性がそこに存在していなかったというだけでしょうね。中国のように一つの統一文明が当たり前という国・価値観では政治倫理と日常倫理が別のもの、法則として作用するという発想は生まれえないでしょうからね。朱熹朱子学ですら、そのポイントというのは体系の統一でしたからね。Wikiにいい一文があったのでまんまパクると<朱子学政治学存在論(理・気説)、注釈学(『四書集注』等)、倫理学(「性即理」説)、方法論(「居敬窮理」説)などを全て包括する総合的な哲学大系であって、朱子の偉大さは、その体系内において極めて整合性の取れた論理を展開した点にある。しかし陽明学はそのうちの倫理学及び方法論的側面の革新であったに過ぎない。>―とあるように、世界の成り立ちやら経書の解釈の仕方、そういうものと日常倫理がいかに対応・適応しているか、そしてどうやって実践すればいいのかという一貫性を生み出すことが当時の学問のテーマであったわけで。そういう価値観・社会情勢からは、政治倫理と日常倫理には全く異なる法則が作動しているという発想は出てこないですよね。陽明学経書・読書の絶対を否定したり、誰でも聖人になれるとしたり、人欲を肯定したり結構いいところ言ってるんですけどね。マキャベリズムに近しいところにはとうとう到達できなかったっぽいですよね。歴史もさながらですけど、政治や経済についての研究・学問がなされなかったところが一番大きなポイントでしょうかねぇ。外交は言わずもがなですね。そもそも「外交」という発想がありませんでしたからね。