てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

選挙カーに見える「田舎の論理」・「都市の論理」

 選挙で気づいたことの話、地方統一選、選挙カーという騒音―の続きです。選挙カーというものが高齢者が評価する傾向があるという話を聞いて思ったことです。

 まあ、そんなに多くの高齢者、みんながみんな、選挙カーというものを評価するとは思いませんが、がんばってるなぁと評価する人が一定数いるとのこと。それはやはり、そういう世代で、小さい頃から慣れ親しんでいるからでしょうね。評価するしないというか、まあそういうものだと思い込んでいること、違和感を感じなくなっているんでしょう。

 あとは念力世代といいますか、根性主義世代といいますか、「汗水たらしている」ということが成果に結びつくかどうか、それに合理的な意味はあるのかなどと考えない傾向があるのでしょうか?声が大きいとか頑張ってるとか、そういう尺度で測るものだと思い込んでいるのかもしれません。

 そのような要素がなければ、やはり「田舎の力学」というか「田舎の論理」が作動しているような気がします。日本の政治は田舎の政治と都会の政治で明確に分かれていて、田舎の政治の要素が強い時代がありました。

 今の自民党を見てわかるように、建設業と農民が大事な基盤でしたから、そこら辺を取り込んでしまえば大部分の人間を包括できた。制限・非自由選挙制度においてあとは、候補者が練り歩くだけ。業界団体の人間は取り込みやすいというか、会合をひらいてそこで交渉すれば大方済む。戸別訪問が禁止されればあとはもうすることが殆ど無い状態ですからね。

 選挙というのは競争なんですけど、その「競争原理」が明確に働いてこなかったのも日本的というか「田舎の論理」ですよね。一旦競争のスイッチが入ると村内部でずーっと根に持って闘争しあうから、初めから闘争を好まない、避けて済ませるというのは。

 日本の選挙というのは、「田舎の論理」からスタートしている。「都市の論理」そこに住む「市民の論理」というものが排除されているから、こういうことになるのではないでしょうかね。時代の変化にともなって必然的に「市民・都市の論理」を組み込んだ選挙にしないといけないのに、それが不在のママ今に至るという構造だからこうなるのでしょう。

 まあ都会とまでは言わなくとも農業を中心としない労働者や自営業者が殆どになった現代社会でそういった「中小階層の市民」が主体となって構成されている県や市が殆どだと思います(もしくは彼らが多数を占める)。そういった変化に合わせた選挙制度、選挙の論理が明確に構築されていないことこそが、現状の選挙制度の機能不全の本質なのではないでしょうか?

 選挙とはなにか?近代化、産業労働化が進んだあとの、選挙とはどう変化するべきなのか?と言った基本を無視した結果こそが今の選挙・政治の機能停止の本質だと思いますね。

 意味不明に「お願い」を騒ぎ立てているだけのそれをよしとするのはやはり田舎の論理のそれでしょうね。政治とは無縁が基本というセンスと、農村の寄り合いの意見をトップが政治家と交渉してそれで良しとするモノ。広い田舎でたまに政治家の先生が自分の足で訪ねてくるだけでも一苦労、満足なんでしょうね。つまり昔の選挙カーの意味合いというのは「巡幸」だったのでしょうね。

 それがピンと来ない人にもっとわかりやすく説明すると、「直訴が可能な大名行列」ですね。もし訴えたいことがあれば、話しかけてて聞いていい。それでお殿様に話しかけても処分はない!なんて素晴らしいことなんだ!みたいなセンスなんじゃないかな?とふと思いました。もちろんそんなのは今の子には通じないセンスですが。

 まあ、いみじくも抜本的な政治制度改革を訴える政党ならば、腐朽制度を打破することを国民に訴え、真の政治改革を実行するのならば、「田舎の論理」ではない「都会(都市)の論理」に基づく新しい選挙制度改革を成し遂げた上で、自民党や官僚制との対決に挑むべきでしょう。それをせずにやれば多分負けるでしょうね。小沢一郎や現民主党のようになるのは言うまでもないことだと思いますね。