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てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

続、孟子

本・読書―批評・批判・感想・レヴュー

新釈漢文大系〈4〉孟子/明治書院

¥9,936 Amazon.co.jp
前回の続きです。

 公孫丑の章で管仲晏子(覇道政治)と自分を比べられて、ムカッとする。弟子は管仲を望むんですよね、孟子に。文王がすぐ王になれなかったのは、殷のこれまでの賢聖の君主が続いたことに、さらに賢人の補佐があったから。国家の興亡に先人の徳の積み重ねが作用する。ポイント制ですね、孟子の政治理論は。徳ポイントがあって、どんだけ貯められたかで後世の運命が決まるというものですね。

 ということは孟子も弟子に期待したのか?自分が文王のような開祖で、弟子たちがポイント貯めて最終的に世の中が変わっていくという発想なのか?周なら武王のような跡継ぎ、孔子なら顔回のような卓越した弟子がいたわけでもないのに?

 多分、孟子は斉と梁(魏)で王と答弁するような存在、顧問くらいの存在で実際に仕官した期間、宮仕えで取られる時間がかなり少なかったと思うんですよね。だからこそ、弟子の面倒見る時間があった。学問に専念したり、後進指導に精を出せたんじゃないでしょうか。管仲とか弟子にあれこれ授業したりするイメージないですし。そういう実務政治家と学者の違いというのが後世に出てくるんでしょうね。弟子の面倒を見る点が儒教儒学が後世に影響力を持つポイントの一つなんでしょう。

 孟子の言う徳や仁政は民の生活の安定を重視するもの、逆に言うと覇道政治の否定。その対局にある価値観。道義を行うことで気が保たれる。そこから外れれば気は飢える。やっぱ宗教的生活をしないとダメ!っていう信念があったのかな。孟子には。

 聖人論、どのような聖なのか?また誰が一番優れた聖人だったか?などの話になる。孟子は自身は聖人ではないと否定し、孔子が一番優れているとする。孔子門下の言を以って、孔子が最高の聖人と認定する、論じるのはどうなのか?覇は必ず大国を持つ。王は大を待たず―孟子は中華統一のような思想には否定的か。

 皆、善を好む。善・仁に人は自然に従うものなのだ―重力が存在すると考えて、万物に作用する法則はなにか?と類推するような感じかな?まあ宗教家だから、善の一言で済むんでしょうが、時代設定が古すぎですよね。小国が数百も乱立する時代ならそれでいいのでしょうけどね。戦国時代という弱肉強食時代に近づけば近づくほど合わなくなる。まあ、だからこそ孟子はそんな弱肉強食はおかしい!許されない!という規範を説くわけですが。

 斉の客卿だったが、母が亡くなったので故国の魯に帰って葬式。本当葬儀の礼の話ばっか出てきますね。斎王が国師としての礼を取らないから、しびれをきらして去るわけですが、戦争が起こったあとで孟子の意見が必要になったという点からも民政安定の専門家として期待されてたんでしょうかね、孟子は。

 ただ、孟子が望むような待遇を燕との「戦後処理」でも王は示さなかった。全権を孟子に任せるようなことはしなかった。故に有能ではあっても、そこまでするほどの人物ではないという評価が妥当でしょうか。まあ斉ほどの大国でそんな全権委任なんかまず無理でしょうし、そもそも非現実的でしょうけどね。

 戦争をやっても最終的には国家の利益にはならない、仁政に飢える民に王道政治はたやすく広まる。そんな感じで戦争が終われば、自分の出番だ!という意識があったんでしょうね。帰路でもやっぱり王から声がかかるんじゃないか?という未練がありましたし(実際使いは来たんですけど、王自ら来てないからダメーという判定でした)。

 覇道政治、戦争して領土を広げる、国益を追求する。まあそういう政策をとっているわけですけど、年がら年中戦争するわけではない。民力休養時期でそういう政策を取りたい時期がかならずある。そのトップとして孟子が選ばれても全然おかしくないですからね。

 しかし牛を可哀想と思うから王に善政の見込があるという余計な解釈はなんとかならんものか…。なんというか余計な解説が目立ちますね。道徳的な話をしたいからなんでしょうけどね…。

 滕文公、即位して孟子の王道政治を採用する。領土が大体四方五十里というくらいだから、かなり小国であることがポイント。もとより覇道政治を行えない小国が孟子のターゲットなんでしょうね。若い時は「吾他日未嘗學問。好馳馬試劍 」、それでも即位して方向転換しなくてはいけない国情だっんでしょうね、きっと。

 孟子道性善、道を「いう」って読むのはどうなんだろ?性は善であることを道とするとそのまま読んじゃだめなのかな?この道というのはただ単にそう読みとくとか、解説するという意味合いよりも、事実&当為(かくあるべし)の意味合いに近い気がするんだけどなぁ。「そうであるし、そうなるべきだ」という意味があると思いますね。

 農家の許行が仁政に惹かれて、滕にやってくる。儒の教えを捨てて陳相がその教えに帰依する。その態度が不誠実だと孟子が指摘するシーンがあるが、許行の教えに従えば、物価が安定する=民政に貢献するのだから、小国がその教えを採用するのは当然の理だろう。これは孟子と顧客が被る故の反論とも言える。

 政治なんかほっといて、王自ら民と一緒に耕すべきだというのは、悪平等。思想の暴走とも言えるのだろうが、小国にとっては自ら地位を放棄して政治そのもの、政治機能自体を小さくするのも一つの手。率先して町長・村長のようになれば大国の庇護下に入って戦乱の世を生きていけるから、むしろ自然な発想にも思える。

 公孫衍・張儀などは大丈夫(だいじょうふ、立派な人という意味ですね)ではない。列国・諸侯を動かそうが、順・従うことで行っている。そんなことは女がやることと同じ。仁・礼・義をもって金にも負けず、権威にも、武力にも屈しないことこそ大事だとします。絶対自分から働きかけに行ってはいけないんですね、孟子は。相手が君子でも何でも、相手サイドを動かしてなんぼという発想。

 大国で政治を諦めたからか、宋とか鄒とかそういう所が出てきますね。孟子はどれくらいあちこち渡り歩いたんでしょうかね?弟子の彭更にそんな従者数百人つれて諸侯の間に傳食するなんて…と言われるくらいですしね。聖人の道を説き伝えてるからええんや!と、攘夷志士みたいな言い訳してますけどね。

 萬章問曰、宋、小國也。今將行王政、齊楚惡而伐之。則如之何―と聞かれて、王道政治をやってないうちから何言ってるんだ!やったら無敵や!みたいなこと言ってますけど、やったら国防が成り立たずに滅ぼされるってことでしょ、これ…。大夫戴盈之などと語るシーンがあるので、宋の政治にも多少は関わったんですかね?やっぱり。

 公孫丑問曰、不見諸侯何義。非現実的なことばっかり言ってるから、弟子の公孫丑に「さっさと仕官しろ」と言われてるように見えてきた(笑)。公都子曰、外人皆稱夫子好辯―門外の人(=弟子以外)には弁論家だと見られていると。まあそうでしょうな。特定の利益から主張してないのが弁論で成功する肝かな?

 鳥獸之害人者消、然後人得平土而居之―とか、驅虎豹犀象而遠之、天下大悅とか、いかに当時の人にとって野生の動物が恐れられていたかわかりますね。充塞仁義なんて表現がよく表していますね。道ってのは簡単に塞がれてしまう。平原において道が途絶えるってのはまさに死活問題でしょうからね。

 楊朱墨翟之言、盈天下。天下之言、不歸楊則歸墨―これどうなんだろうなぁ。そりゃ儒が人気あったと思えないけど、楊朱・墨翟がそこまで人気あったと見ていいとは思えないな。まあ文章の性質からして誇張と見るべきか。殆どの人はいいとこ取りで、定見=特定の学説を信奉したりはしなかった気がするなぁ。まあメインに何かを置いても、それだけって人は高官であればあるほど珍しかったんじゃないでしょうかね?そもそも学者、~~家と言われる思想家は仕官するために売り込む人々ってイメージですし。

 章の最後に、陳仲子が誠廉ではないという話。これは公の出処進退は厳しくあるべきだが、一個人としてはあまりすべきではないという話。公、聖人の道につながることは断固として守るべきだが、私的な領域についてはその厳しいルールを持ち込まないというのが孟子の価値判断みたいですね。私的にやるとしたらどこまでも厳しくなって、結局やることなんて不可能だから、程々にしなさいという感じみたいですね。まあ公人として襟を正す方が重要ですからね。

 私的領域と公的領域に分けて、前者に厳しい物を要求しないというのはバランス感覚がある人間の発想ですね。過激に思える孟子の思想も、私的な領域においては徹底した倫理判断をすべきではないというまともな意見を見ると、むしろ当時としては穏健派だったかもしれません。公私共にむちゃくちゃ厳しい倫理規範を要求する人間・学派が当たり前のようにあったとすると、私的領域における倫理規範の追求というものをすべきではない!という主張をして、その常識化・一般化に貢献をしたわけですね。

 公私に厳しい→公に厳しいが、私はOK→公において倫理よりも結果責任を重視すべし!(=法家の発想)ーというように、孟子のラディカルな主張も思想変遷上の必要なワンステップと考えるべきでしょうかね。

 離婁章、いつものごとく、王道政治をやればなんでも出来る!文王の政治を行えば、大国で5年・小国で7年で天下に政を行う王者になる!とありますが、孟子の言うことを聞いて政を行った滕文公は王者になれましたか…?(ゲス)そう聞かれたら、文王の政治はそんなもんじゃない!とでも返して切り抜けたのでしょうか?

 堯舜のように君に仕えて民を治めろ、これが仁でそれ以外は不仁。ものすっごいざっくりした分類法。こんな二元論で大丈夫なのかと心配になるくらい。それこそ戦国時代の思想乱立が当然の時代だから言えることでしょうね。また例の孝子・慈孫でも100代祟られるという発想、親の因果が子に伝わるという思想。

 旧君のために喪に服すという話。これは当時の君主でやはり乱暴に臣下を扱う事例が珍しくなかった。だから部下をひどく処遇すれば君主たる資格を失うと主張したのかな。民を守ることを第一に考える、セーフティーネットを大事にする儒教なら、当然臣下にも最低限の待遇がある!という発想に繋がるのかな?

 孟子の思想、儒教のいいところというのはやはり外面規範ですよね。生まれた身分ではなく、行動によって人の価値が決まるという発想。先天性の強烈な否定が孟子にはありますね。この時代に身分制の基盤とも言える先天性を否定する孟子の天才性は脱帽するしかないですね。

 性善説ってよく勘違いされますけど、あれみんな人を思いやる気持ちがあって素敵やん?っていうおめでたいものじゃないんですよね。人は皆善であるからこそ平等だ、孔子のような聖人だろうが、そこら辺のおっさんだろうが、みんなおんなじ人間なんだっていう革命的な思想なんですよね。

 皆おんなじ人間で、行いによって聖人かどうなのか判断される。君主すら行いが悪ければ放逐されるという発想は、孟子が低い身分から勉学を修めて成り上がったという背景が大きいのでしょうかね?もちろんそこまで低い身分というわけじゃなかったんですが。

 孟子曰、西子蒙不潔、則人皆掩鼻而過之。雖有惡人、齋戒沐浴、則可以祀上帝。どんな美人だって衣服が臭かったら誰も近寄らない、逆にどんな人間でも斎戒沐浴さえすれば上帝だって祀っていい。インドのカースト制とは真逆の発想ですよね。

 城を攻められた時、曾子は逃げ、子思は残った。孟子曰く、これは二人の立場が違っただけ。師であり父兄だから身を守った。臣であり身分が低いから城と運命を共にするという選択があった―と解説してますが、普通逆じゃないですかね?身分が高かったらノブレス・オブリージュ全うしなさいな。こういうことしてるから墨家とかに支持者を奪われるんじゃないかしら?

 離婁の最後に、良人があちこちわたって墓前祭をしている家からメシをたかるという話が出てくる。当時の葬式などで祭があって、周辺の人がそれで飯を食えたということかな。葬儀が社会福祉の機能となっていたっぽいな。だからこそ葬儀を儒家は重視したのかな。

 堯が舜に禅譲した事例では、皆堯の下ではなく、舜のもとに尋ねに行ったから禅譲という運びになった。神事をまず任されたというのもポイントか。曹丕献帝が死ねばその喪を主催して、自分が後を継ぐ大義名分が立ったんでしょうけどね。なにせ献帝は結構長生きしたからそのプランも成り立たないというね。

 覇道政治は民から収奪をするようなもの、なのにそのような諸侯から贈り物・禄を受け取っていいものなのか?と万章に鋭く突っ込まれて、王者ってのは優しいんだよ?泥棒も反省したら許すのが王者だから大丈夫という言い訳が苦しいですね(笑)。こういうのがイマイチ人気が出なかった理由なんでしょうね。

 告子いわく、仁は内にあれど義は外にある。何が正しいかそうでないかは時代・環境によって他律的に決まるもの。この価値観念は「人は万物の尺度」に近いものがありますよね。彼の思想の方が近代的で、評価されても良さそうなものですが、どうして後に再評価されなかったんでしょうね?

 曹交に私は体がでかいだけ、どうしませう?と聞かれて、堯舜の行いをただ真似るだけで良いと答えます。出来ないことを嘆くな!自分で今できることを頑張るんだ!とお母さんみたいなことをいいます。結果責任よりも努力責任(努力重視)なところが孟子っぽいですね。

 諱名不諱姓、姓所同也、名所獨也。名を諱んで口にしない。生前の名前と死後の名前が中国でも違っていたのかな?と以前から気になっていたんですけど、これを見る限りでは、やっぱり死後に諱として別名を付けなかったのかな?生前の名前と同じ諱と考えていいんでしょうかね。こういう習慣は変わったら、変わった時点で多分誰かが必ず言及しますしね。

 あと人は苦しんで大成し、安楽に流れて駄目になるってのがあんまり悟ってないっぽいですね、孟子は。弓が当たらなくても反省するみたいな話とか、そもそも弓は当たってから射るものですから、そういう発想がまず出てこないはず。不動心的な発想もスティフ要素が強すぎたと考えるべきでしょうか?孟子の悟りというのは。