てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

憲法記念日につぶやいた憲法の話

憲法記念日憲法関係でつぶやいたもののまとめです。

 現在の憲法学は「押し付け」ですが、それが何か問題でも?みたいなのが主流になってるとか…。そりゃアカンですなぁ。正統性に瑕疵があるのは間違いないのですから、全く同じ条文でも改憲プロセスを経て、再び国民に支持するか問いなおして正統性を与えようという方向にならないとダメでしょう。

 なんというか後手後手なんですよね。改憲を阻むぞ!3分の2の議席獲得を阻むぞ!ではなく、こちらこそ日本人自身の手によるもっと良い憲法を改めて制定する!―とならないといけない。自民党なんかよりももっといい憲法を作る!とならないといけない。誰かさんの決め台詞ではありませんが、対案がないんですよね。それで勝てる筈がない。

 もし、筋の通った憲法案を提唱できたら、ああいう自民党のようなとんでもない憲法草案が出てくるはずがない。出てきてもすぐ比較されて論外と一笑に付されるはずですよね。改革派に創造的な理念や理論がないことが一番の問題でしょうかね?野党がそういうものを出せない以上自民主導で進むでしょうね…。

 まあ己は「日本国憲法は既に死んでいる」論を受け売りで取っておりますので、憲法を改正しないでいいという立場は取らないのですよ。改正したくてたまらない病ですねw。かといって改正したらそれで復活するわけでもないんですけどね。不断の努力、民主主義を守れ!という国民の意志があって初めて機能するものですからね、民主主義というものは。

 日本会議界隈の議論は、文化とか教育の話とかをしていても、結局最後は憲法改正へとつながっていく。「日本国憲法」をラスボスに捉えている―という指摘を見て思ったこと。確かにそう考えると筋が通りますよね。しかし日本会議なるものは、自民や安倍さんを我らがリーダーとして肯定的に見ているわけですよね?とすると先日あちらさんの議会で反省を表明して「日米和解」を演出した安倍さんを支持するのは矛盾するのではないでしょうかね?

 まあ例の疫学的地政学のような発想なのでしょうね。「他所」から異質な「病原菌」が「神聖なる我が国」に入り込んで「病気」を引き起こす。そのような病的なものは事前に排除せねばならない、また入り込んだそれを外科手術的に取り除かなくてはならないという古今東西共通して見られる例の反応ですね。


 で、日本国憲法が押し付けだから無効であるという話を見て、そもそもなんですけど、ハーグ陸戦条約云々で無効か有効か、それを以って「押し付け」かそうでないかってあんまり意味ない気がするんですよね。アメリカが「対等な近代国家」と「近代戦争」をした。結果、従来の国際法に基づいたプロセスで戦後処理をすべきだったと考えてないはずですからねぇ。

 米はあの戦争を経て、東アジアに関与、それどころか全世界・国際秩序に関与する外交をスタートしましたからね。彼らにとってはまあ「聖戦」みたいなもので、従来の近代法的な戦争とは異質なんですよね、戦後処理もそれゆえに異質なものになりましたし。その違いを明確に認識すべきではないでしょうか?

 米にとってあの戦争というのは、永井陽之助的に言うと「サプライズに始まりサプライズに終わった戦争」でしょうか。受け身故に明確なビジョンなき、急場しのぎの戦争。自己の独特の世界観・一般的価値観をそのまま国際政治・外交レベルに持ち込んでしまった所が問題の急所の一つかと思います。

 ベトナムイラク戦争などの戦略的な判断ミスは、この米の価値観に根ざす独善的な世界観という要素が大きいと感じていますね。故に対米関係どころか、現代の国際秩序にまで繋がる複雑な構造がある、問題の背景が深いことを抑えるのがポイントかなと個人的に感じますね。

 まあ要するに、「押し付け」無効論というのはそれが正しい・正しくないに関係なく、米の歴史感・現状の国際秩序の前提に抵触するわけですね。さっそく中国が「戦勝国同士なんだから仲良くやりましょう」という価値観をもって米と交渉したように、「戦勝国」という大義は彼らにとって大きいが故に国際問題に発展するわけで。違う問題が出てきてしまう。国内問題にとどまらなくなってしまうという性質があるわけですね。

 この話は道義(理念)的正当性、法的正当性、そして現実政治としての結果的政治責任の話とかいろいろ絡み合ってくるんだと思うんですよね。多分、政治責任を全うしたからこそ、正当化されるというのが学術的論理では主流になるのでしょうかね。かといってそれ(理念や法的正当性)が免債されるかどうかはまた別という感じかな?

 話の次元というか、項目というか、位相というか、色々多義的に及んでくるので、これを丁寧にやるとすると話が長くなるんでやりませんが、まあ事実と当為を分けて、まず前提としてそういう論理を米が用いているよという構造が大事かなと。当たり前の話だと思うんですけどなんか抑えてない人が多い気が…。

 気のせいならいいんですけどね。欧州主体の近代国際秩序の上に、米の今の国際秩序がある。それは大きく異なるわけではない要素が多いので、米の価値観が欧の延長・発展なので見過ごされるのでしょうか?欧の価値観と違うからこそ、新しく良い物になったのもあれば、当然その逆もまたあるわけですよね。

 まあ、改革のプラス面とマイナス面が存在する。実行者が変わってどちらか一方のみということはありえませんからね。良いにせよ、悪いにせよ欧州時代のそれとは違い独善的・独断的なそれになったわけですよね。その現行国際秩序と無関係ではない構造を持つという背景がありますよー的な話を、まあ一応ね。

 つか、こういう話をしたいときに、やっぱツイッターは難しいなぁ。連ツイすればいいという話じゃないんですよねー、こういうの。話すテンポでこうじゃないですか、だからこうなりますよね?とやれないのが本当疲れるわ(^ ^;)。

 まず、大丈夫だろうと思っても、誤解されないように&わかりやすいように、一語一語選定する作業で16ビットの頭脳がパンクするw。一方的に意見陳述する。受け取り手がどう取るかなんて知らん!くらいのメンタリティじゃないと神経消耗するなぁ。

 浅羽先生も最近ツイッター止めるようになったのもこれがあったのかしら?まあ韓国研究ということで、意味不明な罵倒・攻撃ということがあったのだろうなぁ。そういう負の感情と向き合うのはよっぽどのメンタルがないとやれないですよねぇ…。


 ※以下、憲政の無理解と(被)選挙権の拡大―というタイトルで書いた小ネタ。面倒くさいから一括で掲載です。

 憲法ネタで思いついたこともうひとつあったのでそれを。憲法が公布されて憲政が始まった頃は、「異質」なものとしてそれが始まった。今でこそ憲法・議会・民主主義は当たり前のものとして誰もが感じるけども、明治維新後の人々にとってそれは、伝統から乖離した異質なものであった。異質なものであるがゆえに、人々は憲政を理解しようと、その思想背景をしっかり学びマスターしようとしていた。

 それこそ説明書をじっくり読んでから、大切に扱おうという感覚。初めて購入した未知の電化製品を使う感覚で、説明書をじっくり読んで丁寧に扱おうという感覚だったのではないだろうか。初めての代議士は、それこそ議会とはなにか?憲政とはなにか?それこそ必死に勉強をしたはず(そうでない例もよく聞くが)。未知であるがゆえにそれをきちんと使いこなそうとしており、事実そこそこ憲政の常道が理解されて議会も動いていたと思う(当時としては)。

 憲法を議会を、不満をそらすため議会を設けた時の政府は、議会の声を平気で無視することがなくもなかった。「我々は馬上で天下をとったのだ。口舌の徒の言うなりになってたまるか!」に代表されるように、そういうセンスも強かった。それを次第に、憲政に近づける、議会政治に近づける努力があった。言論で権力を手にするチャンスが有ればこそ、必死で言論を磨き憲政の常道を守れと訴えた。

 そして平和的に権力を奪取する、デモクラシー国家に移行していくという成果をあげたわけだが、そういうことが可能になったのも、皮肉な話だが政治に参画する人員・階層が制限されていたからではなかったか?政治参加できる人間が少数に限られた故に、自然とレベルが高いものになった。憲政というものの慣習を無視する危険性は自ずと小さかった。

 現代になって選挙権や被選挙権が大幅に緩和されて誰も彼もが自由に投票に行けて、選挙に出られるようになった結果、必然的に憲政の理解のレベルも下がり、慣習が平気で踏みにじられ憲政が死ぬようになった―という力学・構造が考えられたりするんじゃないかな?と思いついたので、そんな思いつきを書いときました。