てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

新説 「三国志」の虚構と真実

新説 「三国志」の虚構と真実 (Panda Publishing)/Panda Publishing

¥価格不明 Amazon.co.jp

新説 「三国志」の虚構と真実/パンダ・パブリッシング

¥1,620 Amazon.co.jp

Kindleメインで注文に応じて製本するのかな?かなり珍しいタイプですね。Kindleは450円で本と4倍近いですからね。

満田剛氏は、『三国志――正史と小説の狭間』かな?を読んで、まあこれは違うかな?と思うことがあれど、かなり参考になった記述も多くて興味深く拝読した記憶があります。ブログで書いたっけ?書いてないのかな?まあいいや。

 これは、演義での書かれ方と、実際の史実ではどうだったか?という簡単な比較をするというアプローチを取っていますね。まあ演義系から参入した初心者が、「へぇ、史実だとどうなってるんだろ?」と史実に興味を持ってくれるきっかけとしてはいいかもしれませんね。難しい話も出てきませんし、さらっと読めるかと思います。人物単位で毎回数ページで比較して紹介するという感じですし。

 史実の世界に引きずり込むための入り口として、また次回のライトな正史・歴史「三国志」の本を書くという展開がいいかと思います。いかんせん、人物単位で短いですから、さらっと終わってしまって消化不良感も否めないですからね。せっかく、「へぇ本当はこういうことだったんだ~。」と興味をいだいても、そこで話が終わっていますからね。

 あんまり数値・パラメーターで人物を評価するみたいなのは好きではないですけどね、書いてある通り演義と史実の比較。そういうライトな取り組みなので、そんないちゃもんつけるのも野暮なんでそこら辺はまあいいでしょう。初心者が楽しんでいただければいいでしょう。最近はゲームも多いですし。昔は己もよくやったなぁ、三国志ゲーム。

 でもパラメーターじっくり見る人いるんですかね?それだったら、各数値毎に全人物並べて順位にしておいたほうが面白いのでは?この分野では誰が上位とかパッと比較できたほうがわかりやすい。せっかく採点したのですから、序列がわかったほうが面白かった気がしましたね。

 まあ、以下読んで気になったことをだらだら書いていきます。

 そうそう、これ誤植?誤字が多いですね。ページ数で目についた誤植を記しておきました。目次では劉禅のところの【史実】というのが、劉禅だけ抜けオチていましたね。

魏の章

 p2自分たちを殺そうとしていると勘違いして皆殺しした、皆殺し「に」したの抜けかな。

 関羽曹操、悪役であるはずの曹操に寛大に扱われる関羽、そして恩返しとして見逃す関羽演義に見られる「道徳性の優位」の強調。中国人の思考には、本当は自分たちが勝っていたけども、道義・大義を重視したため負けざるを得なかった。無視すれば勝っていたんだ!でもそんな卑怯なことを自分たちはしないんだ!という発想・論理がありますね。

 中国人>蛮族(禽獣)という発想ですからね。

 曹操=万能の天才とありますが、学者としての孫子への注釈と詩の能力、あとは書くらいですかね?当時評価されるとしたら?あとはあんまり評価の対象ですらないかと、せいぜい多趣味ですなぁ位の感覚だったと思われます。後世から見て万能に見えるわけで、当時はそれで凄い人という評価にはならなかったことには注意が必要でしょうか。

 桓帝を擁立した宦官である曹騰の養孫(養子の子)であり、当時の官僚たちからバカにされる出自と書いてありますが、当時宦官だからと言って馬鹿にされたり、まともにあつかわれなかったという事はありえないと思いますね。後世再編されるなかでそういう価値観が強くなって反映されたというだけで、実際に宦官だからという理由のみでは、卑下されることはなかったでしょう。

 曹洪曹操と同じ出身、沛国譙県。同郷の実力者として無視できない存在だったがゆえに曹丕も排除にかかったんでしょうね。曹操世代の重臣とあれば遠慮せずにはいられない、目の上のたんこぶですから。まあ今の金正恩が、権力掌握のために父以来のキャリアを持ってる序列上位の人間を粛清しているのとおんなじ構造ですね。そう考えると次世代、曹丕世代になる曹真をからかって一悶着起こすことも理解できる話でしょうか。夏侯惇夏侯淵はさっさと死んだのでそういう問題は発生しなかったんですが、死んでなかったらどうなってたんでしょうかね?(多分、前にこんな話書いたと思いますけど)。

 まあ、そういうわけであとに出てくる曹丕=S的な見方は己は取りません。これ多分北方さんの小説で曹丕=ドSみたいなの話が出てきてそういう見方が流行っているってことなんですかね?そういうライトな読み物を意識されてるんでしょうかね?

 于禁、出身地徐州になってますけど、これ兗州の間違いでしょうね。青州兵キラーでもあった于禁于禁が生きていれば、じゃなくて帰ってきて魏のどこかに駐屯していれば、曹操死後の青州兵の暴動鎮圧は彼が担当していたんでしょうかね?曹丕の壁画のエピソードも青州兵鎮圧・対策が終わって、もう用済みという要素があったんでしょうかね?于禁がいないからこそ、同じ出身地・泰山郡の叩き上げ臧覇が出世できたという可能性があるんじゃないでしょうか?于禁が対青州兵強硬派で臧覇が穏健派という違いがあるとか考えられるかしら?

 于禁張遼、また陳登とか(あるいは孫策を含めてもいいかもしれません)、この方面で活躍していて、臧覇くらい長生きした人物は他にいない。それだけキャリア持っていて、歩騎1万で長江の彼方まで攻め込んでみせる!という過激発言をするのですから、そりゃ警戒されるでしょうね。

 于禁や韓浩が反乱に直面するケースで、相手が許されると思っている節があるのはどういうことなんですかね?やっぱり反乱・蜂起しても、条件面で交渉して折り合いつけるというのが当たり前の時代だったということなんでしょうか?

 臧覇にしろ、陳登にしろ、方面司令官とまではいかないものの、対袁紹孫策で全権委任に近いやり方をせずに入られなかったというのが、徐州情勢を理解する上でのポイントっぽいですね。同じ全権委任された関中(鍾繇)で、なんか共通項を見いだせないかしら?陳登は陶謙の推薦で典農校尉、やはり既に農業対策が重要になっていたんでしょうね。

 臧覇はともかく、鍾繇のような大物、中央の官でエリートコースかどうかはさておいて、そこそこのキャリアがあるような人間が関中あたりで全権委任を任されていたというのはどういう意味を持つのか?官制上ではどういう位置づけになるんでしょうかね?司隷校尉権限の延長かな~?と思ってキャリア見たらやっぱ司隷校尉でしたね。長期間かなり独特な形で、全権委任で司隷校尉を務めていたがゆえに、権限が相当大きかったんでしょうかね、やはり。

 この時代なら州牧があるので、司隷校尉領域に州牧は無理として、司隷校尉兼+そこそこの将軍位を加えるとか、あるいは周辺の并州牧とかで権限を保証するという形ではダメだったんでしょうか?

 馬騰韓遂と組んで河東の反乱を平定したり(袁尚のときの郭援と高幹のときの衛固の二回ですかね)、人質供出も認めさせているなど彼らとの信頼関係は相当厚かった筈。なのに後に圧力をかけて反乱に至らせたり、なかなか興味深いものがありそう。それとも馬騰は河東を何が何でも安定させなければならなかったと見ていたとかなのかも。河東の重要性を裏付ける事例なのでしょうか?

 鍾繇は杜畿を就けようとして河東太守を長く務めた王邑に印綬を返させようとしたが拒否された云々のエピソードとかも彼の力の大きさを意味するものでしょうか?

 鍾繇、鬼畜・イタい。そのような豊富なエピソードが残っているのは、魏王国の大理から魏の太尉、太傅となった華やかなキャリアの裏返し。そして張魯討伐の際に、鍾繇馬超にも人質を要求し、結果、馬超らの反乱を招いた。魏諷のクーデター、関中方面で揮った剛腕ぶりや書道家としての名声の裏返しから逸話が多く残ると。子の鍾会の反乱があるがゆえに、マイナスイメージが付加されていったのか?

 河東から関中に至るまでのゴタゴタと関係有るのかなぁ?鍾繇の特権的・独裁制のようなそれは。魏諷や吉本などどうも彼の関係者が多い。鍾会の反乱もその延長にあることじゃないかな?という気がしますね。王朗がのちに彼と並んで魏の重臣になったのも、王朗は揚州での鍾繇の役目を期待されていたからということなのかな?失敗したけど。揚州と涼州はやっぱWで、ニコイチで考えるべきものなのかも。

 p37、葛亮軍を防ぎきっていた。『演義』ではこれらの功績を司馬懿に奪われている。―諸葛亮の「諸」が抜け落ちている。

 また、同ページで「いま曹洪を誅殺すれば、曹洪は私が告げ口したためだと思うでしょう」と述べて、結果的に庇おうとしっている。―庇おうとしているのタイプミスかな。「しっている」になっている。

 司馬懿、実際に将として軍を率いたのは孟達攻めが初めて、曹丕が亡くなるまでは実は政治家・官僚の役割をこなしていた。曹真が亡くなるまでは呉への抑えとして宛に駐在。230年までの諸葛亮の北伐を防いできたのは曹真や郭淮。で、231年の北伐の際、司馬懿は兵糧不足などから撤退する諸葛亮を名将・張郃に追撃させたが、諸葛亮軍の反撃にあい、木門で戦死させてしまっている。

 中央でのキャリアは十分でも、外に出て軍事指揮官としてはパッとしないですね。張郃が判断ミスって自滅したように書かれてますが、実際は司馬懿にもGoサインを出したことで、かなり失敗の責任が大きかったとかあってもおかしくなさそうですね。

 司馬懿の相手は、諸葛亮を除くと、公孫淵や曹爽などで、呉にはそもそも司馬懿とやりあった人物すらいない。つまり、司馬懿の実力を証明するようなライバルは諸葛亮以外にはいない。よって諸葛亮の司令官としての高い評価がそのまま司馬懿の評価に直結している皮肉な構造があると。激しく同意ですね。二人とも堅実な司令官とありますが、ハッキリって定例昇進で責任者になって、他に適任者もいなかったって感じでしょうかね。

 司馬懿諸葛亮って意外に似てるんじゃないかなぁ?とふと思いました。地味&地味。

蜀の章

 演義での劉備、民のための行動=大義、反汚職=賄賂拒否、侠の論理で「三分の計」という戦略を無視して負ける。こういう情の論理で失敗を覆い隠す。良い人だったから失敗しても、多少はね?みたいな強引な理屈で正当化するのが演義、中国人が好むもの、中国人を理解するツボでしょうかね。

 大体、民のための漢朝復興という大義を!なんていって、その漢朝が民のためにならないという発想が何故出てこないのか?まあ大義名分論のための強引な理屈なんですけどね。そういうツッコミをした人は当時いなかったんですかね?

 『三国志』魏書では「曹操は(呉ではなく)劉備と戦った」と書かれている。つまり『三国志』では、呉や袁紹ではなく、劉備こそが「曹操の宿命のライバル」と扱われている。これは晋の正当化のために&蜀のイメージアップのためでもあるんでしょうね。曹操VS劉備司馬懿VS諸葛亮という図式があったと。劉備の後継者諸葛亮を破った曹操の後継者司馬懿という図式を成立させられますからね。

 p49、武勇に関しは、曹操配下からも猛将として絶賛されていたが―武勇に関し「て」は、「て」が抜けている。

 関羽の独立勢力化というのはよく言われるのだけれど、それならそれでなおさら孫権との関係を友好にしておかないといけないですよね?なんで孫権との関係を保てなかったんでしょうか?三郡取られたから、面子を潰されたと怒っていた?性格は張飛と正反対で同僚以上の立場の人物には厳しく―とありますが、これ多分、黄忠とか馬超とか新しい方面司令官候補が入ってきて、自分の地位が脅かされるという懸念があったからじゃないでしょうかね?

 p51、ただ、長阪では―長坂の誤り。

 p52、さらに『魏略』は裴松之からも信頼性が疑われる史書で、取り扱いには注意が必要でことも踏まえると―必要で「ある」ことも、もしくは必要「な」こともの誤り

 上にゴマすり、下にキビしい張飛、まるでどこかの中間管理職のようとありますが、当時は身分制社会であり、むしろ当然のことでしょうね。関羽がそうでなかったというのは、なんでしょうか、それほどではないにせよ、親が官職についたことがあるくらいの身分だったんでしょうかね?

 司馬懿関羽馬超馬騰司隷校尉部とありますが、司隷部じゃないですかね?校尉は官職だと思いますが…。それと馬超涼州司隷校尉部扶風って言うのはどういうことなんでしょうか…?単純なミスなのか?両方に関わりがある、またがっているという表現…?(※ツイッターで教えていただきましたが、司隷校尉部というのは監察上の表現、行政区分としての州とかとは別領域で考えられているからですね)

 p56、彭羕の愚痴とも叛意ともとれるような妄言を密告したぐらい―羕の字がPDF上では表記不可能のようで、✕と出てきますね。これは仕様なのでしょうか?コピーして違うところに貼り付ければ読めますが、✕って出てくるとシュールというか、ビックリしますね。Kindleだと大丈夫なのでしょうか?

 朱霊とかぶるのかな?趙雲って?冀州の戦場だと自分の軍事能力を生かせないから徐州にやってきたという人が朱霊や趙雲の他にもいたかもしれないですね。あるいは年齢的な問題で出世しやすいのはこちらだったとかそういう理由。趙雲はもともと劉備の〝護衛隊長〟で、将軍として評価・出世していったのは、諸葛亮が政権を握るようになってからと。

 p59と61で博望陂の字が違う。

 諸葛亮について、「現代で言うところの〝戦略〟と〝戦術〟を踏まえた戦いをしていた点でも、諸葛亮は、同時代の他の司令官とは簡単に比較できない存在だったといえる」

 ―とありますが、どうでしょうかね?他の司令官というのがそもそも少ないですし、諸葛亮の時点で取れる選択肢自体が少なかったですし、結局は負けていますからね。かと言って卑下して、ダメだ!なんていうこともおかしいですけど、高い能力といえるのでしょうか?どちらかと言うと失敗はしたけど、まあ悪くはない。無難というところではないでしょうか?

 あと、そもそもなんですけど、戦時での指揮官としての能力を比較しよう!と試みても、そんな大軍を率いる戦争自体多くないですし、真正面からぶつかり合う会戦自体が少ないですからね。せいぜい官渡くらいでしょうか?大戦といえるのは?それも長期戦ですしねぇ。それ以前の戦争は規模が小さいですし。信頼できる史料も少ないですし、軍師としての能力とか大軍指揮能力とかあまりハッキリしないですよね。結果論的に見ざるをえないわけで。

 飛び抜けて優秀も、無能もありえないことは確かですかね?あとはAという視点から見ると優秀、Bという視点から見るとダメ・失格とかそういう部分的な評価しかできないのではないでしょうか?

 劉禅の出自が書いてないですね、劉備と同じじゃなんかマズイんでしょうか?単なる抜け落ちかな?

 p62、長阪

 p65、成都に戻って劉備から自殺させられたという話「がは」歴史書にも記載されている。多分「が」の消し忘れ。

 p66、「勇猛な劉封はあなた貴方が亡くなった後には制御できなくなる」―あなたの二重表記

 虞翻糜芳をいじめる話、本当アホですよね。降伏した者を大事にしなければ次の降伏しようとするものが出にくくなる。そりゃ孫権に嫌われますね。徐州で過去に何か因縁があったとかするんでしょうか?

 p69、ここまで史実では「麋」、演義では「糜」と使い分けてきましたが、最後になって史実パートで糜と間違えて使ってしまいましたね。書き分けるの難しいでしょうから、表記を最初にあえて統一したほうが良かったのでは?

 右将軍張飛を差し置いて、劉備陣営の初期からのメンバーでもなく、高位の将軍でもなかった魏延の漢中太守任命という抜擢、〝サプライズ人事〟それだけ劉備から高い評価を受けていた。彼が漢中太守として整えた防衛体制は長く継承され、姜維が北伐のためにその体制を崩してしまうまで活用された―劉備の死後、一大決戦を考える際に張飛は連れていきたい、後方支援には魏延ということだったのか?あるいは関羽との連携を考える上で、漢中に張飛ではダメだという問題があったか?

 劉備政権もベテラン揃い=裏を返すとジジイだらけですからね。そういうところでホークスの先発で若手のエース武田を育てよう!みたいに魏延を抜擢する事情があったんじゃないでしょうかね?

呉の章―魏や蜀と比べると少ないですね。やっぱり。呉だけ二桁行ってないですね。魏や蜀は13~14人なのに、呉はマイナーですね。

 孫堅の若くして海賊を討伐というのは、その後の黄巾討伐などと合わせて、孫呉政権の山越対策みたいな話とつながってくるんでしょうかね?江南の治安維持の重要性の高さ、それができるからこそ求心力が高かったみたいな。

 橋公の娘たちを捕虜にして、孫策は姉を娶り、周瑜は妹を娶る。孫策周瑜の義兄弟関係、縁戚関係が注目される話ですが、ここだけみるとやってることは山賊(笑)。まあ当時の常識なんでそれは問題にならないとして、このポイントは二人の絆が特別なものになったということ以外にも、この橋家とのつながりを欲した孫策周瑜という点で、橋家の存在の大きさの裏返しでもありますよね。むしろ橋家の再生、立て直しとも言えるのではないでしょうか?その後橋家の大物が出てきてくれると、もっとわかりやすかったんですけどねー。

 まあ、要するに地元の豪族、名声ある人がかなり重要だったということの裏返しでしょうね。

 陶謙は、董卓長安遷都後、王朗の進言で使者を派遣&貢物献上で、陶謙が徐州牧に、王朗も会稽太守になっている。陶謙一派は揚州の一部にも進出した。元々陶謙は丹陽出身なので、むしろ根拠地の確保か。陶謙孫策を忌み嫌ったのは、その根拠地の丹陽郡を当時の丹楊郡の太守おじの呉景を頼ることで、孫策がそこを脅かす可能性があったからかもしれない(このときは結局、宗教指導者の祖郎に敗れ、袁術のもとへ逃げる)。なるほど筋が通りますね。

 「袁術が皇帝を僭称すると、孫策袁術から自立。孫堅が残した遺産である〝漢王朝を支える〟という大義まで失うことになる」―というのがありますが、これもありえないでしょうね。王朝に忠誠を!が大義名分として意味を持っていたんだ!!!というのは後世の史家の価値観の反映でしょう、もしくはそういう当時の顕彰碑とか一族を称える文に書いてあるからというだけで。あくまでこれは建前、定型文、テンプレとみなすべきでしょうね。宋代以後、「大義名分」が違う価値観を持つ時代ならまだわかりますけども、この時代はありえないでしょう。

 p86、ただ、それまでの孫策袁術の配下として行動しており、独立していた期間は数年年ほど間であった。―「年」が2回続いている、数年ほどの間であったの誤り

 「歴史的に考えると、袁術から自立して江東を制圧していった孫策の政権は独

自で切り開いたものというより、袁術・劉繇(・朱儁一族)の後継政権と考えるのが妥当。」―そこら辺の諸勢力の政権・力がどのように孫呉政権の礎になっていったか、独自勢力として自立を考えたか、あくまで中央重視だったかそこら辺の差異もポイントでしょうかね。

 揚州におらが村政権を!という思いがあった。袁術の意味というのはそこら辺に見いだせるものでしょうか?他にも揚州とか徐州とかそういう関係者がいっぱいいますけど、彼らもそういう意味では同じようなことを考えていたと見るべきでしょうか?孫呉政権でも、孫呉政権の安定化を!という人と漢王朝に帰伏を!で別れるのはそういう内部対立があったということでしょうね。自立か帰伏か。どちらにもそれぞれメリット・デメリットがあったでしょう。

 赤壁以後の孫権政権時代の停滞というのは、自立路線の選択で確定したあとそこからさらに拡大か現状維持かの路線対立になったと見るべきでしょうかねー。自立で路線が確定した以上、領土拡大のために北伐なんて到底選択できない事情になったとか。

 涼州に「董卓が王朝を築いた」(もちろん正式にではなく、しかも失敗しましたが)。それが、涼州でできるんなら、じゃあウチも!ということに繋がったと見れるとすると面白いですよね。董卓政権の波及効果としての孫呉政権。

 ―ですから孫権の評価で「周瑜魯粛といった天下を目指す戦略立案者がいなくなれば、目の前の利益に飛びついてしまう風見鶏」というよりも、魏王朝が確立したあと、そういう天下取りプランを推進しようという人はいなくなった&非現実的になったということじゃないかと思いますね。孫呉政権・王朝を築くのはまだしもこの上外征で負担をかけるなんて!!!というのが根強くあったんじゃないでしょうか?中央が分裂していたらイケそうだからいいけど、統一されて安定したところで逆らうなんてとんでもない!という感じじゃないでしょうかね?

 周瑜にせよ、魯粛にせよ、誰でもいいんですけど天下二分・三分の計の本質は、混乱する中央に対して、まず安定的な割拠政権を作る。その上で北方に進出していくというもの。中央の混乱が基本ですね。そしてそれが成立しないなら無理やり混乱させる、つまり戦場で大勝することがその次の基本になる。周瑜赤壁でやったように。結局「大軍を戦場で撃破する」が根底にあるかもしれないと思ったので、メモ。

 p96、魯粛彼の死後―魯粛か、彼かどちらかわからないが重複。

 陸遜、史書でも孫権軍の将軍たちがなかなか陸遜の指示に従わなかったとある。しかし、この時の陸遜はすでに40歳くらいで、赤壁の戦いの頃の周瑜魯粛より年上。すでに山越討伐でも実績はあった。―とするとどうして反発を買ったのか?やはり陸遜が統一志向ではなく、孫呉政権安定志向だったからか?

 以前、空気の読めない陸遜的な話を書いたっけか?陸遜は夷陵で劉備を叩きすぎた。本来は、劉備と和平で折り合いをつけて、曹丕を釣りだして叩くのが本当の目的。にもかかわらず、劉備を必要以上に叩いてしまった。結果、長期的な衰退の道を確定してしまった。まあそんな話を書いた気がしますが、諸将もその構造を熟知していて、劉備を叩いてしまえば喜ぶのは魏だということを理解していたからこそ、陸遜に反対していたのかな?

 魯粛が統一派=強硬派だとして、仮に呂蒙が安定派・現状維持派=穏健派だとする。魯粛呂蒙がいた時は、魯粛が強硬路線を採用してくれる可能性があるからまだ良かったけど、いなくなってしかも陸遜が上に立ったら、まず外征はしない。古参の将軍として出陣機会が減少してしまうのは反対という意味合いがあるとかかな?

 太史慈って、青州の人なんですよね―。曹操からのスカウトがあったというのも、青州兵対策・治安対策、安定化に有益な人材と見られたとかあるんですかねー?

 張昭は典型的な漢朝帰伏を念頭に置いた人という感じですね。演義のように周瑜の推薦ではない。呉の四姓、張氏だから参謀・顧問として置いといたって感じでしょうか?付かず離れずと言った距離感を保っていた感じですかね?まあ当然、孫権の私臣というわけでもないので、丞相を任せられることもないと。危険な領土拡大を訴える魯粛を嫌ったのも、安定第一で中央が安定したら、帰伏したらいいと考えてたからじゃないでしょうかね?しなかったらしなかったで孫呉を安定させて~という思考の持ち主だったと思えますね。

 「陸遜など一書生で劉備の敵ではない」と考えていたのは何故なんでしょうかね?陸遜も完璧ではない、頼りないところ、不安があったか。陸氏VS張氏的なものがあったのか?

 後漢のところは、あんまり触れるところがなかったですね。前著で触れられていた話が中心って感じだったので。

 顔良は、顔之推が顔良を同族だと『顔氏家訓』で書いているので、その通りなら徐州琅邪国の人。あと、袁紹軍の騎兵のエース麴義は、資治通鑑』注引『姓譜』によると涼州西平郡の名族というのをメモ。

 顔良諸葛亮と同郷だとしたら、そこら辺で諸葛亮に反関羽みたいなものがあったりして?諸葛亮が陽都で、顔良は臨沂か。琅邪王氏は東晋が故に勢力を増したってことであんま関係ないのかな?

 そういや黄巾が宦官に通じてクーデター、内部工作をしていたという話があったけど、漢朝をひっくり返すのではなく、これまであったように皇帝の挿げ替えを狙う反乱だったとしたら、黄巾・張角は誰を皇帝に建てようとしたのだろう?キョロクに近い清河なのかな?