てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。基本長いので長文が無理な方はお気をつけを

戦勝を祝う国は未来へのビジョンがない国

 憲法ついでに、ロシアが戦勝を祝う、ナチスに対する例の戦勝記念式的な話がありました。共同体機能の維持として物語がある、歴史の機能がある。そんな話を見て思ったことを少し書きたいと思います。

 戦争の勝利を祝うこと(物語ること)が、共同体にとって重要な意味合いを持ってしまう国というのははたして今の時代どうなのか、それは21世紀の今になって先進国が取るべき態度と言えるのでしょうか?今ある自分たちの素晴らしい社会が戦勝によって作られているというのは誇るべきことなのでしょうか?

 戦後、まだ日が浅い(苦痛の記憶が新しい)とか、対立構造が依然として続いているとかであればわかりますが、戦後かなりの時間が経ってもまだ大々的にやるべきことでしょうか?もちろん国家的イベントとして、やること自体は問題無いのですけど。その意味合いは相対的に小さくしていくべきはずでしょう。

 共有するのは「戦勝」の記憶よりも「戦争」の教訓ですよね。非常時にあって、英雄的な素晴らしい行為があれば、その真逆の教訓とすべく痛い失敗例、恥ずかしい・醜い利己的行為も当然あるわけです。プラマイ両方振り返らなければ無意味でしょう。少なくとも「自国」と「他国」で分けて、ナショナリズムを煽るようなそれは価値観が古いと言わざるをえないでしょう。

 まあ、常々言ってますけど「戦勝国」という価値基準=「力の論理」で国際秩序が動くようでは、真の法治・安定的な国際秩序はありえないわけで。「戦勝国」「戦敗国」というカテゴリーの別なしに、国家の枠に囚われない「戦争の振り返り」ということが出来るようになった時、初めて「歴史」は克服されるのでしょうね。

 そういう意味で未だに戦勝記念式をやるロシアという国はその価値観から抜け出せない国というわけで、古い価値観に固執する国であるということが言えますね。

 まあ今さらですが。ロシアにとって「戦勝国」という論理は非常に大きいんですね。ロシアというのは「現実主義」であり、「力の信奉者」ですからね。ちょうどナチスを自分たちの教訓としてEUという論理にドイツを組み込んでいったそれと対照的な価値観と言えましょうかね。

 ユーラシア連邦構想というものを進めようとしている時点で察しと言えますが。逆に言うと「力の信奉者」である以外にビジョンが見えないということでもありますけどね。どっかでこんな話書いた気がしますが。まあいいか(^ ^;)。

 過去の「戦勝」にこだわる国というのは、往々にしてそれ以外のビジョンがないというロジックが背景にあると思います。その他の意味あるビジョンがあれば、それに乗っかって建設的なことをすればいいですからね。いちいち過去の「戦勝」というロジックを持ちだして、自分たちの優位性を誇示しようとは思わないでしょうからね。

 自分たちで新しいビジョンをを打ち出せないことが問題であると同時に、それを周辺諸国、関係諸国で打ち出せないということも問題でしょう。自発的な問題(内部の問題)と、地域的構造の問題(外部の問題)の2つの視点で見ること、考えることが重要かと思いますね。


 ※もちろん、ここで念頭に置いたのは国家が主体的に行う「上からの物語」ですね。公式見解を「正史」として大々的に宣伝することが問題なわけで、個人や地域としての自発的なそれはまた別物ですね。「下からの物語」で俺達の祖父たちは勇敢に敵と戦ったんだ!みたいな物語は特に問題ないと思います。自分たちと相手に二分して、自分たちが正義であり相手側が悪・侵略者だ!という変なナショナリズムを煽るものでなければ問題ないでしょう。