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てくてく とことこ

15/12/18にアメブロから引っ越してきました。書評・時事ネタ(政治・社会問題)で書いていく予定です。左でも右でもなくド真ん中を行く極中主義者です。

日中関係史(有斐閣)

国際政治学とかそこら辺

日中関係史 (有斐閣アルマ)/有斐閣

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 さて『日中関係史』、手を出してかたしていなかったものをメモ。どうもこういう教科書的なのは、普通の時系列的な記述が多くて取り上げる点が多くない。近代化が始まる頃の見解の方が、新しい知見が反映されていたりして、既存知識よりも新情報があったりして、面白いことが多い気がしますね、個人的には。

 中国、清はアヘン戦争に敗れて南京条約を締結しても、既存の朝貢制度に変化はなかった。既存外交方針と併存したのに対して、日本の場合は、開国が対外関係を根底から覆すことになった。これは中国が当時の地域の中心・地域覇権国だった、大国だけだったことによるものなのでしょうか?

 岡本・川島編『中国近代外交の胎動』(2009)東大出版によれば、長崎貿易の崩壊によって、新しく開港された港に清の商人が進出。直に中国貿易を行うことになったと。条約外だから清に文句をつけてもとりあってくれないと。上海に領事館設置もダメだったと。

 開国で清の商人が思わぬ利益を手にすることになったわけですね。対照的に幕府は重要な収入源を失うことになる。これも一つの幕府制度の崩壊の要因なのでしょう。明治政府が対清貿易を有利に進めるために、対策に乗り出す。日清戦争に向かうのはまあ必然なんでしょうね。

 隣国が貿易で死活的な懸案を抱えている、強い立場にある清がその訴えを聞いて取り合わなければ、どうなるか?まあ言わずもがな、衝突以外ないですね。中国が外交相手の需要・背景を考慮しないという問題は、枚挙にいとまがないのですが、ひょっとして対日外交では初めての事例になるのでしょうか?

 後世からみて、同治の中興のような表面上の改革は、成功するわけがないと批判されるが、明治維新後の日本を見れば分かるように、抜本的な改革は相当に難しい。日清・日露戦争に勝利してから理想的な改革と言われるも、それまでは到底成功とは思われていない苦難の連続だった。

 清の近代化改革は、日清戦争の敗戦でその必要性を痛感してから。独日などの立憲君主制を模索するようになる。日本が条約改正に取り組んだのと対照的に、清の場合、朝貢体制の放棄に至るまで、そのような取り組みは出てこなかったと。まずその体制の放棄が必要だったわけですね。当時の中国は。

 1871年の日清修好条規(両国とも初めての対等な国交)で交渉は清主導で進み、条文は漢文を用いることとなっていた。朝鮮をめぐる争いも清が有利だった(故に福沢諭吉亜細亜に関わるなという脱亜論を書いた)。1886年の長崎清国水平事件、水平の暴動事件など一貫して日本が不利だった。

 日清戦争によって清中心の秩序から、日本の植民地獲得&日本中心の秩序にシフトしていくわけだけど、それ以前に日本との交渉で共存・共栄を図ることだって十分出来たわけですよね。そこら辺を考えなかった中国外交の視点の問題はもっと指摘されていいと思いますね。

 たまに日清戦争から日本の中国への侵略が始まった!!みたいな珍説を見ますけど、それ以前は日本のほうがむしろ脅かされていたという視点が抜けてしまってますよね。大体日本が負けていたら、日本はともかく朝鮮は清の植民地になったと思うんですけど、それは大丈夫なんですかね…?

 唐啓華(2010)は、対華21ヶ条の要求が、侵略の意図が明確になった・日中関係史の分岐点になったという見方に疑義を呈している。二十一ヶ条要求の脱政治化を求めていると。むしろナショナリズムを駆り立てた結果が、いかなる惨事を招くか教訓とすべきことかと思いますね。まあまだそこまでの視野をもつことはあちらさんには無理でしょうけど。

 1910年代、反日感情が悪化して教科書の副読本に反日的な記述が載るようになって、日本政府が抗議するようになった。なるほど、教科書問題というのは反日自粛を求める日本サイドから始まったのか。反日感情が煽られるたびに、日本はその自粛を要請した流れと。

 ワシントン体制は、独ソがふくまれていない。北伐前なので広東政府も関わっていない。また仏が関税自主権回復を拒んで進まないために、財政安定化・中国の安定化という本来の目的が達成されたとは言いがたかった。中国の安定が日本外交の至上命題だったわけで、対仏交渉をどうしてたか気になるところ

 日本の外交の失敗って、関係諸国の意向を重視しないとか、利害関係の調停が下手くそとかあると思うんですが、中国にも全く同じことが言えるんですよね。日本の過失ばかり注目して、中国の同じ性質や、ナショナリズムの煽りとそれ故に外交の選択肢を狭めるミスとか、もうちょっと強調して欲しいんですけどね。

 そういや、日清戦争は「反中」「反日ナショナリズムなき戦争だった。そして国際法のロジックに則った近代戦争だったのに、日中戦争は事変扱いだったから、公式な宣戦布告は行われなかったとか。物凄い奇妙な対比ですな。そういう意味では現中国と近代戦争は行われていないことになりますね。東アの二大地域大国国民国家後の近代戦争なし!はもっと注目されるべきですかね。

 こっからは戦後で。戦時中もあまり触れませんでしたが、あとは拾っていくメモですね。殆ど特に取り上げることもない教科書的なもの、まあ流せるところだったので。

 日本は議員を中心に貿易目的で、関係を正常化させたいという動きがあったが、朝鮮戦争で頓挫する。朝鮮戦争によって、東アにもココム・対共輸出統制が拡大し、51/2に国連で中国が侵略国認定され制裁が強まっていったため。

 軍民二分論を唱えることで、日本との経済関係を持つことを正当化した。戦争による負のイメージ、米の支配下にあることなどはわかるけど、経済による相互互恵の関係を「嫌い」ということで拒否する姿勢がわからない。まあ当時は未だ冷戦時代だから、接触事態がNGというのは理解できなくもないが。

 「以民促官」親中友好人士に働きかけて、民から官を動かそうという戦略。国府よりも大陸中国に友好的な政権樹立を願った。また米帝の支配下から脱して「中立化」を狙っていた。スターリン死後の朝鮮戦争の休戦、54インドシナ戦争の停戦と米ソの緊張緩和が進む。そして鳩山政権の成立と情勢が変わる。

 中ソ共同宣言で日本との関係改善が唱えられたように、中国も冷戦の枠組み内での関係改善を志向したと見える。55/4バンドン会議で米との関係はこだわらないと姿勢を軟化させる。周も毛も国交正常化を望んでいた。歴史問題も出てこないのは、当時の中国が「孤立化」の打破が念頭にあったから。

 しかし57/2に親台派の岸政権が成立することで流れが変わる。岸は米と対等に振る舞うために積極外交を展開。台湾・東南アジア・印・レバノン危機においても行動を見せた。岸は経済関係を進めることには積極的だったが、第四次民間日中貿易協定交渉の頓挫と長崎国旗事件で改善は難しくなった。

 長崎国旗事件がこれまで転換点と言われていたが、それ以前に米や国府優先で第四次~交渉が破断しているので、そこまで転換点でもないと。わざわざ書くほど、研究史的に重要なのかな?で、ソが原爆サンプル提供に、港湾の通信利用や合同艦隊の編成を条件にした。ソの支配強化だったので中ソ関係が悪化と。

 池田政権は国連における中国代表権問題と、中国との国交正常化を同時に図ろうとした(「二つの中国」)。が当然、国府が反発。そこに筋の通ったロジック・外交戦略もなかったと。主に「一つの中国」を両者が主張する所から始まって、「二つの中国」現在では「一つの中国・一つの台湾」になる。

 国府は、現実を無視して「二つの中国」どころか「一つの中国」に拘って、現代外交で悲願の「一つの中国・一つの台湾」の可能性を潰してしまった。中国人はメンツにこだわり、理想を追って最悪の結果を招く事例に事欠かないが、まさに良い事例だろう。

 蒋介石の非論理的外交を見ると、毛沢東文化大革命を連想する。もし「一つの中国」を放棄して、「一つの台湾」路線を選択した場合、当然自身の権威は落ちて引退すらありえただろう。それが出来ない背景があったのだろうか?自身の引退の際に、共産化のリスクがあったとか?

 64/1独自外交を模索していた仏ド・ゴールによる、仏中国交正常化。第三極外交でもあるし、日本の対中国交正常化の際の国府の扱いのモデルになること、ベトナムでの失敗を補填するための対中関係正常化というのちの米を連想させる行動に出ているところが、興味深い事例ですよね、コレ。

 (※追記、―と思ったけど、世界への革命輸出を企んでいる中国と、それを阻止したい米という図式とは全然違いますね。結局中国の革命路線放棄が米の目的であり、それ故のベトナム戦争ですからね。仏の場合は、大国としての名誉のためのベトナム戦争であり、そこに大義は何もない。米よりたちが悪いですからね。中国との国交回復も、結局は自国の国益追求のみ=対ソ牽制でしかないですからね。)

 ベトナム戦争文化大革命で、親台的な佐藤政権が中国と接近する選択肢は初めからなかったと言って良い。また沖縄返還の方が優先した。中国の核開発で佐藤も核武装を考えたと。しかし文革核武装と日本が引く要素が多いのに、ここでは書かれていないな。未だに「親中幻想」が強かったのか?

 60年代中盤に日本共産党は、中国ともソ連とも関係が悪化して切れるのか。中ソ対立でもどちらも選ばなかったと。だったら、自主独立で独自の進化があっても良さそうなのに、日本社会に「土着化」しなかったのは何故なんだろうか?中国の交渉窓口でなくなって、代わりに公明党が窓口の一つになるのか。

 中国との貿易をする友好商社約300社は、佐藤政権の訪台反対デモや毛沢東語録の学習などを行わないといけなかった。ここらへんの諸事情が、中国に関係がある人を、中国のスパイめ!なんて非難する要因になっていたりするんでしょうかね?まあそんな経験ある人なんて、そんな多くないだろうけど。

 佐藤とキッシンジャーの密使となった若泉敬によると、密約があったという。しかし外務省の栗山尚一は、外務省は関与しておらず、米軍説得材料程度で密約は本質的なものではないという。ほんまかいな?こんな大事な外交方針で外務省が関与していなかった、時の総理の独断だったって大問題では…?

 長くなったので分割。